真留句はこう言った

河流 真留句 (カワル マルク) の物語 ・・・初めて当ブログにお越しの方は【真留句はこう言った 0(ゼロ) ブログ案内】からお読みになる事をおすすめします。

脱資本主義的ライフスタイルの戦争抑止効果について 解説版7 真留句はこう言った

 当ブログのカテゴリー「解説版 真留句はこう言った」内の別記事「要約 真留句はこう言った 解説版1」において「脱資本主義のライフスタイル」≒「昔のライフスタイル」が温暖化問題やコロナ問題に代表される現代的な問題のうちの多くに対して、有効な解決策の1つになることを述べました。そのことが当ブログ全体を通してのテーマでもありました。

 

 今回の記事では「脱資本主義のライフスタイル」が温暖化対策やコロナ対応に対して有効であるのみならずに、戦争抑止にも有効である、ということを書きたいと思います。より正確には、脱資本主義のライフスタイルを採用するような人々が多いような社会では、戦争がかなりの程度、抑止されるだろう、ということについて書きたいと思います。それがこの度の記事のテーマです。

 

 また、仕方なく戦争にならざるを得ない場合、人類は今後、どのように戦争を行うべきか、という事の1つの案も「昔のライフスタイル」の観点から書いてみたいと思います。

 

 ※ 「脱資本主義のライフスタイル」≒「昔のライフスタイル」は当ブログ全体通してのテーマです。この記事においても「脱資本主義のライフスタイル」という言葉がキーワードとして登場します。この記事を読むには、それが何を意味するか知っておく必要があります。詳しくは、カテゴリー「解説版 真留句はこう言った」内の記事「要約 真留句はこう言った 解説版1」をお読み下さい。(「要約 真留句はこう言った 解説版1」も長い記事ですが、記事の始め~1章あたりまでを読めば十分です。2章以降は読む必要はありません、当記事を読むにあたっては。)

 

 なお、その記事を読むのを省略する場合は「脱資本主義のライフスタイル」というのの大雑把なイメージは「昔のライフスタイル」と思えばだいたい大丈夫です。当ブログでは「脱資本主義のライフスタイル」という言葉の指し示すところは「昔のライフスタイル」のようなもの、としています。
 即ち
「脱資本主義のライフスタイル」≒「昔のライフスタイル」
な訳です。ですから「脱資本主義のライフスタイル」という言葉は「昔のライフスタイル」という言葉に置き換えればイメージや意味はつかめると思います。「脱資本主義のライフスタイル」というのは農業など一次産業に重きを置いて、高いDIY率(自給自足率)を目指し、小規模で狭い経済圏を成立させること(≒地産地消)を目指します。江戸時代の日本の経済構造などをイメージされると良いかも知れません。君主制までは採用しなくても良いと思いますが、幕藩体制など地方分権などもある程度、イケてるのではないでしょうか。

 

※ 筆者は戦争に詳しい訳ではないです。それでこの記事に書いてあることは「思いて学ばざれば即ち危うし」的な間違い、見当違い、抜けてる視点が多々あると思います。本来ならば、文献や本などで戦争に関する知識や見識を得てから、記事を書くべきなのかも知れません。しかし、それには時間や精神力などコストが掛かります。読者の方には、筆者の怠慢を大目に見て、誤りを判断されたり、あるいは足りない観点を適宜、補完される事を望みます。しかし、この記事において、幾分、部分的にでも役に立つ事柄や知見、視点を提供できるならば幸いです。

 

目次


0章、概要


1章、脱資本主義のライフスタイル(昔のライフスタイル)の戦争抑止効果


2章、仕方なく戦争が避けられない場合、人類は今後いかなる形で戦争すべきか


3章、あとがき


                          0章、概要

 

 当記事の1章では脱資本主義のライフスタイルの戦争抑止効果について説明します。
戦争が生じる原因は幾つかあります。私の思い浮かぶ範囲で以下のようなケース;


〇 食糧不足や肥沃な農地を求めての侵略。
〇 資源や利益を得る為の帝国主義や資本主義的な侵略
〇 東西陣営の対立など、共産主義と資本主義の思想上や価値観の対立

 

 脱資本主義のライフスタイルは上記のようなことが原因で起こる戦争を抑制する力があると私は考えます。それは、脱資本主義のライフスタイルの特徴である、地産地消や高いDIY率、近場の小規模な経済圏で経済が成立すること、過度な競争をしない、などの帰結です。

 

 2章では仕方なく戦争が避けられない時には如何なる形で戦争すれば良いかについて説明します。なるべく原始的な方法、昔の戦争スタイル、即ち徒手空拳や剣、槍、弓矢などで戦争をする、というのが私の案です。核兵器どころか、銃火器も禁止です。

 

 1章と2章がこの記事のメインとなります。以下、各章で詳しく書いてゆきます。

 

1章、脱資本主義のライフスタイル(昔のライフスタイル)の戦争抑止効果

 

 戦争はいろんな原因で起きます。食糧や肥沃な農地を求めてであったり、資源や利益を求めてであったり。また異なる思想や信仰の対立であったり。それには共産主義と資本主義の思想上の対立であったり、異なる宗教の対立があります。


 これらのうち、宗教による対立以外に対して脱資本主義のライフスタイルは戦争抑止効果があると思いますので以下、個別に見てゆこうと思います。

 

〇 食糧など生存に関わる事柄に起因する戦争の抑止
 
 昔のライフスタイルの特徴として地産地消や高い自給率があります。それらは戦争抑止に寄与します。
 今後、温暖化が進めば、食糧や水の不足、農耕可能地帯の減少など生存に必要不可欠な物資が不足することが考えられます。それが、近代では減少傾向であった食糧や農地をめぐる戦争を引き起こす可能性あると思います。古代における戦争の主因はそのような食糧や農地を求めてのようです。第2次世界大戦以降は宗教戦争や、東西陣営の対立など異なる思想、主義、信仰といった精神的なものが原因となる戦争が主(メイン)というイメージが私にはあります。しかし、温暖化が進んで機能する農地が減少すれば、第2次世界大戦以前の食糧、農地、油田やガスなどの資源埋蔵地をめぐる戦争が再び勃発する可能性あるように思えます。


 今後も従来通り、資本主義社会の維持を目指して、科学技術と経済成長の進展を目指せば、温暖化も進み食糧難が引き起こされ、戦争の動機が増えると思います。それ故、行き過ぎた資本主義社会であるよりは、社会全体が脱資本主義のライフスタイルを採用している方が戦争が抑止されると私は思います。

 

〇 帝国主義や経済成長、資本主義的事情による戦争の抑止

 

 第二次世界大戦以前は帝国主義の時代ということで、先進国は国益や富、財を求めて、海外に進出し世界各地に植民地を作ろうとしました。それは国民の生活を足るものにするに留まらず、過剰な利益を求めることが動機にあったと思います。また、足るを知るで留まっていては、他の競争相手に敗れ、凋落してしまうということで否応なしに、諸外国との植民地拡大争いにお互いに巻き込まれてしまう部分もあったろうと思います。

 

 資本主義というのは競争と拡大を伴うものです。競争というのは経済競争、企業間の競争、商店や飲食店やコンビニなどの競争などです。拡大というのは経済成長、商圏の拡大、企業における収益の拡大、商店(飲食店や菓子店など)の支店出店などの商業規模の拡大などのことです。


 こういった資本主義社会における商店、企業の競争と拡大というミクロな現象はバスの通奏低音のような役割を演じて、資本主義による戦争というマクロな現象の遠因になるような気がしてなりません。(※ このように、資本主義なり共産主義のあるミクロな性質が通奏低音のようにして、他のマクロな性質に影響を及ぼすというか、ミクロな性質がマクロな性質として顕れてしまう気がします。それは別記事「資本主義と共産主義に関するいくつかの考察 真留句断片11」において考察しようと思います。)

 

 経済成長や経済競争といった資本主義的経済の方向性を求めるのではなく、地産地消と高い自給率を主にして広義の経済(即ち人々の生活を可能とする経済)を目標とし足るを知る経済を目指すならば、他国への侵略は不要となると思います。経済成長や経済競争を渇望すれば、それは他国への侵略を引き起こさざるを得なくなると思います。なるべく各国で自給体制を目指し、自給が無理ならば貿易でカバーする。むしろ自営業者、あるいは生産者としては、国の領土や商圏が拡大しない方が資本主義的競争相手も現れずに安心できる面があると思います。結局のところ資本主義的商業競争はマクロな形で国家や陣営間の争い→戦争を引き起こす原因、元凶かも知れない、などと私は思います。

 

 脱資本主義のライフスタイルは地産地消や高い自給率など足るを知る経済を目指しますので、その手の侵略とは無縁になると憶測します。

 

 日本ならば石油資源に頼るのではなく、木材、薪などの森林資源をエネルギーとして利用するのが良いと思います。(木は太陽光エネルギーを蓄えます。ある意味、天然の太陽光パネル+バッテリーとも見なせる訳です。。薪を燃やして解放されるエネルギーで暖をとったり調理できます。しかし、薪の解放エネルギーを変換して人が電気製品を動かす為に利用できる形まで十分な電力を発電するのは厳しい気がします、第一感)


〇 東西陣営の対立、即ち共産主義と資本主義の思想上の相違による戦争の抑止

 

 戦争は異なる思想や信仰、価値観の間の対立によって生じます。即ち精神的な、あるいは人の心が原因で戦争が起きる訳です。そのうちの1つとして資本主義陣営と共産主義陣営の対立があります。第2次世界大戦以降は冷戦など資本主義陣営と共産主義陣営の対立があります。東西陣営の対立とも言われます。

 

 脱資本主義のライフスタイルはその手の戦争も抑止できると思います。というのは「解説版1 要約 真留句はこう言った」で説明したように「地域分散小規模経済圏が成立する中でエシカルな資本主義経済が行われる」のと、「分散した小規模な地域で行われる小さな共産主義経済(小規模な共産主義)」は実質、その制度の下で生活する人々にとってほとんど同じような生活形態、経済形態であり、それこそが「脱資本主義のライフスタイル」における経済だからである。


 即ち「脱資本主義のライフスタイル」は資本主義的な性質と共産主義的な性質を両方、持っているので、資本主義と共産主義という異なる主義の争いは解消される可能性があります。(しかし、骨肉の争い、近親の争いはさらに酷い、という可能性もありますが。)

 

 共産主義はもともと資本主義へのアンチテーゼとして考案されました。「脱資本主義のライフスタイル」も行き過ぎた資本主義へのアンチテーゼとしての案の1つです。故に共産主義の信仰者から見て「脱資本主義のライフスタイル」は文句はあまりないはずです。
 
 また「脱資本主義のライフスタイル」はいちおう私有財産制のもとで行われることを想定してますので資本主義体制下の国民からも文句はないはずです。「脱資本主義のライフスタイル」が採用されると都合が悪いのは富裕層や大企業など、現行の行き過ぎた資本主義社会で大きな富や利益など既得権益を得ている人々でしょう。


 脱資本主義のライフスタイルへの移行は戦争や革命によって政府の方針を転換させるという形で行われるものではありません。国民に制度を押し付けるトップダウン式な方式で脱資本主義のライフスタイルを人々に強制するものではありません。

 

 そうではなく人々が自らの意思で採用する形で脱資本主義のライフスタイルは実現され、拡がるものと私は考えております。即ち、それは草の根的な拡大であり、庶民が脱資本主義のライフスタイルを採用することでボトムアップ式に拡がるものと思います。それは庶民の生産活動(働き方)や消費活動(買い物、購買活動)といった経済活動を通じてなされます。特に後者の消費活動に関しては、庶民がエシカルな消費を行う必要があります(エシカルな消費=倫理的な消費)。これが脱資本主義のライフスタイルと従来の行き過ぎた資本主義的ライフスタイルの大きな相違点となります。

 

 資本主義体制下の経済部門において消費活動、即ち買い物は、あたかも選挙における投票のような性質を持ちます。買い物を通じて消費者は単に商品を得るに留まらず、買った商品の生産者なり企業、商店への支持もしていることになります。買い物を通じて多くの投票を得た企業は残り、投票を得る事が出来なかった企業は廃業します。あたかも、多くの投票を得た人が当選し、票を集めることができなかった人は落選する、といった感じにです。そのような買い物という投票活動を通じて企業のあり方を消費者は是認していることになります。そのようにして企業の存続が決定され、社会における経済部門が形作られます。そしてそれは社会における経済部門のみならず社会のあり方の大半をも決定するようにも私には思えます。即ち、資本主義体制下の経済部門は絶えず、消費者の購買行動という投票によってあり方が決定、あるいは是認されている、とも見なせるわけです。

 

 脱資本主義のライフスタイルも上記のような消費活動による投票の結果、成立するので、その意味では資本主義体制下で実現され、また民主的でもあります。現行の行き過ぎた資本主義体制下とは別の方向に買い物というか投票せねばなりませんが。

 

(脱資本主義のライフスタイルを後押しする具体的な買い物の仕方については当ブログのカテゴリー「解説版」内の別記事「真留句のことば 解説版5」や「真留句リスト 解説版3」をご参照ください。)
 
 ソ連などで資本主義(王政?)から共産主義への移行がトップダウン式に、暴力的に行われた過去の出来事を枯れ草を炎で燃やし一瞬にして枯れ草から炎(光)や熱の形で大きなエネルギー解放する事柄に比すならば、行き過ぎた資本主義から脱資本主義のライフスタイルへの移行は庶民の買い物による投票や働き方を通じた静かなる革命であり、枯れ草が微生物の働きで緩慢に分解されながら徐々に発熱し土壌を豊かにする様に比すことが出来るかも知れない。

 このように、行き過ぎた資本主義から脱資本主義のライフスタイルへの移行は暴力的な戦争ではなく、買い物による投票といった選挙戦のような民主的、庶民的な平和な投票による戦いによって実現されると私は想定している。しかし、これは現在の日本において、新党や共産党、あるいは過去にあった緑の会議が政権を握るのと同じような難易度があるように私は思う。しかし、これからの状況や国民次第では実現もありえる、否、実現されなくてはならない。

 

 また、上記の説明から行き過ぎた資本主義→脱資本主義のライフスタイルへの移行は、資本主義→共産主義への移行の際のような暴力や戦争は伴わないことも分かる。(生産手段や企業を政府が強制的に没収、国有化することはない。)


〇 脱資本主義のライフスタイルでは抑止できないタイプの戦争の例・・・宗教戦争など

 

 多くの人々が脱資本主義のライフスタイルを採用することで様々な原因で生じる戦争のうち、ある程度のタイプは抑止できるのではないか、ということを今まで論じてきた。
 しかし、脱資本主義のライフスタイルでは抑止できないタイプの戦争もある。
 それは宗教戦争である。即ち、信仰を異にする人々の間の対立である。
 宗教はある意味、商品のやり取りや生活といった経済などを超越した事柄である。それもあり脱資本主義のライフスタイルの守備の範囲外の事柄でもある。
 私が範にすべきと思う江戸時代の日本という太平の世においても島原の乱という宗教の乱が生じている。やはり、宗教戦争は難しい部分があると思う。 
 また一神教はその厳格さから、どうしても争いが生じ易い性質があるように私は思う。
 
 以下、やや宗教戦争からは脱線する。戦争抑止における一神教の問題点の為の補題である。

 争いを避けるのに大切な一要素として多様性の尊重がある。人々は多様なので、お互いに相手の立場に想いをめぐらせ、お互いを尊重し合えば、かなりの程度、争いは無くなると私は思う。
 戦争が生じる1つの原因として分離、独立戦争がある。これは、体制側、大勢を占める側が少数派への配慮が足りず、とか、少数派を蔑ろにし、ならば、ということで、少数派が体制側についていけないので独立を目指すから生じるのだと私は思う。ここにおいて、余裕のある大勢の側が少数派に対して配慮すべきで、既に苦しい立場にある少数派に我慢を強いたり、場合によっては、さらに少数派にとってマイナスになる政策を取ることすらあるように思う。多数派が少数派や弱い立場の身になって多様性の観点に立ちならば、少数派に配慮したり寛容になるならば、皆がまあまあ生き易い世になり、戦争もかなりの程度、抑止されるだろう。


 脱線が長くなってしまったが、宗教戦争の話題に戻る。一神教というのは、その性質上、多様性を認めない部分がある。私の神以外は、認めないからである。一神教においては神の多様性は認めないのである。(あるいは同一の神を信仰してすら、過去における最後の救世主が誰であったか、ということの多様性を認めないことによる、見解の相違もある。)戦争抑止においてキーワードとなる多様性。この多様性と唯一の神は両立しない。これが宗教戦争の抑止が難しい点の1つであるように私は思う。

 
〇 1章の終わりに

 

 今後の世界平和を考える上で、江戸時代の徳川幕府による統治の仕方を参考にしたり、研究したりする手もあると思いました。江戸時代の経済やライフスタイルは、現代の我々、世界全体の人々の今後、とるべきライフスタイルとして参考になると私は思っています。太平の世であった江戸時代のライフスタイルの延長はそのまま、世界を戦争を減らす効果もあるのかも知れません。統治機構も流石に幕藩体制そのままというのは不味いと思いますがエッセンスや構造を研究すれば世界平和の役に立つのかも知れません。

 

    2章、仕方なく戦争が避けられない場合、人類は今後いかなる形で戦争すべきか
 
  異なる国なり勢力の間でトラブルや意見の不一致が生じた場合、外交、話し合いで解決できれば、それに越したことはない。しかし、どうしても話し合いで妥協点が見つからないとなれば、仕方ないことだが戦争にならざるを得ない。
   
 現在のところ核兵器は別格の威力があり、破壊力が大きいということで、かなりの程度、使用が規制というか禁止されている。しかし、私はさらに規制の範囲を拡張してミサイル、戦車や戦闘機などの兵器、銃火器、弓矢などの飛び道具、金属製の刀剣、槍や盾をも規制するのも1つの案のように思う。徒手空拳で戦争するのである。即ち、戦争も「昔のライフスタイル」で行うのが「脱資本主義のライフスタイル」である。馬鹿げていると感じる読者が大半とは思うが私はかなりの程度、本気である。以下、詳しく書いてゆくことにする。
 
 「脱資本主義のライフスタイル」として江戸時代の日本をお手本とすれば良いのではないか?ということは当ブログでは事ある毎に書いてきたことである。
 江戸時代の前の戦国時代におけるある戦争のエピソードから戦争の仕方についてヒントを得る事が出来る。

 

 それは川中島の合戦である。戦国時代屈指の大名である上杉謙信武田信玄が相争った戦いである。両者はライバルでもある。川中島の合戦はなかなか決着がつかず、5回ほども行われたそうである。即ち第五次川中島の合戦まで行われたそうである。そして双方ともに多くの兵士や有能な武将を失うなど被害も甚大であったそうである。

 

 そこで最後は被害を少なくする為に両軍ともにそれぞれ1名の代表選士を選び相撲だか組み討ちだかで勝敗を決めたらしい。(組み討ちは、相撲と異なり倒れても負けではない。現代風に言えば、何でもありのバーリ・トード、総合格闘技のようなもの。しかも短刀を握ってである。短刀が真剣ならば、相手を殺せば、短刀が木刀ならば、有効打を入れれば勝ち、だと思う。)

 

 しかし、最後の代表選士による相撲は実は後世、江戸時代の創作で実話ではないそうである。川中島の合戦なり関ケ原の合戦なりで国を二分するような数多くの犠牲者が出る出来事を経験した後世の人々が、大規模化する戦争のあり方を憂い、犠牲者を少なくする為の願いやアイディアをこの創作のエピソードに込めたのかも知れない。もし、そうならば、現在、核兵器の恐怖や犠牲の多いウクライナにおける戦争と同時代に生きる我々は、その願いから、戦争の害を抑える何らかのアイディアを得る事が出来るかも知れない。

 

 先ず、私が思うのは1対1だと負けた方の代表選士に責任が重くのしかかるので、複数名の団体戦にすれば、責任が分散できて良いような気がする。柔道や剣道の団体戦のような感じである。
 あるいは、平和の祭典オリンピックを利用して、相争う、当該国のメダル数や成績ごとに加点して合計点を比べることで戦争の勝敗を決める手もあると思う。この方向性には、いろいろアレンジや改良があると思う。


 川中島の合戦の相撲エピソードが江戸時代の創作ということで、やはり、江戸時代の日本を参考にすることで現代の問題点の解決策のヒントが得られる気がする。

 

 川中島の合戦のエピソードから着想を得た、代表選士制による戦争の案は以上である。
 
 以下は冒頭でも書いた兵器の制限について述べることにする。現在、核兵器の使用は社会通念として規制がかかっているが、ミサイルや戦車、戦闘機などに関しては規制は無さそうである。しかし、もっと戦争において規制を強めれば良いと私は思う。
 以下は規制のレベルである。レベルが高くなるほど規制が厳しくなる。
 
レベル1、核兵器使用禁止
レベル2、ミサイル、破壊力の大きい爆弾、潜水艦、戦闘機、戦艦、戦闘機、戦車の禁止
レベル3、大砲、砲弾の禁止
レベル4、銃火器の禁止
レベル5、弓矢など飛び道具の禁止
レベル6、金属製の刀剣、槍、盾などの禁止(ただし、鎌や鍬など農機具を武器とする事は特別に許される)

レベル7、木製兵器、木刀などの禁止=徒手空拳のみO.K.


現在、現実にはレベル1の規制が社会通念である。戦争においてレベル2は許容されている。ウクライナにおける戦争などはそうである。私はもっと規制を推し進めて、レベル6やレベル7の規制にすれば良いと思う。レベル6ならば木刀や木槍のみが許される。レベル7では徒手空拳しか許されない。
 


    3章、あとがき

 私がこのブログを始めたコロナ初期の頃において、人類の抱える大問題というのは温暖化問題、環境破壊と私は考えてました。そして、やや重大性のランクが落ちる問題として時事問題のコロナがあると思ってました。

 しかし最近、ウクライナで戦争が行われていることで、戦争ついて意識を向けざるを得ませんでした。ウクライナ戦争が生じる前のコロナ発生初期において、社会問題に対する「昔のライフスタイル」という処方箋をブログに書いて文章化した時も、戦争は重大性の高い大問題と思っておりました。しかし、その時は「昔のライフスタイル」という処方箋は戦争問題においては、まったく無力と思っておりました。そして私に戦争に関する知識や知見がないのもあり、「戦争」は当ブログの守備範囲外と思っておりました。


 しかし、最近、いろいろ戦争について考えざるを得ざるを得ませんでした。
 その時に「脱資本主義のライフスタイル」≒「昔のライフスタイル」という、環境問題を始めとする現代的な問題に対する処方箋は人類の今後の戦争問題の処方箋としても、ある程度の有効性があるかも知れない、と思うようになりました。


 そして、この記事を書いた、という次第です。
 
 現代における問題点、即ち、温暖化、気候変動は進み過ぎた科学技術の負の側面が表出したものと私は思います。それは、温暖化のみならず、戦争においても言えることと思います。そして温暖化に関しては行き過ぎた資本主義によるところがあると思いますが、もしかしたら行き過ぎた資本主義は戦争をも助長するものなのかも知れません。
 
 温暖化対策としての処方箋の1つが「脱資本主義のライフスタイル」あるいは「昔のライフスタイル」だとすれば、それは現代の戦争において被害が大きい、という問題点の1つの処方箋となるのかも知れません。

 温暖化や戦争を始めとする現代における問題点の多くは、進み過ぎた科学などが現代的であることこそが原因であると私は思います。故にその解決策の1つは「昔のライフスタイル」を参考にすることだと思います。(現代の技術のうち医療技術などは残して、負の部分を削ぎ落す。)

※ また、私の考えている「脱資本主義のライフスタイル」≒「昔のライフスタイル」以外にも「脱資本主義型社会」の案がいろいろ多様にあると思います。それらは、細かな差異はあっても概ね同じ方向性を向いていたり、共通する考えが多かったりする場合もあるかと思います。そういった「脱資本主義型社会」も概ね、今回の記事で書いたような戦争が抑止され易い性質を持つのではないか、と私は思います。

 温暖化問題と人類の戦争は、資本主義と科学技術の行き過ぎともに被害の度合いや危険性の増しつつあります。

 それらを抑止する為に我々は「脱資本主義型社会」を目指さねばならないと私は思います。