真留句はこう言った

河流 真留句 (カワル マルク) の物語 

真留句はこう言った コロナ以後9 お米、ネズミ、コロナ感染者数 Post coronam

真留句はこう言った コロナ以後9 

 お米、ネズミ、コロナ感染者

 

冬、生鮮食品が長持ちするこの季節はコロナが長持ちする季節でもある。

 

真留句の友であり弟子であるムカデが真留句に問いかけた。

 

ムカデっち「我が友、真留句よ、君に尋ねたい事がある。私の知りあいの蟻がこのような事を言っていたのだ;『コロナの感染者数は人口比で見ると僅かなパーセントであり、死亡者数も交通事故による死傷者数や自殺者数に比べると少ない。だから人間たちはコロナを恐れ過ぎているのではないか、もっと楽観視しても良いのではないか』と。

私自身はコロナに対して油断すべきではないし世論もだいたいはそんな雰囲気なように見受けられます。しかしアリっちの言う事にも一理あるように思われます。

それで、少なからぬ人々が飲み会にも行けば、圏外を越える移動もするのも無理のない事のように思えます。

 コロナ対策で経済活動を制限して、その影響による生活困窮による死亡者、それから人々の生活への支障という事を秤にかければ、秤は経済活動制限による害の方が重いというジャッジを下すかも知れないと。

そこでこの事に関する、君の見解を聞かせて欲しいのだ。」

 

真留句は答えた;

真「私はコロナを甘く見るべきではないと考えている。その理由はいくつかある。1つはコロナがまだ未知の部分が多いのもである事。

また罹患後の後遺症も軽視できない。

だが私が一番、ポイントだと思うのはその感染者数の増加の仕方、振る舞いにあるのだ。

感染者の人数というのは、もし手洗いやマスク、コロナ3密を意識するとか、罹患者の隔離いうことをせずに普通に生活するならば、指数関数的増加、即ち、ネズミ算なり利子つきの借金なり、噂の広まり方ような増え方をするのだ。

これは急激な増加の仕方をする。油断できない。

あるエピソードを話そう。

 

昔、ある殿様が手柄を立てた家臣にどのような褒美が良いか尋ねた。家臣が応えて言うには『将棋盤のマス目に1日目はお米1粒、2日目は2マス目に2粒、3日目には3マス目に4粒、4日目には4マス目に8粒・・・・という風に81日目まで倍々にお米を下さい』

と言った。殿様は『そんなもので良いのか、欲のないやつじゃのう』と言った。

ところが数日後、別の家来が言うには『大変です、81マス目までのすべてのお米はこの国の全てのお米をかき集めても足りません』と言った。

 

私には、コロナの感染者数の人口比の少なさや、死亡者の交通事故死や自殺者数との比較で少ないという考えは、ちょうどこの殿様が、はじめの10日あたりまでの16粒なり256粒が大した数でないと考えているのと同様に私は思う。

故に私もコロナを甘く見るべきではないと考えるのだ。

ちなみに、32日目、32マス目には40億粒を越える。

 

なおこの倍々の比率というか利子率2はコロナについては現実には変動する。気候や人種の免疫の体質、人の位置、配置、それから人の心構え、意識の持ちようなどでだ。しかし、要因は多すぎて私には網羅的には列挙できない。

利子率に影響を与える要因のうち気候やウィルスの性質といったものをコントロールするのは難しい。人がコントロールできるのは人為的要因のみだ。経済活動、飲み会に行く、行かない、生活のスタイル、そして意識、心構え。

特に意識と心構えこそは、人為的要因で利子率を下げる行動のスタート地点、出発点になる。

 

だから、政府やメディアは時として過剰なり、意図的とも思えるほどコロナの害をアピールし注意を喚起してるのだろう。」

 

真留句はこう言った。

 

ムカデっち「今度、アリっちに会ったらそう言ってみるよ。」

 

ムカデはそう言った。

 

 真留句はこう言った コロナ以前-20 真留句、世界の中心でiを叫ぶ

で32日目にお米が40億なり50億になる事の計算も書く予定です。数学に興味ある方はそちらもどうぞ。

真留句はこう言った コロナ以前-20 真留句、世界の中心でiを叫ぶ Ante coronam

真留句はこう言った コロナ以前 -20

 

世界の中心でiを叫ぶ真留句

 

 この記事の内容の理解には数学に関する予備知識が必要です。

必要なのは、あくまで知識です。数学的思考力、知力、推論、計算力などは不要です。

必要なのは三角関数と指数関数のグラフの概形、振る舞いの知識と、オイラーの公式と呼ばれるシンプルな公式です。幾分、本文の後に補足説明しました。

 

以下、本文

 

「今、世界に、我々に最も必要なものはi ではないか!

 

 人類へのi

 世界へのi

 生きとし生けるものへのi

 草木へのi

 動物へのi

 地球へのi

 己自身へのi

 妻へのi

 夫へのi

 両親へのi

 子供、子孫へのi

 七代後世の者達へのi

 友へのi

 同僚へのi

 商品へのi

 サービスへのi

 労働へのi

  made in own country へのi

 平和へのi

  同志へのi

 

 iは上と下、高さと低さ、優劣、順序、比較、成功と失敗、もろもろの価値評価を超越し   てしまう。(注1)

 

 iこそは破壊と破滅をもたらす指数関数exp(t)

持続可能、調和と循環、大いなる円環(corona)、巡り巡りたる永遠回帰を表し、また万物をも生成する三角関数cos(t)sin(t)に変えるのだ、

即ち、オイラーの公式(注2)

 

exp(it)=cos(t)+i sin(t)

 

のようにして!」

 

 

真留句はこのように世界の中心でiを叫んだのだった・・・・・が、急に思い出したかのようにつけ加えた;

 

「しかし溺iはかえってマイナスであることをお忘れ召されるな!

  i×i = -1 

  なのだから !

 

 

 

 

補足

 

注1、虚数ii×i=-1)が登場する実数を拡張した複素数の世界では順序は存在しません。より正確には順序を定義できません。例えば2つの数字2+i-5+3iの大小の比較は出来ません。どちらが大きくてどちらが小さいかということは意味が無いこと、決める事が出来ない事です。

 

 これは大小関係、順序が存在した(正確には定義できる)実数の世界とは異なる性質です。実数の世界では35ならば、3<5のように大小関係、順序が存在します。

 

注2、※ e^texp(t)と書いたりもしますので、この記事ではそうしてます。

 

 指数関数exp(t)tの増大とともに急激に増大する性質を持ちます。

大雑把には、ねずみ算の増え方、複利計算の利子つき借金などのような増大を表します。

またコロナの感染者数のもこれに近い性質を持ちます。単位時間あたりの増大数が現在の数に比例する、といった事象を表します。(注3)

 グラフは前述の他に、地球上の人類の人口なり、化石燃料の使用量なり、GDPのように急激な増え方をするグラフをイメージすれば良いような気がします。

 

他方、三角関数cos(t)sin(t)のグラフは波のような概形です。

sin(t)ならば、まず山がきて、山の頂上で最大値1となります。次に谷がきて最小値-1を谷底でとります。それから、また山が来て、それから谷・・・・と波みたいになって同じ形を繰り返します。1と-1の間を永遠に行き来します。

 

 

そして、指数関数と三角関数を結びつける公式

 

exp(it)=cos(t)+i sin(t)

 

オイラーの公式と言います。

 

この記事のテーマは、

【破滅や破壊を表す指数関数exp(t)ti()をくっつけてitで置き換えるとexp(it) = cos(t) + i sin(t) となって調和や自然界における健全さを表す三角関数cos(t) 、sin(t) に変わる】

というものでした。

 

 

注3、以下は本編のテーマには関係のない、おまけです。数学に興味のある方向けの注。(数学に興味ある人はすでに知ってる場合も多そうですから、存在意義が問われる部分もありますが、書きたいから、いちおう書いてみます)計算とかも書いてます。

 

 数式を用いて【単位時間あたりの増大数が現在の数に比例する事象】が指数関数で表されることを説明したいと思います;

時刻tにおける、ねずみの数なり借金の金額なりをN(t)と書いて、【単位時間あたりの増大数が現在の数に比例する、といった事象】を数式で書くと

 

dN(t)/dt = βN(t)

 

となります。βは比例定数といいますか、定数で借金の場合なら利率のようなものを表します。

 

この方程式の解は (4に解法)

 

N(t) = Aexp(βt)

 

と、指数関数になります。A積分定数です。

A=1β=ln2の時はN(t) = 2^t

となってねずみ算の増え方、

 

A=10万、β = ln1.2 の時はN() = 10×(1.2)^t

となって、利息20%で10万円の借金をした場合の借金の額を表します。

 

 

 ln は自然対数。即ちe = 2.71828・・・・を底とする対数 log

 

4、方程式の解き方 

 

dN(t)/dt = βN(t)

 

両辺にdtをかけてN(t)で割って

 

dN(t)/N(t) = βdt

 

両辺を積分して

 

ln N(t) = βt + C   ※ ここで C 積分定数

 

両辺の指数(exp)をとれば

 

exp(ln N(t)) = exp(βt + C) 

 

左辺は指数exp と対数lnの定義によって、あるいは互いに逆関数の関係にある事から

 

左辺=exp(ln N(t)) = N(t)

 

右辺において積分定数 exp(C) = A と書き直すと

 

右辺== exp(βt + C) = exp(C)×exp(βt) = Aexp(βt)

 

以上から N(t) = Aexp(βt)

 

 真留句はこう言った コロナ以後9

ネズミ、お米、コロナ

 

との関連で倍々になって行くネズミの増え方、お米の増え方、コロナ感染者の増え方が32単位時間経過後に50億に近くなる事の計算。

 

 

今回はコロナ感染者がはじめに1人、1時間後には2人、2時間後には4人、3時間後には8人・・・・と1時間毎に2倍になって行くケースを考えてみます。

50億人に近くなるのはいつでしょう?

 

これは高校数学の対数の分野の身近な演習問題にもなると思います。

 

 

t時間後に50億人に達するとして、

2^t=50億=50×10^8=5×10^9

 

こういう桁が大きい計算をする時は対数が役立ちます。10を底とする常用対数をlogと書くことにして先の方程式の両辺の対数logをとれば

左辺=log(2^t)=tlog2

右辺=log(×10^9)

log+log(10^9)=log5+9log10=log5+9log(2×5)=log5+9(log2 + log5)=10log5 + 9log2

 

よって

tlog2=10log5 + 9log2

 

両辺をlog2で割って

 

t=9+10(log5/log2)

 

ここで常用対数表の値を見て log2=0.3010 、 log5=0.699 を代入すれば、

 

t9+10×0.699/0.3010)≒9+23.232.232

 

よって32時間後、2日目にはだいたい50億に近い人数になります。(検算したら42億人くらいでした)

真留句はこう言った コロナ以前-7 月と700円 Ante coronam

 この記事は【真留句はこう言った コロナ以後7 月と700円】と対をなしておりますので、この記事を読了後は、よろしければ、そちらもご覧下さい。

 

 関連記事 【真留句はこう言った コロナ以後7  月と700円】

       【真留句はこう言った コロナ以前ー15A 人生三分の計】   

              特に後者を読了なされてから本記事をお読み下さい。

 

 

以下、本文;

 

 夜。

 

真留句は弟子であり、また友でもある者の家を訪ねるために山路にある農道を独り歩いていた。

 

無論、辺りに真留句の他には人は無かった。

 

 しかし天空には満月に近い月があった。収穫をずっと前に終えた田畑や農道といった辺り一面は緑掛かったモノトーン(単色)と静寂に覆われていた。

 時折、虫の、か細く小さな音のモノフォニー(単旋律)が聞こゆるのみである。それとて長くは続かず、休符の方が長かった。

 

 その青緑の単色の世界は地球上というよりは月の世界と言っていいものだった。

 

そして真留句は昼間の多色のきらびやかな世界よりも、この月の単色の世界を愛していた。

 

真留句はこのような時間、瞬間を人生で最も愛していた。

 

 真留句はふと、月の住人は人の中では自分だけなのだろうか?と考えた。

山の農道の下方には民家もたくさんあり、普通の道路も通っている。しかし夜分につき人はほとんど家の中である。

 また外にいる者も歩く者はなく自動車に乗っていることだろう。田舎の山間部の移動というのはまず徒歩に頼るという事はありえないのだから。しかし車では、この月の支配する世界の住人にはなれない。

 

 山間部の夜道をわざわざ歩く偏狂な者は他にはないようだ。

 

 真留句はこう考えていたが、これ以上考える事は俗な事と思って止めることにした。

折角、月の世界の住人になれたのに、これ以上この方面を考え続けるならば再び地上の住人に戻ってしまう気がしたのである。

 

 次に、今の刻を詩にする事を試みた。が、詩なぞ学んだ事もないし、作った事もない。興の赴くままである。

 

 10分くらいしたら一句出来た。

 

 

独歩山路裏

 

月照天地

 

辺覆緑単色

 

但聞虫単音

 

 

そのまんまである。果たして、規則に合致するのか、詩として成り立っているのか、わからない。まあ、自分のために作った詩であるし、どうでも良かろう。

 

真留句はここで考えるのを止めて、無心に歩いた。

 

真留句は再び月の住人になったのである。

 

 

 真留句が山を抜け街に近づくと、今度は三味や胡弓の音や唄が聞こえて来た。

 街に辿り着く。

 街に入ると急に人の数が多くなった。

 

 どうやら街では年に一度の秋祭りが行われているようであった。

 

 町の人が唄い、奏し、踊っているようだが、周りの多くの観客に遮られて見ることが出来ない。

 観光客らしき人が多そうである。そういえば街はずれの道路には、たくさんの車が路駐していた。そして、それらの車のプレートの都道府県名は多岐に渡っていた。

 有名な祭りなのであろう。

 踊りは町の道を練り歩いて行われていた。

 

 

 三味や胡弓の音、唄は聞こえるが踊り手の姿を見ることが出来ない。

 

 聞こゆる胡弓は哀愁漂う響きなれど、その音と、いろとりどりの洋服を着た大勢の観客が1つの場所に同居する様に真留句は違和感を覚えた。ミスマッチな感じがしたのであった。

 

 真留句は踊りを見ることを諦め、弟子であり友である者の下に向かうために街を抜けようとした・・・・が、道には観光客が溢れていて、町の道を進むことすらままならぬ。

 辺りは汗と熱気と人込みに包まれていた。

 

 

 涼しい山路では汗をかくことがなかった真留句だが、街に来てから、汗をかいた。

 真留句はなんとか苦労して町はずれの友の下に辿り着いた。長い山路でもくたびれることのなかった真留句であったが、街に着いてから、一気に疲れてしまった。

 友の居宅の場所を人に尋ねることについては秋祭りのおかげで夜間ながら苦労せずに済んだ。

 

 友の居宅の前に行くと、楽音が聞こえてきた。三味や胡弓ではなくピアノの音色だった。

 民謡ではなくクラシックか何かの練習曲のようであった。

先ほどまでの人込みと熱気あふれる民謡の世界とは、ここは別世界のような気がした。

 しかし、ピアノの音は楽音としては、とても不味いものであった。習いたての子供がピアノの練習をしているかのようにも聞こえた。

 しかし友は確か独り身のはずで、子はいなかったはずである。

 とはいえ、真留句は練習中の下手な音楽を聴くのはそれほど嫌では無かった。むしろ好きな方かも知れぬ。

 国際コンクールか何やらで入賞やら優勝した若手音楽家の演奏会に行った事がある。確かに技術、テクニックは素晴らしかった。しかし、何やら、楽音と演奏が曲芸のように観えてしまって、一向におもしろくなかった。

 

 子供のピアノのお稽古の音を聞いている方が、よっぽどいいように思われた。

 

 真留句はしばらくこのピアノの稽古の音に耳を澄ましていた。練習はなかなか終わらないようである。やはり下手くそであった。旋律が途切れ途切れになる度に真留句も心の中で「がんばれ、がんばれ」と声援を送った。そのうち、そのぎこちない楽音に何故か没入してしまっていた。

 

 先ほど出た汗もいつの間にやら乾いてきた。

 

 この練習が永遠に長く続くかのように思われて、真留句は意を決して、呼び鈴を鳴らした。

 

呼び鈴を鳴らした途端に、旋律がもつれて音は止んだ。それから、しばらくしてから戸が開いた。

 

竜一「遠いところ、よくぞ、おいでになられました。中へお上がり下さい。」

真留句「お邪魔しますぞ。」

 

真留句は中へと案内された。

 

竜「今、お茶を淹れます、お待ちください。」

そう言って、竜一は部屋を出て行った。

 

 案内された部屋の中にはキーボードがあった。真留句が鍵盤を押すと、軽いタッチであった。安い部類のものだろう。機能ボタンもあまりないシンプルなキーボードである。先ほどのピアノの音はこのキーボードのものなのだろう。譜面台に開かれた楽譜の表紙をキーボードの裏に回って覗き込む。

 

 バイエルとあった。

 

 しばらくして竜一がお茶を持って来た。盆の上には湯呑が2つ、2つの皿それぞれに練羊羹がまた2つずつ置かれていた。

 真留句と竜一はお茶を呑んだ。夜更けではあるが玉露のようである。美味しい茶であった。真留句は甘いものが苦手だから羊羹には手をつけなかったが青磁の皿に置かれた練羊羹は美しく見えた。

 

真「町は祭りのようだが。」

竜「ええ、そのようですね。」

 

竜一はそう応えたが後が続かない。どうやら竜一は秋祭りには関心が無いようである。

 

真「先ほどのピアノはあなたが弾いてらしたのか?」

竜「ええ。この家には私しかおりません。」

 

 先ほどの不味い演奏の主はどうやら、友であったらしい。真留句は「あまり、上手ではないようだが・・・」というような事を口に出そうとした。しかし、その寸前で止めた。自分が山路の農道で作った一句の下手くそな詩の事がちょうどその時、頭に浮かんだからである。

 

 自分の下手をさし置いて他人の下手を言う事は出来ない。

 

 それに真留句にとって詩はまったく経験も無く、今日が詩の世界の第1日目である。この目の前の友も音楽入門者とはいえ、日毎にある程度の時間を、ある程度の年月をキーボードの稽古に費やして来たのであろう。バイエルの教本は60番の譜面が開かれていた。

 そして先ほどの句が自分の為だけに考えたのと同様に友とて、自分の為だけに奏しているのだろう。先ほどの稽古からはそのような印象を受けた。

 

 それに彼はみたところ真留句より年は上の50歳過ぎのようである。そういった大人の男が子供の稽古ような楽音を紡ぎ出すというのは、それはそれで貴重な事なのかも知れない。

 そしてピアノ入門のスタートとも言えるバイエルに50歳も過ぎたところで取り組んでいるという事自体、ある程度珍しいことのように思われた。

 

 玉露のカフェインが効いてきたのか、そのうち竜一の方から話し出した;

 

竜「あなたの庵に閑次や長三とともに訪れるまで私は公務員をしておりました。これといって取り組んでいる事もなかったのですがクラシック音楽を聴くのは好きでした。

 しかし、ちょうどあの頃、今まで楽譜という物を読んだことが無かったのですが、何となく好きな曲(それはバッハの平均律のフーガ)の楽譜を買ってしまいました。いったい、私が好きで聴いているこの曲の楽譜とはいったいどんなものなのだろう?と思った訳なのです。その時は楽器を弾くことになろうとは思ってはいませんでした。

 しかし、楽譜を見ても、私は音が想像できない(=視唱できない)ので、楽器を買う事にしました。ちょうど手頃な価格でネット通販でキーボードを入手出来ましたので。(あなたにもっと早く会っていれば、ネット通販ではなく地域の楽器店で購入した事でしょう。)

 そうこうしているうちに、私は自分の好きな曲、バッハの変ロ短調のフーガを生きているうちに弾く事が夢といいますか、人生の目標となってしまいました。

 あなたの庵で授けられた2つの策【人生三分の計】と【半YX】ですが、私は農業はやりたい訳ではないですから【半YX】を採用しました。独り身ですし公務員も止めて労働時間の少ないアルバイトに転職しました。

 私は公務員をしていれば、婚活にも有利だと思い仕事を続けて来ました。仕事にやりがいを感ずる時も時折ありましたが、根本的に心に届くものではありませんでした。そして、なかなか婚活もうまく行かず、そしてまた50歳も過ぎ、自分の人生というものを考え始めた時、音楽が私の心を捉えたのです。あなたの庵での話と婚活の不調というのもあり、私はもう結婚をあきらめ、音楽の道に進むことにしたのです。

即ち【半YX】においてY=エクセル入力のアルバイト、X=音楽を代入したのです。」

 

真「どこかに習いに行っているのですか?」

 

竜「いいえ。独学です。お金や時間に余裕がないものですから。公務員時代の貯金は家や車のローンの返済に消えました。独り身ですし家事、アルバイト、そしてピアノの練習をこなせば時間に余裕もありません。」

 

 真「少し前、そば屋さんをしているあなたの友人の下を訪れた際に、彼は【アルバイトにはできることなら行きたくはないですし、お店が経済的に軌道に乗って、アルバイトを止めて、そば屋さんだけで生活するのが夢です。しかし、それは奇跡でも起こらない限り無理である】と言っておりました。あなたも、音楽でお金を稼げるようになって、アルバイトを止めることを目指しているのですか?」

 

真留句はこのように竜一に尋ねた。というのは、竜一が音楽で飯を食って行くのはとても難しいように思われたからである。それは、かの辺鄙な場所で閑古鳥系そば屋を営む、彼の友人がそば屋さんで生計を成り立たせるより、さらに難しい事だろう。

 

竜「いいえ。まず、音楽がお金にはならない事は覚悟してます。才能ある幼い者が音楽の道を歩み始め、日毎に数時間、千日の稽古と万日の鍛錬をもってもなお、音楽で飯を食うのは容易ならざる事なのは知っています。

 あなたの【半YX】は何も新しい事ではなく、芸人などが売れない時分にY=アルバイト、X=漫才、を代入して以前より実践している事なのです。

 彼らはいずれXで、すなわち漫才で飯が食えるゆになって、アルバイトなどせずに済む事を目指します。そして、幾人かはそれを実現します。

 私の場合は無理でしょう。私は一生【半YX】のままでしょう。

 しかし私にとってそんな事はどうでも良い事なのです。

 重要なのは生きているうちにバッハのフーガに辿り着けるか、どうか、ただそれだけなのです。

 この歳になって楽器を始め、果たしてそれが可能なものなのか・・・・。

 リストやショパンラフマニノフの難曲が難しいのは世でよく取り上げられますがバッハとて容易ではないと聞きます。バッハのフーガをきちんと弾くことは、リストやショパンのきらびやかな高速のパッセージ、オクターブを越える跳躍のある難曲に劣らず難しいそうなのです。」

 

 この男の話した事は音楽や芸術が所詮、遊び事に過ぎず、魂の救済とは無縁なるものと考える者にとっては、理解し難い事であろう。

 

 この男にとってはバッハのフーガを奏する事こそが、人生の目的であり、魂の救済にすらなってしまったようなのである。

 

 が、真留句はその後にけっこう現実的な話をしたのだった;

 

真「私は【人生三分の計】と【半YX】をあくまで過渡的戦略の策として、お話しました。即ち、あくまでアルバイトやYといった、嫌々ながら現金収入を得るという分野は最後には消滅させて、半農半Xのような理想状態に持って行くための、あくまで手段なのです。

 ですが、私の策の私の想定した使い方など、確かに、どうでも良い事なのかも知れません。人の役に立つならば、それで十分です。

【真留句の言ったことなどに、何ほどの事があろう!】

まさにそういう事なのです。」

 

真留句はそのように言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

真留句はこう言った コロナ以後7 月と700円 Post coronam

 この記事は【真留句はこう言った コロナ以前-7 月と700円】と対をなしております。先にそちらご覧下さい。

 

 関連記事 【真留句はこう言った コロナ以前ー7  月と700円】

       【真留句はこう言った コロナ以前ー15A 人生三分の計】  

        上記、両方を読んでから本記事を読むのが良さそう。 

 

 

以下、本文;

 

夕刻。

 

コロナの後の秋、再び、真留句は友の下へ向かう。

 

山路は夕刻も美しかった。しかし、それでも真留句は夜の方が好きであったのだが。

 

街に近づく。今回は例の秋祭りの日を避けるために入念に計画を立てるつもりであった。しかしその必要は無かった。

 聞けば、今年は中止となったらしい。コロナの影響で、である。

 

 今回は街はひっそりとしていた。観光客どころか街の人にもほとんど会う事がない。しかし時折、車が通る。

 

 人気(ひとけ)の少ない街。これが普段のこの街の姿なのだろう。

 

 真留句が人通りのない町を歩いていると、どこからか、聞き覚えのある三味の音が聞こえてきた。

 昨年の秋祭りで聞いた民謡である。三味は素朴な音色であった。何故だか、前に友の下を訪れた際、途中の山路、かの月の世界で聞いた虫のか細い旋律を思い出した。

 真留句が歩くうちに音はだんだんと大きく聞こえるようになって来た。音の源に近づいているのである。

 そのうち胡弓も加わる。

 

 真留句は音の出ている建物の前で立ち止まった。

 

【西町公民館】とある。

 

 真留句は眼を閉じて、この民謡に耳を澄ました。

 三味と胡弓だけ。人の唄はつかない。今回は楽器のみの編成なのだろう。

 この建物の前に佇むこと、どのくらいの時間であったであろうか。

 

 1年前は、それほど心を曳かなかった民謡であったが、今のこの音は心を捉えるものがあった。

 

 秋祭りが中止になっても、なお三味、胡弓、唄、そして踊りの稽古に励んでいるのであろうか。

 

 各地の祭りのみならず、演奏会、演劇、舞台を始めとするいろんな芸術の分野がコロナで活動の中止を余儀なくされた。

 

 しかし、真留句にとっては、観光客でごった返していた1年前よりも今の方が街の民謡に触れる事が出来たように思われた。

 

 町を歩いていると、他の町内の公民館からも三味や胡弓の音が聞こえた。三味や胡弓に加えて唄も聞ける場合があった。逆に人の唄だけの時もあって興が乗った。

 また1軒のみであったが民家から三味の音が出ていたのだが、これこそ我が意を得たり!という音であった。

 

 これがこの街の日常だというなら、なかなか風雅な街である。だが不思議なものだ。俗な祭りのための日頃の稽古が俗を脱してるのだから。

 

 そういえば、昨年の明くる朝に友から聞いたところによれば、街の踊り手や唄い手達は一晩、夜が明けるまで踊りつくし、唄いつくすとのこと。そこまでつき合う観光客も少なかろうし、そもそも踊り尽くした先には、疲れ果てたトランス状態で観客がいようがいまいが意に介さない境地に至っているのやも知れぬ。そう考えるなら、観衆の多寡にこだわっている私など、まだまだ修行が足らぬ。

 

 真留句が公民館や三味の民家で長い寄り道をしたせいか、辺りは夜になっていた。

 

 そして友の下を訪れる。またしてもクラシックの練習曲らしきピアノの音色が聞こえてきた。今もやはり不味い演奏で子供の練習のようであった。

 1年前は割と耳を澄ましていたが、今回は早く、この演奏から逃れたい気持ちにかられたので、呼び鈴をすぐに鳴らした。

曲が区切りの良いところまで奏されると、音は止んだ。それから、しばらくしてから戸が開いた。

 

竜一「遠いところ、よくぞ、おいでになられました。中へお上がり下さい。」

真留句「お邪魔しますぞ。」

 

真留句は中へと案内された。

 

竜「今、お茶を淹れます、お待ちください。」

そう言って、竜一は部屋を出て行った。

 

 キーボードの譜面台に開かれた楽譜の表紙をキーボードの裏に回って覗き込む。

 

 バッハ クラヴィーア小曲集 とあった。

 

 しばらくして竜一がお茶を持って来た。盆の上には湯呑が2つ、2つの深さのある器には、かき餅が盛られていた。

 真留句と竜一はお茶を呑んだ。夜更けにつき、ほうじ茶のようである。美味しい茶であった。真留句はかき餅も食べた。

 

真「秋祭りは中止となったそうだが。」

竜「ええ、そのようですね。」

 

竜一はそう応えたが後が続かない。やっぱり竜一は秋祭りには関心が無いようである。

 

 この友にとっては、例の秋祭りが開催されようが中止になろうが、そして現在のところ祭りの時だけで済んでいる観光地化が常のものとなったとしても、心をかき乱される事はないだろう。

 真留句は、先刻、公民館の前で聞いた誰の為にでもなく奏されていた唄や踊り、民家で自分の慰みのために鳴らされていた三味が、観光客のために、あえて奏されるようになるのがこの街の【常】に変わってしまうならば、と考えるとゾッとするのだった。(まあ、たまにならば良いのだろうけれど。)

 

 

真「ピアノの方はいかがなものか?」

 

竜「相変わらずです。年ですし、なかなか身に付きませんし、練習時間も思うようにはとれません。日暮れて道遠し、というやつですね。」

 

 コロナは友の芸術活動は妨害しなかったようである。そういえば、コロナ下になってから楽器(電子楽器含む)がよく売れているとの事。コロナは、おカネにならない芸術を嗜む愛好家に関してはその芸術活動を促進しているようだ。

 芸術の行為者と観衆とが分かれておらず、一体であり同一人物であった時代。それは芸術が観衆にとって外からやって来るのではなく、内から生じて来るような時代でもあった。コロナは、そのような古き良き昔の形態へと人の世の芸術を押し戻しているようである。

 そういえばコロナは1次産業のような贅沢ではない商品の生産活動も妨害しなかった。自ら行為する芸術というものもコロナは許容してくれてるようである。

 真留句は、【コロナが妨害した事と、妨害しなかった事】、これをテーマに一度考えてみたらいいような気がしてきた。

 

 ところで、あまりピアノについて問うと、そのうち竜一が腕前を披露しかねないので、あまり音楽の事は尋ねない方針にする事にした。折角、美味しい物をたくさん口に入れた後に、不味い物を口に入れるのは避けなくてはならぬ。それは口のみならず耳とて一緒である。

 

真「アルバイトの方はいかがなものか?」

竜「転職しました。今は警備員を、道路の交通誘導をやっています。【半YX】の事で1つ気がついた事があります。YXのバランス、相補性についてです。

私は始め、Y=エクセルの入力のアルバイト、X=ピアノの練習、としていました。

 しかし、ある時から心や身体の調子が優れず、不眠症に悩むようになりました。ピアノの練習も何やら身が入らず、うまく行きません。

 ある日、車が故障して、買い物に歩いていく機会がありました。その日は久々に良く眠れました。その日は久々に良く歩きました。それまでは車に頼り切りでしたから。

 身体を動かすといいのではないか、と思い歩く時間を増やしました。そうすると身体もメンタルも調子が良くなって、眠れるようにもなりました。ピアノの練習もはかどるような気がします。

 そこで私は身体をあまり動かさないY=エクセルの入力のアルバイト、ではなく身体を動かすY=警備員の交通誘導のアルバイトに転職、代入し直した訳です。これはX=ピアノの練習とも相性が良いように思われます。

 すなわちこれが教えることはXY、どちらか一方が肉体労働ならば他方を頭脳労働にしてバランスを取るのが良い、という事です。

 逆の考えで、Xで音楽をやる人がYも音楽とか、またXで農業、Y林業、というケースもあると思います。XYも自分の好きな事やあるいは好きな事に近い事。これも1つの手ですが生活全体のバランスで見ると、不眠(頭脳労働一辺倒の場合)や肉体疲労(肉体労働一辺倒の場合)になる可能性があります。

 

 また、あなたが過渡戦略であって、理想のライフスタイルに持ってゆくための一時的な手段、通過点に過ぎない、とした【人生三分の計】や【半YX】ですが、これはこれで完成された有効性を持っています。Yにおける柔軟性においてです。

 社会情勢は昨今、著しく変動します。コロナ以前もそうでしたが、特にコロナは社会を激変させました。

 この時【半YX】における、生活費を得るためにしている労務Yは柔軟に変更が効きます。私が転職したようにYにしがみつく必要はありません。終身雇用を目指して1つのきちんとした会社、職にしがみつくような必要はないのです。

 しかし、自分の核となる好きな事Xは変えずにその道を歩めます。

 不易流行と言いますが、この【半YX】や【人生三分の計】においては、Yは流行、社会情勢によって柔軟に変化させ、Xは時勢に流されることなく不変なものとするのです。

 

 また、自分の好きなXに関しては好きなように取り組めます。

 仮に私が幼少の頃から音楽の英才教育を受けて、多大な努力をもってピアニストになったとします。

 生活費は音楽で得られますから、余計なアルバイトをせずに済みます。アルバイトの時間の分、時間が浮く訳です。しかし、常に世論、世間受けなどといった、別の障害が現れるでしょう。

 聴衆、否、観衆受けの良い、自分の好きでもない曲を、観衆受けのするように弾かねばならぬかも知れません。

 そうです、他ならぬ音楽で生計を立てるが故に、その音楽がおカネの支配下に置かれてしまうのです。

 この結果は、幼少の頃からの多大な努力を支払った割に、割に合わない、コスパが悪い、と言えるのかも知れません。

 そう考えると、あなたの【半YX】は英才教育や多大な努力とは無縁に、そして、おカネ、世間の支配から逃れて、自分の好きな事に、好きな仕方で取り組む事が出来ます。

 まあ、そういった自分の好きな事で生計を立てるような超一流の身になったことはありませんから実際のところは知る由もない訳ですが。自分の好きな事で社会に貢献する、貢献できる、社会から承認を受ける、それは感慨深く、一番良いのでしょう。

 しかしそれは私にとっては、ついでのようなものです。社会の承認は得られずとも、先ず、何より己自身からの承認を得る事。これが何より大切にすべきことのように私には思われます。例え深い感慨が得られぬとしても。

 

 いろいろ、申してきましたものの、【人生三分の計】や【半YX】はあなたが教えて下さった事であるから、私が今まで述べて来た事は、すでに全て知っておいでの事なのかも知れませんが。」

 

真「否、そんな事はない。さすがは元公務員だ。私にはそのような事はまったく考え及ばなかった事だよ。         

 発案者よりも使用者の方が良い使い手になるということは、よくある事だ。

ところで今日はもう遅いから休ませてもらえないだろうか。」

 

真留句はそのように言った。とにかく話が長引いて、竜一がキーボードの練習の成果を披露し出すのを阻止したかったのである。

 

真留句以外 買い物という名の投票 ver.2.2

  最近、選挙があった。
選挙の際には投票が行われるが、もっと影響力があって見落としがちな投票がある。

それは買い物というか、お金を使うことである。

結論からいえば、我々の購買行動は、一種の投票であって、お店の生き残りを決定して、社会に影響を与えていくことになる。

例えば、昔から地域にあったA書店と、最近進出してきた、大手チェーン店のB書店という本屋さんが近くにあったとしよう。
そこであなたは、「今日の料理ビギナーズ」というNHKのテキストというか本を買うことにする。
A
店でもB店でも「今日の料理ビギナーズ」は扱っている。
A
店で買っても、B店で買っても、同じ本が手に入る。
買う人にとっては、どこで買っても同じに見える。

短絡的には品揃えの豊富だったり、店内の装飾があざやかなB店を選択してしまう人が多いだろう。
情に厚い人や地元贔屓(びいき)の人はA店を選ぶかも知れないが。

その結果、A店は店じまいしてB店が生き残ることになる。

こういうことの積み重ねが今の街を形作ることになる。

昔ながらの個人経営、家族経営の店は減り、大手チェーン店、スーパーマーケット、コンビ二ばかりが街に残る。
安いし、見た目もいいし便利だし、文句はない気もする。

しかし、息苦しい世の中だとは思わないだろうか?
そういう所で、従業員が働き甲斐をもって、生き生きと働けるだろうか?

短絡的に買い物をする人々は、将来的に自分や子孫の首を絞めていることになる気がする。
我々の買い物という投票の結果が生き残るお店を選ぶ。
日本や近代的な資本主義が発達した国は治安もいいし、食うには困らないが、閉塞的な気もする。
現代の日本に息苦しさを感じるが、それは、我々の買い物(=お金による投票)の結果である。

打開するには、買い物は投票である、という自覚を持つことが第一歩。
そして第2には、実際に買い物の際には気をつけること。長期的な視点を持つこと。
単に買った物、買う物を意識するだけでなく、店を選らんだ、と、店側も意識すること。

この店では働きたくない、という店では買わない方がいい。そんな店で買い物すると、そんな店が残って、そんな働き方しか世の中に残らなくなるからである。

店のサービスがいいと感じても、それが従業員にひどい負担となって、自分が従業員の立場にとても立てないときは、悪いサービスだとみなす叡智が必要だ。
異論もあろうが、「自分が嫌な事は他人にもさせない」というゴールデンルールはだいたいあてはまってほしい。

選挙の投票と同じで一人一人の行動は影響力は少ないけれど、積み重なることで、自分の環境にモロに響いてくる。

 

 追記1;

 

 筆者はかつてヤフーブログで【緑の木】というブログやってました。今回の記事の本文と真留句のコロナ以前のうちの幾つかの話はその時に書いたものです。

 本文は10年以上前の記事です。(追記は現在のです。)

 

 筆者の地域では十数年前に、大手書店が開店して、地元の永年地域の文化を支えて来た書店が閉店しました。

 現在、今度は大手書店がネット通販に押されてます。十数年前と立場が入れ替わって弱肉強食、あるいは流行り廃りといったものを感じます。

 この、弱肉強食の系列は果てしなく続くのかも知れません。

 しかし筆者は、この順序は直線ではなく円環を描くと考えてます;

 トランプの最強のカード、ジョーカーや2に打ち勝つのは弱い3のカードです。

 トランプやじゃんけんのように、この弱肉強食、適店存続の順序は、円環で閉じると思ってます。

 現代はまさにジョーカー、2と3の勝ち負け法則の特異点の時代かもと思います。

 

 最近は、ネット通販しない個性的な古本屋が当地域で頑張ってます。

 

 

追記2、おカネの流れ

 

 我々の買い物はお金の流れを作ります。まずは買ったお店に。それから銀行かも知れませんし、その店主が別のお店で買い物して、そのお店に流れるのかも知れません。

 資産運用のために軍需産業に投資しているような銀行や企業にお金が流れた場合、そのおカネは戦争に使われることになります。貧しい紛争地域の人々を殺したり、大けがさせることにつながります。

 

 おカネの流れは一種のエネルギーの流れです。そのエネルギーの流れは、我々の周りの社会、企業、環境、労働環境を形作ります。(もちろん物理学や化学で用いられる意味でのエネルギーではありません。)

 

 先に戦争に自分のお金が流れてお金が悪さをする可能性を書きました。その可能性を考えるならば、おカネはローカルにやり取りされるのが無難なようです。

 地産地消です。お金がグローバルに洩れて悪さをすることもない。銀行もローカル重視の銀行に預けるのがいいでしょう。

 

例; ある町で服屋さんが、魚屋さんで魚を買う。魚屋さんは大工にお店の修繕をお願いする。大工は服屋さんで服を買う。

 

 このような感じで地域や仲間内でお金が循環するのが理想な気がします。

 

 

追記3、先にお金はローカルに、地域でやり取りされるのが望ましいと書きました。

もう1つ別のローカルを書きます。

 それはなるべく自分の身体に近いところにお金をかけて行く、ということです。

1番自分にローカルなのは自分の身体と心。本は心の糧といいますから、食べ物と本に先ず、お金をかけると良いかも知れません。

 2番目に自分に近いのは衣服。ファストファッションではなく多少高価でも、人の手間がきちんとかかった服がベストでしょう。(用途にも寄るが)

 3番目に自分に近いのは家。そもそも住宅は高価です。さらに割高ですが寿命の長い家屋ならば、子や孫、その先の代まで住めて住宅ローンを支払う必要がなくなります。光熱費も安い場合があります、きちんと設計された家は。

 昔の構造のしっかりしたリフォームすれば何代も住める中古の家の方が、寿命の短い最近の住宅より良いかも知れません。

 自分から離れた存在である車や不動産、株式、不労所得用のマンションなどには、この見方からはお金をかけない方がいいようです。(人それぞれですが。)

 

 追記4、買い物という投票における【囚人のジレンマ

 

 この【買い物は投票】という見方は「囚人のジレンマ」の構造を持っています。

 

 囚人のジレンマに関して詳しくない方は、【囚人のジレンマ】の言葉をクリックすると、説明が出てくるようなので参照なさって下さい。個々人の合理的な選択の結果が全体(=集団、社会)としては損な結果を導く、という現象です。

 

 消費活動(=購買活動)の際には損得を考えて、安価、便利なお店を選びます。その利己的、合理的選択、投票の集合体は、生き残る企業を決定します。

 我々は基本的にその生き残った企業のみが働き口となります。生産活動の際に(=働く際に)低賃金、ひどい労働、仕事内容を嘆く方も多いと思いますが、それは我々の買い物(=消費活動)という投票が決めていることなのです。あたかも選挙投票で政策が決まるのと似てます。

 みんなが、幸福に働けるような買い物をすれば良いのですが(=囚人のジレンマにおける協調行動)、買い物の際に得をしようとして(=囚人のジレンマにおける非協調行動)、結果、働く際には不幸な状態になってます。

 

そして自分だけが適正価格の職人さんなり、自営業のお店で買い物しても(自営業者は大手に比べ、利益少なくてもこちらが買う時には高い価格をつけざるを得ないし、職人さんの適正価格は大手や普通に流通してるものより高いですから)馬鹿を見るだけ(注1)で、世の中の労働環境は良くなりません。みんながそういう買い物をしたら、きっとみんな、自分らしい働き方ができるはずですが・・・・実現は難しそうです。

 とはいえ一方的に馬鹿を見るわけではなく、仮に世の中の労働環境が良くならないにしても、きちんとした職人さんや自営業者の商品、サービスは価格に見合って、あるいは価格以上に人々を幸せにすると思います。

 職人さんや自営業者の効率が悪かろうが、生産性が低かろうが、かけた手間と時間は裏切らないと思います。

 

 

 なお、【みんなが幸福に働ける買い物をする】、というのは、半農半Xにおけるような、使命的な仕事X、好きという気持ちや、やりがいを持って取り組める仕事Xをしてる人の商品、サービスを購入するということです。

 【真留句はこう言った コロナ以前ー6A 人生三分の計】において真留句が【自分のXを尊重し、そしてまた他人のXも尊重するようにすると良いでしょう。】という言葉を語っています。

 

 Xに取り組んでる人の商品やサービスが自分にとって必要なものならば、購入するのも良いかも知れません。

 

注1;この状況は場合によっては劇場版「νガンダム 逆襲のシャア」においてアクシズの落下を食い止めようと始めに単機でアクシズを押し戻そうとしたνガンダムの姿を彷彿とさせるものかも知れません。劇場版では途中から連邦、ネオジオン、両方のモビルスーツも次々とアクシズ落下を押し戻そうとして、ついにアクシズは押し戻され地球への落下を防ぎました。こちらの世界では果たして、そのような奇跡は起こりうるのでしょうか。

 

〇 囚人のジレンマの説明補足・・・説明に不可欠なマトリクス(表)は【囚人のジレンマ】をクリックして参照なさって下さい。

 ちょっと説明の補足をします;さて、強盗になったつもりで、黙秘(=協調行動)するのが合理的なのか自白(=非協調行動)をとるのが合理的なのか考えてみます。

 相手の出方が不確定なので、場合分けして考えます。

 

  1. a. 相手が黙秘した場合

 

こちらも黙秘すれば懲役10年の刑、

他方、こちらが自白すれば、即釈放。

 

よって相手が黙秘した場合、自白した方がお得というか合理的と言えます。

 

  1. b. 相手が自白した場合

 

こちらが黙秘すれば死刑、(単機アクシズを押し戻そうとしたνガンダム状態?)

他方、こちらが自白すれば懲役30年の刑。

 

よって相手が自白した場合もこちらは自白するのがお得、合理的です。

 

【c】 さて、相手がどう出ようと自白するのが合理的なようです。

 ところで相手はどう考えるでしょうか?表の刑罰や条件は自分と相手でまったく同じ、対称的です。よって立場を替えて考えるならば相手も自白するのが合理的なわけです。

 

 この自分と相手、2人とも自白するという、それぞれの合理的な選択の結果は両者に懲役30年の刑罰をもたらします。

 

 しかし、表を良く見るならば、お互いに黙秘(=協調行動)する、という2人の個人としては愚かな選択の結果はお互いに10年の懲役という刑罰をもたらします。

 全体を考慮に入れると損な結果を自白(=非協調行動)はもたらしてるわけです。

 

 個々人が合理的、利益を追求すると、全体として損する現象があるようです。

 

真留句はこう言った 文章版3i 真留句リスト ver.2.6

 この記事では反過剰資本主義的ライフスタイルの、具体的なたくさんの行動をリストとして書き下すことにする。

 

 真留句 文章版i 要約では以下の事を述べた;

 

  次のライフスタイルは、だいたい同じライフスタイルになる、一致、重複する部分が多い;コロナ対応のライフスタイル、反過剰資本主義のライフスタイル、温暖化対策、持続可能な(SDGsな)ライフスタイル、現代の人間の幸福度を高めるライフスタイル、

 

  その大きな方向性は【昔のライフスタイル】を取り入れる事であり、その中でも特に大きな柱となるのは【生産と消費において、必需品(=衣食住に関わる商品)と、ローカルにウェイトを置くこと。】となる。

 

補足をつけて書けば【生産(=労働)と消費(=買い物)において、衣食住に関わる商品(=1次産業の商品)と、ローカル(=地産地消)にウェイトを置く。】となる。

 

本記事ではなるべくたくさんのやや具体性を帯びた行動を書く事にする。

 

 各項目はコロナ対応、対過剰資本主義の両方に有効な事柄もあれば、コロナ対応にはあまり関係なく、過剰資本主義対策のみに有効な事柄もある。

 リストの後には各項目に対する多少~長い、コメントを書いてみた。

 

 なお、あらゆる局面で【バランスと調和】がキーワードとなる。【中庸こそ黄金】と、いう諺が西洋にもある。我々東洋には【過ぎたるは猶及ばざるが如し】がある。現在の資本主義の状況はまさしくこの2つの言葉が相応しい。

         

 中庸、即ち、バランス、均衡が大切というのは、古今東西、変わらないようである。

 なお、このリストは未完成である。完成は読者に委ねられている。

 

 

【反資本主義ライフスタイルリスト】

 

【ローカル】と【バランス、均衡】はいろんな局面でキーワードとなる。

 

  1. 1.買い物 (=消費活動)

 1-a・・・買い物の際には衣食住、1次産業の商品にお金をかける(もちろん家を持っていたり、衣服を十分に持っている場合は買う必要はない。)

  1-b・・・買い物の際にはなるべく近くの商品を近い場所で買う。(ローカル)

 1-d・・・機械に作られた商品ではなく人の手がかかった商品を買う。

1-e  他人のX(半農半X等の好きな仕事Xの事)の商品、サービスを買う。

 

 

  1. 2.働くこと (=生産活動)

 

 2-a・・・本物と呼べるような1次産業の商品の生産を目指す。新しい商品やサービスをイノベーションする必要はもはやない。

 

 2-b・・・複業してみる。(アンチ分業・・・資本主義における局所的効率性と昔のライ

フスタイルのおける大局的効率性)

 2-c・・・生活の中でDIY(=自分ですること)する事を増やす。

2-d・・・機械ではなく、人の手で労働し商品を生産すること。手業の復権

2-e ・・・労働の際に、半農半Xあるいは半ZXにおけるXのような、自分が好きな事、労働している間、幸福感を感じられる仕事、あるいはやりがいの感じられる仕事をする。

 

  1. 3.身体を動かす

   3-a・・・労働  肉体労働、農業、林業

   3-b・・・移動  徒歩、走る、自転車、公共交通機関

 

  1. 3.教育

寺子屋形式、職人の徒弟制、家庭における教育、自学自習(DIY)、一度、社会人になってから、大学入学

 

  1. 4.借金しない(ローンしない)

 

  1. 5.田舎で生活する

 

6、薪ストーブを使う

7、睡眠を重視する。冬季はなるべく冬眠を目指す。

8、3世代家族、4世代家族で生活する。核家族はなるべく避ける。

9、結婚して子供を産む。家庭を築く。

10、きちんとした道具、商品を修理したりして末永く使う(そのようにすれば、労働力商品たる人も使い捨てられることなく、末永く社会で重用されるだろう。)

11、商品にせよお店にせよ、ある程度、便利ならば満足すること。便利と不便の両極の間にあるバランスを意識して選ぶこと。便利すぎるのには何らかのデメリットがある。

 

【科学技術、ライフスタイルのうちで残すものリスト】

 

51、インターネット(情報通信技術、あまり過剰になり過ぎないように)

52、デジタル地域通貨

(仏か悪魔はわからぬがコロナの託宣【リアルはローカルに、ヴァーチャルはグローバルに】を体現するものとしての)

 コロナで疲弊した地域経済立て直しの救世の御仏たりえるかも

 

【そぎ落とすもの、捨てるものリスト】

 

  1. 81.原子力発電所 (核兵器
  2. 82.AI技術
  3. 83.過剰な商品、システム(これは便利過ぎる商品、サービスのこと。過剰サービスの商品版)
  4. 84.使い捨て商品の使用(労働力商品たる人間も使い捨ての様相を帯びている。)
  5. 85.経済成長

 

【削減するもの、形態を変えたらいいかもリスト】

 

101、化石燃料を使うもの(エンジン、レジ袋、プラスチックトレーなど)

102、マイカ

103、飲食店(飲食店は必要だが、コロナ前までは過剰にあり過ぎたのでは?)

104、芸術活動(昔のお祭りにおけるが如くに個人個人が人生の一部の時間を芸術家として生きる時間を持つこと。専業(分業)芸術が過剰になり過ぎてるのでは?)

105、現物のグローバルな取引(輸入、輸出のこと)

 

【昔のライフスタイルのデメリット】

 

151、大雑把に言うとボンビーになり易い。収入は減る。金銭面には苦労しそう。これは、昔のライフスタイルを取った際の主要なデメリット、障害となる。そこはとりあえず節約やDIYで対処する。ライフスタイルをシフトすれば低収入でも十分豊かで幸福な生活が送れるはず。セミリタイヤ系ブログの生活術も参考になる。農産物など必需品の一般市場価格は安いので何とかなるだろう。

 

 

【ライフスタイルの転換のチャンス】

 

現在、コロナ状況下で失業、出勤日数減、倒産など、好ましくない状況である。

 しかし、どんな悪い事柄にも必ず良い面があるものである。

 1つは、他の新しいライフスタイルへの転換が安定状態の時よりもし易くなっている事である。し易いというよりは転換せざるを得ない、とも言える。

 経済学の用語では機会費用が低下していると言える。

 機会費用が低下しているのであれば別の行動を取り易くなる。

 このコロナの好ましくない状況を活かして、脱資本主義、地球環境保全のライフスタイルを目指すのもいい気がする。

 

【理想的なライフスタイルに持ってゆく過渡的な戦略】

 

151のデメリットで述べたように、反資本主義ライフスタイルへの転換は金銭的不安を伴う。では、そのようなライフスタイルにどのようにして持って行くのか?

 

例;現在、給与を得て生活しているならば、会社から労働時間短縮の申し出があったら積極的に応じたり、転職したりして労働時間を減らす。そのようにして、とにかく、自分や家族が自由になる時間をまず確保する。給与所得が多少なりともある限り金銭面の不安はある程度拭い去る事ができる。

 現在、給与を得るための仕事がやりがい、生きがい、地球環境、社会分業重要度において好ましくないと感じられたならば、とにかく少しずつ、給与を得るための労働時間を減らす。そして自分の時間を少しずつ増やす。何といっても必要な資源は【時間】である。

 その時間を使って、自分のやりたい事をしたり、DIYで商品、サービスを生産したり、このリストのライフスタイルで生活を成り立たせる。

 そうして給与を得るため会社で働く時間を段階的に減らして、自分の理想の状態へ持って行く。

 自分が取り戻した時間を使って、DIYで生きていくに必要な商品、サービスを生産したり、余れば、他の人の商品(=結局は労働)と交換する。つまるところ、経済とは労働と労働の交換で成り立っているのである。おカネに替えたり、デジタル地域通貨でやりとりしたり、物々交換したり。途中、おカネに変わろうとも、最初と最後に注目すれば、交換されてるのは自分と他人の労働である。交換方法はオーソドックスなのはおカネだが、他もあるだろう。

 

 過渡戦略については、【真留句はこう言った コロナ以前ー6A 人生三分の計】も参照のこと。

 

 

【各項目に対してコメント】

 

〇 1、買い物

 

1-a・・・買い物の際には衣食住、1次産業の商品にお金をかける

 

 もちろん家を持っていたり、衣服を十分に持っている場合は新たに買う必要はない。衣服はある程度買ってしまえば、そんなに頻繁に買う必要はない。それゆえ買い物の際は衣食住に、というのは、即ち、買い物の際は食べ物にウェイトを置く、となる。

 家に関しては割高でも100年は持つような孫以降の世代まで持つような家を建てるのが反資本主義ライフスタイル。日々の貯金で貯めることになる。

 あるいはもっと現実的なのは田舎の空き家を賃貸、購入する事である。そのまま住めるなら申し分ない。そのまま住めない場合は構造のしっかりした昔の家屋をリフォームするのは効果的かも知れない。

 

 

 

1-b・・・買い物の際にはなるべく近くの商品を近い場所で買う。(ローカル)

 

ローカル、昔、資本主義的に低位な、不便(便利ではない)、といった概念はだいたい連動している。

 

 可能な限り、ローカルに買う、とは、昔の営業形態のお店で、地域のお店で買う事、とだいたい同じ意味になる事が多い。そういったところで買い物すると反資本主義的と言える。

 他方、止むを得ない場合を除いて、現代的なグローバルな、便利な、ネット通販の利用は慎む。これらを用いた便利な買い物は資本主義的行動である。

 

 また途上国の労働を搾取して製造された輸入品の購入もなるべく慎みたい。貧しい国の劣悪な労働環境の犠牲の上で我々が安価な生活を送るというのはこれもまた避けるべきだろう。

 

 

 ところで地域のお店は、不便、品ぞろえが豊富ではない、割高、などの特徴がある。

 正確には、適度に便利、適度な品揃え、適正価格なのだろう。

他の大型店やネット通販、コンビニが度を越して、便利過ぎる、品ぞろえが豊富過ぎる、割安過ぎるのである。

 

 羊飼いが【汝の敵を愛せよ】と言った如くに

 真留句ならば【汝の割高で、品揃えが少なく、不便なお店を愛せよ】

 と言うでしょう。

 

 

(未完メモ、税、迷惑施設)

 

 

 

 1-d・・・機械に作られた商品ではなく人の手がかかった商品を買う。

 

 特に大事な事例は食べ物である。食べ物こそが人の身体、そして心を作るからである。

食べ物はリレーみたいな部分がある。

生産者(農家)、販売店、調理者、食べる人

のリレーである。すべての段階で人の手がきちんとかかっていれば申し分ない。

そう言った食べ物は食後、心身ともに調子の良さ、元気、エネルギーをもたらす。

 しかし、なかなか自分で農産物を生産したり、人の手で育った農産物は市場には流通し難いものである。心配無用、スーパーの全国流通の農産物でも調理の段階で充分、挽回可能である。お母さんの愛情こもった料理が心身に良い影響をもたらすのは、良い実例である。なお火力はIHヒーターよりはガスが好ましく、ガスよりも直火、炭火がもっと良い。

 

インスタント食品はなるべく避けたいが止むを得ないならば、せめて盛り付けの際にいい加減にせずに心を込めること。これだけでも差が出るはず。

 

なお最終走者たる食べる人は、それまでの前走者に感謝してなるべく冷めないうちに、よく噛んで食べるのが良さそう。 

 

 人の手がかかるほど、食べ物にも心の力が宿り、他方、機械で生産された食べ物には心の力は宿り難い。

 

以下、未筆

 

〇 2、働くこと

 

 2-a  本物と呼べるような1次産業の商品の生産を目指す。新しい商品やサービスをイノベーションする必要はない。

 

 今、世の中に1番必要な商品として私が思い浮かぶのは、昔ながらの【本物】の農産物、衣服、家である。

 人間の生活にとって必要不可欠な衣食住に関わる商品であるが故に、生産における機械化が進み、大量に効率よく生産され、大量に不足なく市場に出回るようになった。

 そういった1次産業の商品が不足なく市場に流通しているが故に、さらなる豊かさを象徴する3次産業の勃興が起こったとも言える。

 しかしながら、機械化と大量生産は商品の質を著しく低下させた。特に外見ではなく、その本質を、である。必要不可欠な衣食住の商品の形骸化は【足下がおろそかになっている】という言葉がまさしく、相応しい。

 世の中に必要な商品、サービスは概ね、出尽くしている感がある。これ以降に新規に現れる商品、サービスは装飾的、あるいは百害あって一利あり(一利を強調して世の中に出回る)的な属性を帯びている事だろう。

 さて、現在1番、世の中に必要な商品の【本物の農産物、衣服、家】に話を戻そう。これらがおカネ儲けになるとか、商売にすれば儲かるとかの意味で言っているのではない。

 人の生活の復興において、今、1番、ウェイトを置くべきなのは【本物の農産物、衣服、家】と言っているのである。【本物の】大雑把なイメージは【昔の生産方法で作られた、農産物、衣服、家屋】ということになる。

 以下、自給用となるが具体例として畑で野菜なり水田でお米なりを(入門者には畑の方がお手軽)、自分で育ててみると、これが何の事だか体得できるはず。なるべく機械、ガソリンを使わず、手作業ですること。肥料、農薬は使わず、その際には適度な手間と時間と愛情をかけること。かけ過ぎは却って有害なり。(人における子育てと同様、生き物に共通か?)

以下、未筆。

 

 

  2-b  複業・・・・アンチ分業(専業)としての

 

 分業(=専業)は生産効率が良い生産様式である。他方、【効率が良い】という、一見、文句のつけようのない、求められるべき事柄、それ自体が、【効率が通常、あるいは普通】という中庸の状態から逸脱していて、バランス、均衡からの逸脱への端緒となっているのかも知れない。とすれば、効率がイマイチにせよ複業にはバランス、均衡をもたらす可能性を秘め+ている。

 ここでは複業の有効性を説明することにする。

 

例1、コロナで3次産業、飲食業、観光業、職業芸術家の生産活動が困難となった。他方、3次産業、農業、林業水産業、大工、他各種職人の生産活動はそれほど困難にはならなっかた。例えば農業は自然にコロナ3密が回避されている。

 

 そこで1次産業を複業に組み込むことは、コロナ下の失業状態、遊休状態回避の1つの方法となる。いわゆる労働のリスク分散とも言える。1次産業のうち特に農業がオーソドックスである。自営でも雇用されるのでも、どちらでも良い。自営の場合、おカネにならなくても良い。おカネで間接的に購入するにせよ、DIYで直接現物を生産するにせよ、途中のルートは異なれど、自分の生活に必要な商品を入手するという最終目的は同一である。

 なお1次産業にこだわる理由は2-aの文章も参照されたい。

 

 以下の例は通常とは違った意味の複業のススメである。【分業の局所的効率性】に対して、【複業の大局的効率性を説く。】

 

例2、サラリーマン川柳に【スポーツジム 車で行って チャリをこぐ】というのがある。

科学技術による機械化、自動車の普及によって、通勤、工場、事務所における生産活動まで【それぞれ】の段階、現場では効率性がある。生活が分業的であると良いだろう。

 他方、社会全体なり人の生活全体という大局的視野から見ると事情は違ってくる。

 普段は車を使い、汗をかく肉体労働から解放されて効率的な生産が行われる一方、運動不足対策により、休日などに別途、わざわざ商品の生産とは無関係に肉体労働をする必要が出てくる。スポーツジムを使うとなると肉体労働のためにおカネを得るのではなく支払う必要も出てくる。

 

 こうなると、普段から時間がかかっても徒歩や自転車で通勤したり、生産において非効率的であっても肉体労働することの大局的効率性の良さが見えて来る。

 昔のライフスタイルは局所的には効率が悪いが、全体として大局的には整合性がとれていてバランスが良いようである。

 

例3、やはり自動車と徒歩の長期的な視点

 

2においては1週間単位の規模での自動車とウォーキングがテーマであった。

 この例3では長期的な観点で見る。若い頃から定年あたりまで、車に頼り切りで、ほとんど歩かなかった人が、健康維持のために定年後、急に歩き出すケースがある。

 今まで歩かなかった【人生における歩くという行為】を取り戻すかの如く歩く。

 これも分業的である。成人~老年までほとんど分業的に移動は車に頼り、老年において移動が目的でなく肉体や精神の健康のため、暇つぶしのために歩くのである。

 これならば、普段から複業的に車と徒歩、自転車のバランスを考えて生活していた方が合理的といえたケースもあるだろう。

 

例4、1人の人間の労働における分業

 最近はどうかわからないが、一度、会社に勤務して働きだすと、本を読む暇もないくらいに、人生における時間が仕事に捧げられるケースが多々あったようだ。

 保育園~高校、大学までは勉強ばかり、就職すると今度は仕事ばかり、定年すると時間を持て余す。これは分業的一生と言える。バランスが良くないように見える。

 

 他方、複業的人生を考えて見よう;

 

(イ)週1~4日ほど勤務しながら、大学や放送大学で学ぶ。(学費を親が稼がなくて良いのが大きい)

   週1~4日ほど勤務しながら、職人に弟子入りする。

   週1~4日ほど勤務しながら、自営業やNPONGOの活動をする。Etc

 

 なお、完全に労働しないのは肉体的にも精神的にも良くない気がする。健康ならば自給用、DIYでも十分などで何らかの労働を(自炊とか)する。

 

() 中卒、高卒で一度、会社勤めする。おカネをある程度貯めたら、また大学、放送大学で学ぶ。(これは教皇シオン様(=前聖戦ではアリエス黄金聖闘士)のアイディア)

 

 長い間、勉強ばかりでは学問の意義、必要性が見えてこない場合が往々にある。会社勤めすることで何故、学問や学びが必要なのか分かる時もある。先の分業人生の例では学問の必要性を会社勤めの最中に気づいても、もはや手遅れで読書する暇もないケースが多々ある。昔は若いうちから働いたものである。一度、会社勤めして社会を担ってから、学問の必要性がわかった、という声を周りでもよく聞く。

 また大学時代によく名著を読むものである、とか言われるが、学徒のみの経験では本の内容にピンと来ないケースもある。一度、会社勤めなり、社会を経験すると、あぁ、こういうことなのか、と分かるケースも多々ある。

 一度、会社勤めしてからの方が読書の吸収の効率が良くなるケースもあるという事である。本の内容がよく分からないのは自分の知的能力に問題があるのではなく、単に社会経験不足、時期的に本と相性が良くない年頃、ということもある。同じ本同じ読者に対して、相性がいい時期もあれば、悪い時期もある、ということ。 

 また、親が大学の教育費を稼がなくていいのもメリットである。

 

 

 2-d  機械ではなく、人の手で労働し商品を生産すること。手業の復権

 

 マルクスは分業が効率的かつ質も優れた商品を生産できる形態であるとした。そしてそれが旧来の職人を駆逐してしまうと。

確かに、効率的であり、かつ職人を駆逐してしまう、という点においては同意する。しかしながら質に関する点については検討を要する。

 現実に現在、世の中に溢れる商品は安くとも、質が低廉である場合が多い。

 

 質の主要な低下の原因は後回しにして、先ずは副次的な質の低下原因を述べる。

 

 確かに分業は労働者の部分的熟練度を高める。それは商品の高品質化にも繋がる。しかしながら、分業が行き過ぎると今度は部分部分の高品質は商品全体のバランスの低落という犠牲をもたらすのである。しかし適度な分業はやはり必要である。分業をし過ぎず、かと言って、まったく排除することなく、適度なバランスのとれた分業でストップする必要がある。

 

例1、包丁

 分業を全くしないと、まず鉄の精製、柄の材料たる木材の伐採、などなどとても、1人でやれたものではない。

 適度なのは以下の分業であろう;

 鍛冶屋さん、研屋さん、柄を作る人、販売店

 

 行き過ぎた分業の実例はこの包丁では例示し難い。

 

2、思想の普及

 本来の意味からはやや外れるがある程度の分業が効果的である事例;

 思想、宗教の普及についてである。

 世界に広まっている優れた思想、宗教には共通点がある。それは、思想なり宗教の創始者は自らは思想を本などにまとめはせずに、行為と言葉による教えのみに終始している場合が多い。

 創始者の言行録や経典化は弟子や後世の信徒、支持者が行った。

 

 例を挙げるならば、

 ソクラテス、イエスマホメット、釈迦、孔子である。

 

 ソクラテスは弟子のプラトンソクラテスを登場人物とした対話篇を書いた。

 広く強い影響力を持つ宗教の創始者、釈迦、イエスマホメットの言行録をまとめ経典としたのは弟子や後世の信徒達である。

 

 このように思想の普及は、思想の創始と普及が分業で行われる方が広まるようである。

 

 これには、思想の創始者と紹介者が同一であるよりも別々である方が、人間にとって心理的に受容し易い、というのも理由の1つであるように筆者には思われる。

 

 

 脱線が長くなってしまった。さて今から述べるのが質の低下の主要要因である。それはコスト削減と大量生産による収入の増加、儲けを目指す事に始まる。

 コスト削減は主に原材料の質を落とすこと、(人の)手間の削減といった形を取る。

 他方、大量生産は生産の機械化という形を取る事が多い。特に機械が生産を担当し始めると、大量な生産が可能になる。

 人が生産するにせよ、機械が生産するにせよ、生産の量が増えると質は減る。量が減ると質は増す。 

 質+量=一定、 あるいは、 質×量=一定

は、ある程度現実を反映した数式と言えそう。

 

 商品が売れるかどうかは見た目と価格が物を言う。機械を用いて中身、質を落として、生産量を増やし、価格を下げる。

 このような生産方法でなされた商品が資本主義社会では勝利を収め、他方、原材料と手間のしっかりかかった商品は駆逐される。かくして、商品の質が低下する事となる。

 

 

例、お米

 

田植え機、コンバイン、機械乾燥のお米が市場の主流である。大量生産、安価であり、人々の生活を支える。

手植え、手刈り、天日干しのお米は前者に比べ質は勝るが生産量は圧倒的に少ない。育てるのに手間がかかる。こういった代物は、市場には出回り難い。

 

以上のような考察から今後は人の手間、手業で質の良い商品、サービスを生産するのが望ましいように思われる。

 

 

 また別の問題・・・商品に宿る心

 

 非科学的と思われるであろうが、商品生産の際に人の手間がかかるほど、商品に心のパワーが宿るように思われる。他方、機械が生産を担うほど、心のパワーは商品から抜けていく。

 具体例としては、先述の2-aで挙げた、自らの手で育てた農作物と、スーパーに並ぶ全国流通の農産物、あるいは冷凍食品、インスタント食品、ファストフードを食べた後の食後数時間後のフィジカル、メンタルの調子を意識されれば実感されると思う。

 または職人の刃物と100円ショップの刃物、などを比べるなど。

 

 将来的にAI技術の発展が農産物の生産を人間の手以上に上手にする可能性もあるが、心の力というものの真偽はさておき、現段階では人の手により商品に心の力が宿る、とみなす考え方は有効であるように思われる。

 

 また別の問題としての労働者(=人間)の自尊心、誇り、コンプレクス、ルサンチマン

 

 手業で商品が上手に作れるように熟練することは人に自尊心と誇りをもたらす。これも大きい。

 熟練への過程が職人の誇り、自分自身への価値を育む。

 対して、現在の分業的労働のあり方では社内地位向上や特定の作業への熟練は、その場限りの満足はもたらしても恒常的な自己へのリスペクトはもたらし難い。

 

 転職などによる社内地位のスタート地点への振り出しは、まず自分へのコンプレクス、自己疎外感、ストレスをもたらす。そして人によっては同僚に対してマウントをとろうとする行為にて、自分は仕事ができるのだ、と納得させコンプレクスを払拭しようとする。

 このような行いは周囲にはストレスになる。

 特に「男は仕事が本分」という価値観を持っている人ほど、このストレスが強くその当人にのしかかるので要注意。かつてはその価値観を受け皿に出来る労働環境があった。しかし労働の内容が陳腐化した現在は仕事の中においてのみ自分の価値が確認できる、というのは生きづらい価値観となっている。

 しかし「仕事、労働を通して自己の価値の確認」という考え自体はそれほど誤りではないと思う。

 それが生きづらい価値観にならない労働環境、労働内容に世界が変わる事を願う。

 

「自分をリスペクト出来ないうちは、他人をリスペクトすることが出来ない」ものであると思う。

 手業の熟練は自らへのリスペクトをもたらし、それは他人、同僚へのリスペクトにも繋がる。

 

 現在の労働環境のストレスの一因はこの如く、労働における手業が消失したことで自己と同僚へのリスペクトの不在、それがストレスを蔓延させるのである。

 そこで、何らかの形でおカネになっても、ならなくても良いので、何らかの手業を身に着け、熟練の過程を歩むのが1つの生き方となる。

 手業の熟練を通して自らをリスペクトするようになった者は他人をもリスペクトするから、マウントをとろうなどと愚かな行いに走る事はないはずと思う。

 

例、陶芸、手打ちそば、絵画、写真、読書、音楽、農作業、お茶、生け花、ブログ執筆、俳句、書道、武道、猟師、調理、掃除、ゲーム、手芸、衣服作成、衣服修繕など。

また個人経営の商店において商品を並べる。

スーパーのような大手のようには、むやみに品ぞろえを豊富には出来ないので、少ない品揃えと配置の中にこそむしろ店主の個性、感性、顧客への思いが滲み出る。これとても単純なようで奥が深く手業と筆者はみなさざるを得ない。

 大手スーパーの如くにポイントカードの購買履歴に基づいてコンピュータなり戦略部門が仕入れを決定した商品を並べるだけの分業的仕事は前者の品揃えを少なくせざるを得ないが自己裁量の大きい個人営業のお店に比べて手業度数が低い。

 

 また自己と他人へのリスペクトという観点のみならず、1つの技芸に熟練する事は他の世の中のいろいろな物事を熟練した視点から見たり考えたりする事を可能とさせる。

 比喩になるが、地に這え、地の低い位置に葉を展開させる草と1本の大きな幹をまず成長させ、その後、広範囲に枝葉を展開する樹木を比べ思い起こされたい。一本の大きく高い幹から出た枝葉は高い位置にあるのである。

 

〇 4、借金しない、ローンを組まない

 

 戦前までは日本人には借金をする風習が無かった。借金を恥と思う心がかつての日本人にはあったらしい。

 ところが、高度経済成長期あたりからか「貯めて買う」から「借りて買う」に移行したそうだ。

 その方が経済効果が高い。経済界や政府が、そういう風に誘導したのかも知れない。

借金は資本主義的事柄であり、「貯めて買う」は反資本主義的事柄である。

 

 高度経済成長期時代の雇用が安定している時期なら、ローンで夢のマイホームも有効であったかも知れない。

 他方、先行き不透明にして不安定なる昨今なれば、夢のマイホームと借金の不安とプレッシャー、ストレスを秤にかければ、ローンが有効ではない気がする。

 借金が無ければ身軽で、変化に対応し易い。他方、借金あれば、変化を迫られる際に借金が無い場合に比べ、さらに難易度が上がる。借金があると、おカネの借金を背負う人に対する支配力が格段に高まるのである。

 

〇 7、睡眠を重視する。冬季はなるべく冬眠を目指す。

 

 コロナが猛威を振るう冬季には、コロナ対応として熊の冬眠をお手本とするのが良い。

 

〇 9、結婚して子供を産む。家庭を築く。

 

 セミリタイヤ系などの方で金銭的事情で、結婚や子供を産むことを躊躇なされてる方々も多いと思われるが、金銭のことは気にせず、結婚し、子供を産み、家庭を築かれても大丈夫だと思う。

 

 自然界の生き物はつがいを為し、子を産んで育てる。やはり結婚して子供を育てるのが生き物の一員としての人も自然な行為だろう。

 このまま過剰資本主義社会に属しているような人々のみが子孫を残せば、温暖化などで地球上で生き物は生存できなくなり遅かれ早かれ、人類滅亡、子孫断絶である。

 他方、【反過剰資本主義】勢力たるセミリタイヤ系などの方がご家庭を築かれるならば、反過剰資本主義の勢力拡大、地球上の生き物存続のためにも良い。

 

 将来有望な農業、林業、漁師、猟師、大工、各種職人といった職業は学費よりも良い師に就く事が重要である。また大学レベルの学問を学びたいならば、子供が社会人となって自ら学費を稼げば良い。また、本や放送大学があれば独学で学べる。現在ならばインターネットも独学の助けとなる。農産物同様、学問も「原材料(本)」は学費に比べ安価に済むのである。あとは本人の自炊のやる気次第、もとい、本人の向学心次第である。親が高額の教育費を稼ぐ必要はないと思う。ただご近所に学生の向学心を刺激するような師と呼べる人がいればもっといい気がする。

 

 正しい道を歩んでるなら、自然界の摂理も加勢して下さるだろうし、何とかなるだろう。

 

 

〇11、商品にせよお店にせよ、ある程度、便利ならば満足すること。便利と不便の両極の間にあるバランスを意識して選ぶこと。便利すぎるのには何らかのデメリットがある。

 

 便利過ぎるネット通販、コンビニの使用は過剰資本主義の勢力に加担する事になる。

 

 資本主義が進展するにつれ表層的には消費者が優位になって、生産者が不利になって行く、という見方もできる。

 資本主義が進展して消費者が優位に立って便利なお店を使える反面、生産者(=労働者)としては深夜労働など不利な労働形態となって行く。

 またネット通販利用はおカネを都市部、中央へと流し、地方自治、地域の自立を損なう事となる。

 それは国からの交付金への依存、ひいてはセットでやって来る核廃棄物最終処理処分施設などの迷惑施設の受け入れの助長などにつながる。

 

 

 

 

〇 52、デジタル地域通貨(仏か悪魔はわからぬがコロナの託宣【リアルはローカルに、ヴァーチャルはグローバルに】を体現するものとしての)

 

 

真留句0(ゼロ)で

 

「コロナは標語的には

 

【ヴァーチャルはグローバルに、リアルはローカルに】

 

【情報はグローバルに、現物はローカルに】

 

 

 英訳; Real may local,virtual may global.

 

を人類に提案してるのではないだろうか。」

 

と書いた。

 

これは社会システムがそのようであれば、コロナは拡散しづらいし、過剰資本主義における多くの問題が解決されそうでもある。

 この理念を体現する1つの象徴的商品、サービス、システムがある。

 それは【デジタル地域通貨】である。

 

 筆者も年のせいか、新奇な物に対する忌避感、苦手意識が生じる今日この頃である。

 デジタルのカタカナに警戒心を覚え、コロナ下の救世の仏となるのか、はたまた、地球環境を破壊し人々や生き物の魂を苦しめる悪魔となるか、使う人間の心、魂次第なのであろうか、と思いを馳せる。

 デジタル地域通貨が悪用されずに、地球や人類、生き物にとって益となることを筆者は願っている。

 

 デジタル地域通貨の事を詳しくチェックした訳ではないので憶測の部分もあって無責任な部分もあるが書いてみる;

 

 〇 デジタル地域通貨のメリット

 

 地域通貨のメリット、地域での消費活動を推進する。地域を潤す。それは地域の税収の増加に繋がる。それは国への依存性を減らし地域の自立を高める。それはそのまま昔の状態への回帰であり、脱資本主義的状態への移行である。

 

 かつて地域通貨のデメリット、難点であったシステム導入のコスト、壁を大幅に軽減してそうなイメージがある。(ここは憶測)IT技術の長所が今回は活きそうである。

 また旧来の地域通貨使用の際の不便さも解消し、より便利になってそうである。

 

 結論から書くならば【デジタル地域通貨】はコロナで疲弊した地域経済立て直しの救世の仏となる可能性がある;

魚の如くに腐る地域通貨(=減価する貨幣、マイナス利子の貨幣)は消費者に購買活動を強制する。また減価分は自治体の税収、地域通貨運営費とする。

減価する通貨は消費者はなるべく手放そう(購入活動をする、ということ)とするので地域内での経済の高速回転に寄与する。

 

 

真留句はこう言った コロナ以後3 そば処 あるまんど ver.1.2 Post coronam

 真留句のコロナ後の行脚は続く。

 

 真留句は彼の弟子で辺境の地において閑古鳥系そば屋を営む閑次の下を訪ねた。コロナで飲食業や観光業は大きな打撃を受けていたので真留句も弟子のそば屋が気がかりだったのである。

 

 

「おうぅい」と声をかけたが返事がない。

 

閑次の自宅兼店舗には休業中の看板がかけてあった。

 

お店の戸を開けて、「おうぅい」とまた声をかける。

 

 2回目の呼び声が消えた跡の店内には、ただオーディオ機器から小さな音量でピアノの楽音が流れ続けるだけであった。

 

 バッハの変ホ長調インヴェンションであった。

 

真留句はこの演奏を聴いていたい気持ちにかられた。真留句は目を閉じて音楽に耳を澄ました。短い時間であった。演奏が次に変ホ長調シンフォニアに移ったところで真留句は節電のために勝手ではあったが演奏を止めさせて、電源を切った。

 

それから店を出て、辺りを見回した。

 

 近くの畑を見ると、ごく小さなナスの芽が雑草の中でひっそりとあった。

ひっそりではあったが、真留句の眼には懸命に生きているように見えた。

 

数日続いている日照りに加え、昨日は強風が吹いた。

 

 しかし小さいが故に強い風当たりをまともに受けることはなかったのであろう、割と元気そうで小さいながらも生命力を感じさせるものがある。

 周りのライバルたる雑草達も続く日照りにはナスと共に葉で日陰を作り、そして根でお互いに土の中の水を蒸発させまいと、共闘中のようである。

 このナスは昔ながらの在来種を無肥料で育てているが故に、成長が遅い、否、成長が自然なのだろう。

 

 他方、真留句がここに来る途中の畑で見た、マルチや化学肥料で早く、大きく育てたF1であろうナスやキュウリ、トマトはその大きさが却って仇となってか、昨晩の強風で支柱ごと倒れている株もしばしば見うけられたのだった。

 

 真留句は閑次の他も畑も見に行くことにした。他の畑に閑次はいた。閑次はしゃがんで、雑草を抜いてキュウリの世話をしていた。かといって雑草を抜きすぎるほどではなく。

一心不乱に雑草を取るというのでは、無かった。

雑草を抜いては、しばらく見つめ、考え、また抜いてゆく。

そのゆっくりとした動作は雑草を抜くというよりは畑の中で一種のバランス、調和を保つ儀式を執り行ってるようにも真留句の眼には写った。雑草を排除することと残すことのバランス、調和を。

 

 

真留句は弟子にそっと声をかけると閑次が応えた。

 

閑次「師匠ではないですか、よく私が畑にいることが、わかりましたね。ずいぶんとお探しになられましたか?」

 

真留句「否、お店の後、すぐにこの畑に。以前は作物を栽培してなかったお店の近くの畑に今日はナスの芽を認めたものだから、あなたが今は農作業をしてるかも知れない、と思った次第だよ。畑の方はまずまずのようだが、そば屋さんのほうはどうかね?飲食店がコロナで受けている被害は大きいと聞く。」

 

 

詳しい事情を話すと、長くなるのですが、と閑次は前置きしてから話し始めた。

 

閑次「休業しています。しかしコロナの影響は経済的、収入的なことに関しては当あるまんどに関しては、あまりない、と申し上げてよろしいかと思います。情けないことですがコロナがあろうと無かろうと、以前あなたがお見えになった時と同様に閑古鳥が鳴いています。むしろ休業している現在の方が高くつくそば粉や鰹節、しょうゆを買わずに済むから経済的には楽と言って良いのかも知れません。

 唯一の収入源のアルバイトはコロナ下でも、何とか勤務できてます。

 以前、あなたがここにいらした際に私は次のように言っておりました;【アルバイトにはできることなら行きたくはないですし、お店が経済的に軌道に乗って、アルバイトを止めて、そば屋さんだけで生活するのが夢です。しかし、それは奇跡でも起こらない限り無理である】、と。

 しかし、もしそのような奇跡が起こっていたら私は今頃、ひどい目に遭っていたところでしょう。幸か不幸か、お店が閑古鳥が鳴いていて、経済的にはうまくいっておらず、収入を他のサイドワーク、アルバイトに頼らざるを得なかったが故に、今回のコロナの被害をまともに受けることは無かったのです。」 

 

閑次がそのように説明するのを、真留句は閑次の足元の小さなキュウリを見つめながら聞いていた。このキュウリも直播き栽培だろうか、先ほどのナスよりも成長していて大きな本葉のあるものもあったが、やはりまだ小さな姿をしていた。

 

閑次は続けて語った。

 

 

 「しかしこのコロナを受けて、そば屋さんを営業して以来、時間不足でやめていた【家庭菜園を再開しなくてはいけない】、そのように感じました。直感というか、心の声と言ってもいいでしょう。そして、【内なる心の声に耳を傾け、従うように】というのが、あなたの教えです。今回はこちらが耳を傾けずとも、自然に向こうの方から語りかけてきたのですから、なおさらです。

 農作業は自然にコロナ3密が回避されます。(密教の三密ではありません。)海外からの食糧の輸入ストップの観点からも、コロナ下において農作業をするのは合理的、自然なことのように感じます。

 コロナのこともあって、そば屋さんは当分の間、休業せねばなりませんし、そば屋さんに投入する時間の代わりにちょうど、家庭菜園をする時間が与えられた、とも思えます。

 」

 

真留句「営業自粛の補助金は申請したのですか?」

閑次「師よ、あなたは超俗でありながら、けっこう俗っぽい質問もなされるのですね。

いいえ、飲食店としての自粛補助金の申請はしてないです。そば道具や、お店の設備の問題で仮にコロナが無くとも、営業はすぐには出来なかったはずです。

それに、もともと閑古鳥が鳴いていて

【売り上げ<原材料費】の、あるまんど不等式が成立しているお店です。

あるまんどの補助金申請はいろんな面で補助金の趣旨に反します。

それに、今回のコロナにおける助成金、給付金に私は違和感を覚えずにはいられません。いにしえの飢饉の際に【さつまいもを植えよ】と命じた古人の政策は自然で正しいように思われます。しかしながら、今回の助成金、一律給付金にはとにかく違和感を感じるのです。

しかしながら国民全員に給付される10万円に関しては申請してもらうことにしました。なにせ相変わらず貧しく生活が苦しいものですから。先ほど、【生活費を得るためにアルバイトをしている】と言いました。そば屋さんは赤字でしたから、そのアルバイトが唯一の収入源でした。しかし実は最近、事情があってそのアルバイトも止めてしまったのです。止めた理由は職場の人間関係のトラブルのためです。止めていなかったら、今頃、うつ病など心の病になっていたかも知れません。

 アルバイトですし雇用保険には加入してませんでした。失業保険は出ません。このタイミングで行われた全国一律10万円の給付金には本当に助かりました。しかし依然として収入ゼロですし、出費を節約して抑えていても10万円もいずれはなくなります。何とか別のアルバイトの求職活動もしているといった次第なのです。」

 

真留句「君も相変わらず私と同様に常に金銭的にはギリギリなようだ。一律10万円の給付金が君とっては命綱の失業給付金となったようだ。

神のご加護に感謝したまえ。

 

 ところで私も今回の給付金、補助金の分配には違和感、何かおかしいものを感じるのだ。しかし、現在のところ大規模な株価の下落や恐慌が起こってないところを見ると、【過去において大恐慌はどうすれば回避することが出来たのか?】の経済学的な研究の導く回答は今回の【お金のバラマキ】なのかも知れない。

 お金のバラマキ、即ち紙幣の増刷はインフレをもたらすであろう。それはあらゆる分野の企業の倒産を抑制する方へと働くであろう。

 先ず第1にインフレは債務者にとって有利に働く。インフレは借金を目減りさせるのだから。銀行から借金をしている企業にとっても有利に働くであろう。

 また、第2にインフレを予期した消費者はお金を現物に替えようと、即ち買い物をしようとするだろう。特にプレミアに10万円をもらったのだし、なおさらさ。この購買活動の増加も生産者たる企業には有利に働く。

 

 とはいえ、このツケ、副作用はきっと後からやって来るだろう。そして特に犠牲お強いられるのは我々庶民なのだろう。」

閑次「どういうことなのですか?」

真留句「私にも詳しいことはわからない。しかし次のような考えが思い浮かぶ;お金とは、そもそも労働に他ならない。我々の労働が姿を変えたものだ。労働と等価交換されるべき

ものだ。」

閑次「あなたの言われることは正しいように思われます。」

真留句「労働の伴わない貨幣、お金の乱発とは不自然なものなのだ。インフレなどを招くだろう。

 先ほどは企業倒産の抑制というインフレの良い面を述べた。しかしインフレは庶民が血と汗を流して労働と交換して得た財産(貯蓄)を目減りさせる。

 また国の借金の利子も増える。利子の返済は結局のところ我々庶民の家計が負担することになるのだ。

 現在、乱発されたお金は、未来の労働でもって、しっかりと贖われるであろう。即ち、今後、我々庶民が労働した際に、正当な労働の対価を得ることができない、という形でもって。コロナ以前から既に私は【労働者が正当な労働の対価を受け取ることができない】という問題に言及していた。今後はもっとそれがひどいものとなるだろう。」

 

 ここまで真留句は言うと、しばらく沈黙した。閑次はこの沈黙の時間を使って、長かった師の話を理解、咀嚼し整理するために考えにふけった。閑次も沈黙したのである。

 

 閑次と真留句は高台の畑に立っていた。弟子の沈黙の間に真留句はふと、下方にある畑に目を向けた。

 下方の畑は雑草1つ無い黄土色の畑であった。続く日照りは土を固く、黄土色にし、乾いているのがわかる。その畑を「黄土の畑」と呼ぶならば、今、閑次と共に立っている雑草に覆われた畑は「緑の畑」と呼ぶことになるだろう。

 雑草1つないその畑は近代の農家が考える1つ理想郷と言えるだろう。

 

 黄土の畑には大きなナスやこれまた大きなキュウリ、たくさん植えられていた。

  他に収穫期を迎えたキャベツもあった。キャベツに至っては大きい、というよりは緑の畑で採れる作物にに対しては化け物のよな大きさ、と表現した方が良いような巨大さであった。

 やはり昨晩の強風であろう、支柱ごと倒れている株も多かった。

 

 ナスやキュウリの根元の土はやや土の色が異なっていた。誰かが数時間前に水を撒いたのであろう、それで色が異なるのである。しかし容赦なく照り付ける日差しで、水はほとんど乾いていて、あと1時間もすれば他の部分と変わらぬ色に戻るであろう。

 

 先ほどの師の話を頭の中で整理し終えた閑次は、今度は師が下方の畑を見つめていること気がつくと話始めた。

 

閑次「あれは私の母が手入れしている畑です。慣行農法の畑、よく手入れされた畑です。作物は私のこの畑よりも早く、大きく育ちます。

 

そう早く、大きくです。

 

作物の生産ということでは効率的です。

 しかし、ひとたび災害が生じれば、大変なことになります。日照りの際には土はすぐに乾いてしまします。また虫害が発生すれば、作物の葉などは根こそぎ食べられてしまいます。

何せ、雑草1つなく作物しかないのですから、目立ちますし、虫達は他に食べる物はなく、作物を食べるほかないのですから。

 

対処するには農薬を使うことになります。」

 

確かにこの畑のナスやキュウリは葉の大部分が虫に食べられていた。他方、閑次のキュウリの葉はところどころ虫に食べられてはいたものの、それは部分的なものであった。虫は他に雑草も食べたりするのであろう。

 

 ここで真留句は唐突に自分がここに来るまでに通り過ぎて来た都市について語り始めるのだった。

 

真留句「ところで、私はここに来るまでに幾つかの都市を通り過ぎてきた。都市というものはよく整備され整えられているものだ。

都市というのは経済的、資本主義的な生産の立場から見れば効率的だ。

 そう生産はより早く、多くなのだ。」

 

真留句がこのように言った後、しばらく間があった。その時、閑次が師の都市に話に構わずまた畑の話をした。

 

閑次「私の畑は100点を目指しているわけではありません。しかし虫喰いの葉、雑草と作物のバランス、調和があります。」

 

 

真「しかし、ひとたび災害が生じれば、大変なことになる。原発事故で電気や水の供給がストップする。またコロナの際には、その密集さが災いしてしまう。

 外へ出て気分転換しようにも、他の人にすぐに出会ってしむのだから一苦労である。

 

 都市はコロナの前と後では大きな変わりようだ。しかしこの田舎や私の住む田舎はコロナの前も後も変わらず農業が営まれ、それほど変わってはいない。確かに、田舎といえどコロナ後には多少の変化はあるのだが。」

 

 

閑「黄土色の畑の野菜は成長も早く、大きいのですが腐るのも早いのです。成長の到達点の後は衰退です。成長が早いとは、また衰退、腐敗も早い、ということと表裏一体なのかも知れません。」

 

真「とにかく田舎の方がコロナの被害は小さいようだ。

 そう考えるならば、資本主義的生産性には劣るものの、田舎にはバランスと調和があると言って良いだろう、都市に比べて。」

 

 

閑「大きさに関して言えば確かに見た目は大きいのです。大きいことを良い作物の条件と考える人は多いものです。しかし味わいにどうも奥行きが無いように感じますし、食べてもそれほどパワーが出ないように感じるのです。」

 

 

真「都市は田舎に比べ賃金、収入が多い。、とても大きな収入を得る人もいる。

 しかし大きな収入はまれに人を病ませたり、不幸にしてしまうこともある、一概には言えないことではあるが。

 家庭や健康よりも仕事を優先して、大きな収入を得てはいたが、その為に家庭が崩壊してしまった人々や重い病にかかった人々の話を聞いたことがある。」

 

閑「他方、私の雑草だらけの畑の野菜は成長も遅く、大きさも小さいです。しかし、長持ちします。腐ることなく、萎びてゆくか朽ちるかなのです。味は滋味深く、奥行きがあります。そして何より、食べた後に身も心も元気になって身体全体からエネルギーが湧いてくる感じがします。

そう、【本物の食べ物】と言えるのではないでしょうか。」

 

真「高収入を良い人生の条件と考える人は多いものだ。しかし大きな収入を得ても、長時間労働故に、それを有効に使う時間がなく、肝心の自分や家族の人生の時間が手元に残らないケースもある。

 しかしスタインウェイを買いながらも、それを弾くための時間がない、という人の話も聞いたことがある。それならば、安物のキーボードを買って毎日1時間でも弾く時間がある方が良いのではないか?

 大きな収入はかえって味気ない人生をもたらすこともあろう。」 

 

真「他方、収入が少なくとも、手元に自分や家族の時間が充分にあって、少ない金銭で余計な物は買えずとも必要な物を買えるのならば、そして自分が心から望むことや、大切な家族や友と過ごすのに費やす時間が十分にあるのならば、滋味深い、満足のできる人生と言えるのではないか。

 さらにあなたの言う【本物の食べ物】を食べて命を繋いで行くことができるならば、ーーーーーー食べ物が身体や心を作っているのだからーーーーー【本物の人生】を送れるのではないか?」

 

 

このように閑次と真留句はお互いに話したのだった。

 

「それにしても」

 

と真留句は対話の最後に弟子に次のように言った。

 

「畑は君に肉体の糧のみならず、心の糧をも、もたらしてくれたようだ。」

 

真留句はそのように言った。