要約 真留句はこう言った 解説版1 ver.4
始めに 本ブログ全体のテーマと要約・・・
今後、目指したら良いかも的なライフスタイル、あるいは社会システムの1つの案
【脱資本主義的ライフスタイル≒ポストコロナのライフスタイル≒昔のライフスタイル】
かつては人類の生活に豊かさをもたらしてきた資本主義が現在、行き過ぎの様相を呈していて様々な問題を引き起こしている。その問題とは温暖化、異常気象、気候変動、環境問題、そしてまた、労働環境、生活環境の悪化、ストレス社会、少子化、学校及び職場におけるいじめ等である。それらは現在、人類の抱える主要問題である。それらの問題は現在、解決策の登場が望まれるものである。
本ブログのテーマ、主題はその解決案の1つを提示する事にある。行き過ぎた資本主義の引き起こす様々な問題を解決、克服するライフスタイルを【脱資本主義のライフスタイル】と呼ぶ事にする。それは温暖化を抑制し、ストレス社会、生きづらさを軽減し、人々に生きがいをもたらし、幸福感を高めるようなライフスタイルである事が望まれる。今、【脱資本主義のライフスタイル】の登場が必要な局面であると私は考える。
また別に時事問題としてコロナがある。コロナ対応に適したライフスタイルのことを【ポストコロナのライフスタイル】とこのブログでは呼ぶことにする。
主張1、昔のライフスタイルを参考にして現代的ライフスタイルとバランス良く組み合わせたものは、脱資本主義のライフスタイルの1つになる。また、それはポストコロナのライフスタイルの1つにもなる。
この主張1が、このブログ「真留句はこう言った」の主要テーマとなる。 現代のライフスタイルに昔のライフスタイルを取り入れる事で生まれるライフスタイルが、脱資本主義のライフスタイルの1つの候補であると、主張1は言っているのである。
(脱資本主義のライフスタイルの候補は上記の1つに限る訳ではなく、いろいろ複数、考えられ得るはずである。即ち、当然の事ではあるが解決案は唯一つとは限らないだろう。しかし、以後、このブログにおいては、【脱資本主義のライフスタイル】という言葉の意味は主張1で提案した昔の生活様式を取り入れたライフスタイルという1つの候補のみを限定して表すことにする。即ちこのブログにおいては【脱資本主義のライフスタイル】という言葉は私の考える解決案を限定して指し示す事にする。)
現代のライフスタイルの悪い点、欠点をそぎ落とし、昔のライフスタイルそのものや、その構造、骨格を参考にして現代のライフスタイルに取り入れるならば、脱資本主義のライフスタイルとなって、温暖化や、うつ病、いじめ問題、労働環境や生活環境の悪化の問題の解決に繋がり、人々の生きづらさの軽減にもなり、人々の幸福度も増すと私は思う。また、それはコロナ対応にも適したライフスタイルともなる。
ここで【昔のライフスタイル】からイメージされる、田舎で自給自足率が高い生活を送り、冬季は熊の冬眠の如くに引き籠って生活するというのは、直観的にコロナ対応に適したライフスタイルであるとある程度、同意して頂けることと思う。
【昔のライフスタイル】というのはまさしく万能な表現であって、ポストコロナや脱資本主義のライフスタイルの様々な特徴を一言で言い表している。【昔のライフスタイル】こそが私の考える【脱資本主義のライフスタイル】の大まかな方向性を与える指針、大きな幹となる。
この要約の場でその中から、主要な太い枝となるもの五つ、①〜⑤まで挙げてみる事にする;
① 農業などの1次産業や大工、鍛冶職人など衣食住に関わる必需品系の産業に生産と消費のウェイトを置く。それは交換価値よりも使用価値を重視する事とも言える。しかもローカルに生産と消費をする(=地産地消)。しかし情報はインターネットなどでグローバルで良い。現物やリアルはなるべくローカルに(リアルはローカルに、ヴァーチャルはグローバルに。)
※ これは日常用語を用いれば、【買い物の際には衣食住に関わる商品やサービスにお金をかけて、仕事の際にはそのような衣食住に関わる事にウェイトを置く】という事になる。
② 生活の中でDIY率を高める。昔はDIY率が高かった。個人、地域、市町村、都道府県、国あらゆるスケールで生活に必要不可欠な事柄をなるべく自給できる体制にする。
※ DIYとはDo it yourselfの略。自分でする、自給、という事である。
③ 複業体制にする。
①の必要不可欠な仕事と、もう1つ、自分の好きな事、あるいは、自分の道、自分の使命といったような類の事業に取り組む。(半農半Xの拡張→半Z半X 、Z=①のような人々の生活に必要不可欠な部門、X=自分の好きな物事、自分の道、自分の使命的な仕事など) また規模は小さくする。自営業や少人数で仕事をする。大きくしない。
④ 地域に分散した小規模な経済圏が成立する事を目指す。また信頼できる仲間内で③において各自が生産した商品やサービスをお互いに交換し合う。物々交換でもいいし、貨幣を介してでも良い。買い物共同体(=経済共同体)みたいな感じです。共同体の仲間の生業も自分の生業と同様に運命共同体と思って守る。仲間の生業を脅かすようならば、外部には売らない、外部からは買わない。(=エシカルな消費と生産)
⑤ なるべく手業や人力で作業する。しかし適宜、外部動力(電力)も用いる。電力は、水力発電、再生可能エネルギー発電、小規模地域分散型発電(例えば、小水力発電)。化石資源はできれば使用しない。しかし、食糧生産など最低限不可欠な分野などで化石資源に使用が必要な場合は優先順位をつけて使用する。経済競争の為の使用は身を滅ぼすであろう。
①~⑤の補足や説明は、本記事の本編にて後述する。 ①~⑤でもって、私の考える脱資本主義のライフスタイルの中核をなす柱はだいたい述べた事になる。
次の問題として、実際に脱資本主義のライフスタイルが世の中に広まるのか、という問題がある。それについては見込みとしては厳しいかも知れないが、以下のようなシナリオに期待したい;
先ず、第一段階として、少数の精鋭、意識高い系、勇気のある人、志のある人々が脱資本主義のライフスタイルあるいは、そういった方向性のライフスタイルを採用する。先陣を切る、切り込みの精鋭部隊さながらに。確かに経済性の低いライフスタイル故に生活において生きづらい面、困難な面も多々ありそう。しかし、資本主義経済と、それがもたらす社会システムが機能不全に陥りつつある今日、むしろ、脱資本主義のライフスタイルを採用した人々の方が優位に立てる点、生き易い面も多いと思われる。そして、総合的には良い生活、充実した生活を送れる可能性がある。学校や職場におけるいじめ問題やコロナの感染問題、生きがい、労働環境、うつ病、過労、睡眠、長時間労働、労働の対価、時間の余裕などといった点においては現行の資本主義社会に合わせるよりは、脱資本主義のライフスタイルを採用した方が適切なのではないか。
第二段階では、現行の資本主義社会に合わせて生きる、いわゆる普通の生活を送る人々が第一段階で脱資本主義のライフスタイルに移行した人々の生活を見て、そちらの方が良いのではないか、と考えるようになり、脱資本主義のライフスタイルに移行する人々が増え始める。真似し始める、ということである。現行の資本主義社会における庶民の苦境は、自殺率、少子化、過労、未婚率、いじめ問題などに現れている。
確かに脱資本主義のライフスタイルで生きる人々が少数派のうちは、多くの人々が現行の行き過ぎた資本主義社会に異を唱え、脱資本主義のライフスタイル、あるいは別のライフスタイルに移行するとは思えない。
しかし、人間というものは隣人や知人の幸不幸に敏感で、周囲と自分を比べ、そして、現在の苦境を軽減し、幸せそうに見える人々を判別し真似をする傾向はある。それ故、脱資本主義のライフスタイルが今の行き過ぎた資本主義に合わせるライフスタイルよりも格段に充実した生を送れるように傍目から見て感じられるならば、日和見的に脱資本主義的ライフスタイルに移行する可能性はある。
また多くの場合、人は周りの多数の真似をする傾向が強い。
これらの特徴から、脱資本主義のライフスタイルを採用する人数はねずみ算のように拡大する可能性がある。それはちょうどコロナの感染が拡大する様と通ずる部分があるかも知れない。拡大初期は至って少数派である。
最近、Iターンなどで田舎に移住して無農薬農業に取り組んだり、電力や化石資源をなるべく使わない薪ストーブ生活を送る人々が増えてきているイメージがある。現行の行き過ぎた資本主義に違和感を感じてライフスタイルの転換を図ったのかも知れない。私には脱資本主義のライフスタイルの先陣を切る人々のように見える。現在は少数派なので、小さな火種である。しかし近年、この火種が段々と大きな炎となってきているイメージがある。この希望の炎がもっと多様に変容、進展しながら大きく拡がってゆく事を私は願う。
以上が私の脱資本主義のライフスタイル拡大のシナリオである。
江戸時代末期の日本人は今後のライフスタイル、社会システムのお手本を西洋資本主義に求めた。しかし逆に、江戸時代の日本のライフスタイル、社会システムは行き過ぎた資本主義システムの弊害が露わになる現代の世界のお手本、指針になるのではないか。その考えこそが昔のライフスタイルを参考にして、取り入れる、という事なのである。
現在は現代的ライフスタイルに偏り過ぎて、バランスが崩れ、コロナ対応のみならず、人間の生活全体についても不味いライフスタイルになっていると思う。
人間の成人病、心の病、温暖化(異常気象)、環境汚染、労働、賃金、少子化といった現代の主だった問題はまさしく現代特有の問題である。戦後間もない日本や戦前、昔にはこれらの問題は現在ほど幅を効かせてなかった。そこで、安直ながら処方箋として昔のライフスタイルを取り入れるならば、これらの問題も解消、軽減されるのではないか。
以上、要約の要約を述べた。
なお、この段階で【昔のライフスタイル】という大きな幹と上記①〜⑤という主要な枝を提示した。さらに末端の枝や葉に相当する、実践の為の日常のいろいろな具体的行動や身近な行動を知りたい方は別記事の【真留句リスト 真留句はこう言った 解説版3】や【真留句のことば 真留句はこう言った 文章版5i】をご参照のこと。葉に当たるものが書いてある。ここよりは具体的な行動、実践的な行動が書いてある。葉こそは光合成を行い、生きる為に必要な部分なので、やはり大切と思う。
温暖化や生きづらい生活など、行き過ぎた資本主義の問題を改善してゆく具体的な行動、実践的な方法はたくさんあると思います。いろんな本を読んだり、他人との会話やブログからも得られたり、生活の中で自分で編み出したり。また別の方法として、昔の人々のライフスタイルや先住アメリカ人のライフスタイルなどに思いを馳せたり、あるいは参考にする事でヒントが出てきて、芋づる式に具体的な行動が発見できるかも知れません。
要約の本編 目次
1、始めに、の続き
脱資本主義のライフスタイルの中核をなす主要な枝①~⑤の補足と説明
2、この要約の主張の根拠
2-1、コロナの社会的な特徴
2-2、2つの相対するカテゴリー、
【反資本主義的なる事柄】 と 【資本主義的な事柄】
3、経済社会宗教の概念
4、まとめ
5、要約のおわりに
1、始めに、の続き
ここでは脱資本主義のライフスタイルの中核をなす太い枝にあたる①~⑤の項目のやや詳しい説明と補足を行う
① 1次産業など衣食住に関わる仕事の重視+ローカルな生産と消費
1次産業は農林水産業などで、人が生きる上で必要不可欠な衣食住に関わる商品、サービスを生産する。
昔は現代よりも1次産業の生産、消費の割合が多かった。
そこで次のようなことをすると、昔のライフスタイルへの歩み寄りとなる;
生産時 → 複業で1次産業をする。オーソドックスなのは農業。家庭菜園と書いた方が良いかも知れない。これは商売にならなくてもいい、自給用とかでも。 コロナ下でも労働可能、生産活動可能である事も大きい。誰しも実行できるわけでは無いが、可能ならば自分の生活に何らかの形で1次産業(特に農業)を組み込むことである。
消費時(購入時) → 消費(=買い物)も衣食住、すなわち1次産業に関わるものを中心に購入する。労働自粛、失業、転職、短時間労働などで収入は減ることが多いと思われるが1次産業の商品、サービスは安価に済む場合が多い。また高価であるにしても、それに見合った生活の質の向上を購入者にもたらすであろう。
では、消費時(購入時)において何を節約すると昔のライフスタイルへの歩み寄りになるか? 回答→住居(終身雇用をあてにした住宅ローンはしない、ということ、田舎の空き家など利用)、光熱(化石燃料を節約)、交通(税金という形でお金を吸いまくるマイカーを減らす)、通信、保健医療(昔のライフスタイルをとれば病院にあまり行かずに済むだろう)、教育(コスパが最近は低下)、教養娯楽(本当に自分が好きな物に限定する) この消費活動は低収入、低支出と相性が良い。
コロナ対応の有効性→コロナは1次産業の生産活動をあまり妨げなかった。例えば農業は自然にコロナ3密が回避される。他方、3次産業の飲食業、観光業、芸術の生産活動を困難なものにした。
コロナが必需品を生産する1次産業の生産活動をあまり妨害しなかった事は注目すべき事柄であるように思われる。
● ローカル(地産地消)
昔になればなるほど、よりローカルに生産、消費活動が行れていた。 ローカルに生産、消費活動が行われるほどコロナは拡散しづらい。 また生産、消費活動がローカルに行われるならば、行き過ぎた資本主義が生み出す様々な弊害も改善されそうである。(労働や資源の搾取、働き甲斐、生きがいの問題など)
例; 野菜はなるべく自分に近いところで生産されたものを使うほど、昔のライフスタイルになる。一番近いところは自分で育てた野菜。いわゆるDIY、自給自足。買い物するなら自分の街、地域で生産された八百屋さん、直売所や朝市の野菜が最善。それが無理ならば、八百屋さん、スーパーで自分の都道府県産の野菜。それも無理なら国産の野菜。できれば輸入品は避ける。 自分で野菜を育てるのが難しい方もいるので、各人が自分にあったバランス(近⇔遠、あるいは昔⇔現代の)で野菜を入手する。
コロナは標語的には 【ヴァーチャルはグローバルに、リアルはローカルに】 ※ 言い換えるならば、【情報はグローバルに、現物はローカルに】 ※ 英訳; 【Real may local,virtual may global.】 を人類に提案してるのではないだろうか。
② DIY(=自分ですること、自給自足)
上記、ローカル(地産地消)の自分に近いところの極限は、自分の使う(消費する)商品やサービスの作成(生産)を自分ですること、即ちDIYである。
このDIYは昔のライフスタイルのキーワードである。昔は現在に比べDIY比率が高かった。 身近な事では自炊も調理のDIYである。コロナで外食が減り、自炊する人が増えた。これは、人がコロナ対応すると自然にDIY、即ち昔のライフスタイルを取るという実例になる。 自分の生活の中で商品の作成やサービスをDIYする事柄が増えるほど昔のライフスタイルに近づくことになる。
逆に商品やサービスをお金の支払いで済ますほど現代的なライフスタイルに近づく。
コロナで社会システム、経済システムが一部機能しなくなった。昔のライフスタイルをとってDIY比率が高いほど経済システムの混乱の害は受けにくい。(DIY比率が高いとは経済システム、分業システムからの独立性が高い=依存割合が低い、ということだから。ところでDIY的生活とはお金に頼らない生活、とも言える。金(ゴールド)の高騰はおカネの信用力が落ちていることを表している。金(ゴールド)を買うのも良いがDIY用の商品、サービスを購入してDIY力を高め、おカネにあまり頼らない生活を目指すのも1つの方法である。)
また、労働自粛や勤務時間の短縮、失業、巣ごもりなどで収入(お金)は減るが、DIYする時間は増える。コロナとDIY(昔のライフスタイル)はこの点においても敵対関係ではなく親和性とも呼べるものがある。
コロナ以前に長時間労働で得たお金で買っていた調理(=外食)などの商品、サービスを、コロナ以後に短時間労働と減った収入のもとで自炊(DIY)した時の方が人々の幸福度は高かったのではないか?と思う。
またこのDIY、自給自足は今までは個人に対して述べている事であるが同時に地域、市町村、都道府県、国に対しても順次、拡張、移調して読み替えられたい。
即ち、それぞれの圏内で食糧や衣食住に関わる生活の必需品をなるべく確保、生産できる体制を整えるのが望ましいと私は考える。輸入など外部依存はコロナ下では、なるべくあてにしないのが良いと思う。
③ 複業と、半Z半X
● 複業 複業はコロナ以前からある程度話題になってた。コロナ下では、さらに注目されるキーワードとなった。
コロナは飲食業や観光業の生産活動を行えなくし、労働者を遊休状態にした時もあった。自治体によっては、このコロナ離職で職を失った人々に、人手不足の1次産業の仕事、農業、林業、漁業などの仕事を斡旋したりした。一次産業は屋外労働のケースが多く、三密を回避し易くコロナ対応には有利だったからである。
この事例は、例えば飲食店と農業の複業体制にしていれば、コロナ流行時に飲食業の生産活動が出来なくなっても、その時に農業の生産活動を行うことで完全な遊休状態を回避できる、という事を示唆している。即ち、複業体制にする事でコロナの影響で完全に生産活動が出来ない状態に陥らないようにリスク回避、リスク分散している、とも見做せる。
また飲食業と農業の複業については次のような利点もある。それは、料理人が料理を追求すると、どうしても食材の質という問題と向き合う事になる。農業を複業にする事で良質の食材の調達や食材への知見が増すことで料理の道に進展をもたらす可能性もある。実際、料理を追求する姿勢の強いシェフはコロナとは無関係に自らが納得する食材の調達や知見を深める為に農業や家庭菜園に取り組み始めるというケースをしばしば耳にする。
とはいえ、飲食業は長時間労働+立ち仕事で激務である。また農業も播種時期など作物の特性に合わせて時間に追われる作業になったり、農園の規模によっては大変な作業となる。それ故、飲食業と農業複業というのは時間的、体力的、精神的に両立の厳しい点もある。農業の規模を小さくしたり、飲食業の営業時間を短くしたりして実現を目指す事になるだろう。
また、昔は複業のケースが多かった。宮大工を本業としつつも、自らの家族の最低限の食い扶持を自給する為の田畑を持って農業も行っていた。宮大工は寺社以外の一般家庭などの家屋の建造に携わる事は禁じられていたのもあり、社殿の改築、修築などの仕事がタイミング的に無い場合は宮大工の仕事は一切、行えない期間が生ずることもある。そんな時でも最低限度の生活を維持する為の複業のようである。
資本主義が進むと資本主義的競争に優位な専業が普通となった。分業が行き過ぎた状況になったのである。しかしコロナ下では、進み過ぎた分業化、専業化された労働形態が裏目に出てしまった。特に飲食業や観光業においては。
コロナに逆らわずに生活する、と考えると複業の選択に行き着くが、これは脱資本主義のライフスタイルとしても推奨される選択となる。
● 半Z半X
半農半Xはかなり理想的なライフスタイルと思う。これの一般化である半Z半Xが私の理想に思い描くライフスタイルである。ZとXでもって複業体制にする。(注;半Y半Xとは名前は似ているが別物。説明は後述。)
半Z半X・・・Zは農業、大工、織物師、鍛冶屋さんといった1次産業的、必需品を生産する仕事。これはコロナ下でも労働可能、生産活動が可能な仕事でもある。
他方、Xは自分の好きな事、仕事、自分の道と言えるような事、使命的な仕事、やりがいを感ずる事の出来る仕事、その仕事をしてる最中は幸せであるような仕事。労働に没頭できる仕事(=労働しながらマインドフルネス!) このZやXの産する商品、サービスは自給用であっても、他人の労働との交換用(大雑把にはお金と交換できる商品、サービス)であっても、どちらでも良い。
これは生産(労働)に関する事であった。 他方、消費(買い物)について→生きていく上で必要なのに自分で自給できない商品、サービスはなるべく他人のZやXから労働の交換によって(≒お金の支払いによって)入手する。それが不適当な時は旧来の資本主義的市場の商品、サービスを購入する。
即ち、自分が労働中は没頭できる、幸福感を感じれる仕事をして、商品、サービスを生産する。その商品、サービスを自分で使って生活したり、または他人とお金などで交換する。
そして自分で生きていくのに必要だが自分では生産できない商品、サービスを、他人のXやZで生産された商品の形でお金などの方法で交換するのである。
しかし、鎖国中の江戸時代の人々の多くの人はこのような生活を送っていたのではないか、と思う。
※ 注1: もちろん、無理に複業体制にする必要はない。Zのみ、あるいはXのみの専業体制が自分にマッチしてると感じ場合はそれで良い。
※ 注2: ここに出て来た【半Z半X】と【コロナ以前ー15A 人生三分の計】に出てくる【半Y半X】は言葉は似ていますが異なる意味を持ちます;
X・・・ ●好きな仕事、趣味、 ●使命的な事業、 ●魂、心が欲する行動
Z・・・ 衣食住に関わる必需品を生産する仕事、1次産業的な業。
具体的には家庭菜園、農業、林業、漁師、猟師、畜産業、衣服作成、大工、鍛冶屋さん、配管工、瓦職人など
Y・・・嫌々でも良いので生活費を得る為に会社勤めする仕事、アルバイト。この会社勤めの仕事は精神的、肉体的エネルギー、そして時間を消耗し過ぎない仕事にすること。エネルギーはXの注ぐようにする。収入は最低限の生活費を得れれば十分。あとはなるべくDIY(代表的なのは自炊。あとは家屋、配管などの簡単な修繕などを想定されたい)などで節約する。
【半Z半X】は真留句が1つの理想と考えるライフスタイルである。
他方【半Y半X】や【人生三分の計】(※ コロナ以前ー15A 人生三分の計 参照)はその理想的な【半Z半X】に持って行くための過渡戦略、中途段階のライフスタイルである。しかし、この半Y半Xは不安定、変化の激しい時世においては有効なライフスタイルである。その柔軟性故に。総合格闘技や柔術で言うところのガードポジションのようなスタイルである。
④ 小規模分散地域経済圏と買い物共同体
時代を遡るほど、経済圏、あるいは生活圏は小規模になる。それは即ち、時代を経るごとに経済圏が拡がってゆく事を意味する。即ちグローバル化である。
私は昔のように経済圏がなるべく小規模な方が良いと考えている。もちろん、どうしても入手できない必要なものは、逐次、遠距離のところから入手しても良いが。しかし、なるべく近場で済ますべきである。特に現物のやり取りに関しては。
ところで、資本主義を克服するものとしてマルクスが提示したのは共産主義であった。
今後、我々が採用すべきは資本主義か、あるいは共産主義か、あるいはまた別の何かなのか?
私がこの度、提示した【脱資本主義のライフスタイル】は【脱資本主義】という言葉になっているものの、いちおう資本主義の枠組みの中で行われる事を想定している。即ち、私有財産制の中で行われるライフスタイルである。
しかし、それは小規模な共産主義の中で行われるとしても良い。
買い物共同体、あるいは地域に分散した小規模な経済圏が仲間うちや経済圏の住民を運命共同体と思い、お互いの生業を守ろうとしてエシカルな消費(倫理的な消費。欲望や安値に踊らされて買い物をしない事)でお互いを支え合うならば、資本主義の枠組みの中でありながら、資本主義特有の競争などの資本主義下の経済法則が成立しなくなる。
性善説を採用して仲間うちで自発的なエシカルな消費、買い物が行われると期待されるならば資本主義の枠組みで行われよう。
しかし、性悪説を採用して、それが無理だと考えて外部からの規制、強制が必要だと考えるならば小規模な共産制を採用すれば良い。この場合は小規模な共同体内で消費や買い物のルールを強制するのである。
しかし、この小規模な共同体内における生活、ライフスタイルというのは資本主義の枠組みにおけるエシカル消費をするのと、共同体内における小規模な共産制を採用するのは実質、殆ど変わらないと私は考える。共同体の仲間うちである他人の私有財産、生産手段も自らの生産手段と同様に生業の為に守るべきもの、と考えるならば、あたかも共同体内の共有財産のようにも思える訳で殆ど区別がなくなるのではないか。
ソ連などが試みた大規模な共産制の実施は、独裁や強権政治などの悪い面が出やすかった。しかし小規模な共産制では、それらのデメリットがないというイメージが私にはある。
即ち、小規模な共同体、あるいは小規模な経済圏という極限においてはエシカルな資本主義と共産主義は実質、一致する、というのが私の見方である。
そして、それが正しい見方かは私自身も分からない部分もあるが、もしある程度でも正しいとすれば、それをご縁と思い、そのやり方を採用、あるいはその方向性を目指すのが妥当と思われる。先ずはその方向に歩んでみようではないか、の精神である。
我々は買い物をする度に、その方向に歩みを進めるか、あるいは現行の行き過ぎた資本主義の地点に歩むか、している事となる。昔ながらの職人の手業の商品や地域の個人営業のお店で買い物をすれば前者であろうし、近場で購入できる商品をわざわざネット通販で購入したりすれば後者となろう。
⑤ 人力作業と電力に関して
人力作業、肉体労働の割合が昔になるほど大きくなる。他方、現代になるほど人力作業、肉体労働は減って機械作業に取って代わることとなる。
人力作業は一見、避けたい、機械と石油任せにして楽ちんしたいと考える人もいる。しかし様々なメリットがある。
・身体を動かす事はストレス軽減になる。メンタルヘルスで食事、睡眠、運動が大切とよく言われる。ジョギング、散歩、ウォーキング、スポーツ、人力農作業などはそれ自体ストレス軽減になる。汗とともに心の毒(=ストレス)も体の毒も体外に排出される。また不眠、睡眠障害の1つの原因が身体を動かさない事によるエネルギーや元気の余り過ぎにある。身体を動かしてエネルギーを消費させる事で、快眠が導かれる。
・手業の効能
機械で大量生産されるはずの商品を人の手で生産する事は生産者にとっても消費者にとっても有益である。
先ず消費者にとって、手業の商品を購入する事は生活の質を大きく向上させる。食べ物にせよ、器など生活用品にせよ。工場の大量生産品に比べて高くても、実はその価格以上に生活の質の向上をもたらしてくれる場合が多いのでは。我々はもっとこのような消費というか買い物を推進すべきであろう。
次に生産者にとって。手業の向上は生きがいをもたらす。例えば、刃物鍛治や、陶芸家、農作業者などの技術の向上は生きがいにもなるし、自己肯定感の向上にも繋がる。また手業に没頭してる間は幸福感や充足感に浸れるのも大きい。
手業が廃れ、手業の必要な仕事が減り、手業の身につく仕事が減った。コモディティ的仕事、誰でも出来る仕事が増える現代においては、仕事にやりがいや、あるいは仕事を通じて生きがいを持つ事が難しい世の中になっている。
それだから、消費者としては、そのような手業の生産形式を支持する意味でも、安い工場の大量生産品よりも、気持ちのこもった手業品を購入するのが良いと思う。消費者の時の買い物が、生産者としての自分に跳ね返ってくるのである。
また、男性の生きづらさの軽減にもなる。もちろん女性は主婦家事と仕事、場合によっては子育てと、ワンオペで忙しく厳しい環境にある。
他方、だからといって男性が楽かと言えば、そうでも無い。ひと昔前に比べ給料水準も減った。安い給料では奥様に頭が上がらない。未婚者の多さや奥様が働いて共働きせざるを得ない状況は、そのまま男性の地位の衰退を意味する。
定年後、男性は退職したにも関わらず、奥様はパート継続+家事ともなれば、夫婦ともに居心地の悪い状況になり得る。
女性も忙しく大変だが、男性も肩身の狭い状況になり易い今日この頃なのではないだろうか。
この状況の一因は、男性向きの肉体労働が機械作業にとって変わられて女性向きの事務作業やサービス業などが現代において増えたからであると私は考える。
即ち、肉体労働に適性のある男性と現代の社会システムのギャップである。これは一般的には人間の動物的部分、原始的部分と現代文明のギャップによって引き起こされるマズい面の一例となる。
ここで脱線するが、この人間の原始的部分と現代文明のギャップこそが、現代の様々の問題の源泉になってる場合があるので幾つかの例を挙げてみる。この相い容れぬ両者が化学反応を起こす事で大きな害が生ずるケースが多々ある。
例1、人間の原始的部分としての闘争本能と、現代文明の核兵器。あるいは、闘争本能と、現代的な戦争の兵器。これは化学反応の結果、核戦争、人類滅亡、地球破壊が引き起こされる。
例2、前述の人の動物的特性としての男性の肉体労働適性及び外仕事する場合が多いことと、現代における肉体労働の減少。
例3、男女問わず、動物的特性として、身体をたくさん動かすのが普通だった人間と、現代における機械作業で肉体労働が奪われた事。これは、化学反応の結果として運動不足とそれによる病気、睡眠不足、ストレスが発散されない、などを引き起こす。
例4、人間の動物的特性として日中行動して、夜間は寝るという事と、現代における電力利用や夜間労働。これは、化学反応の結果、労働者の体調不良や睡眠障害が引き起こされる。
脱線おわり。
脱線したが、話を元に戻す事とする。
手業や肉体労働を復権させる事で再び、男性にとって生きづらさが軽減されると私は考える。男性が動物的適性をもつ肉体労働が復権する事で男性の生きづらさが軽減されるかも、なのである。
・前述した事ではあるが手業の推奨は機械作業の完全な排除を意味する訳ではない。私は必需品の生産量に問題が生じる場合は適宜、機械と電力などの外部動力は用いても良いと考えている。ポル・ポトと同じではないので誤解されませぬよう。
しかし、とにかく手業、肉体労働を多くすれば上述のメリットのほかに勿論、化石燃料や電力の節約が挙げられる。主要なデメリットは生産量が減る事である。しかし、その場合は前述したように機械や外部動力で補えば良いと私は思う。
電力に関する言及→未記入。いずれ、改訂時に書くかも。
なお、その他いろいろな具体的行動は【真留句はこう言った 文章版3i 真留句リスト】ご参照のこと。
以上のようにコロナ対応で昔のライフスタイルを取り入れることは、そのまま人の生活の質の改善、幸福度の上昇にもなるし、環境問題対策、異常気象抑止にもなる。
コロナはコロナ対応を人類に迫ることで、持続可能なライフスタイルを強制、エンハンス(助長)してるという見方もできる。
2、この要約の主張の根拠
今まで、【昔のライフスタイル】が【ポストコロナのライフスタイル】や【反過剰資本主義のライフスタイル】の指針となる事を主張してきた。この2章では、その理由を説明する事にする。
2-1、コロナの社会的な特徴
先ずはコロナの社会的な特徴を挙げてみよう;
● 資本主義的に優位な、都市、3次産業(観光、飲食、サービス業)はコロナ下での活動、生産活動は困難である。
● 他方、資本主義的に不利な、田舎、1次産業(農林水産業、大工)はコロナ下でも活動や生産活動が容易である。
● また、同じ飲食店でも都市部、チェーン店、従業員が多い、大きい店舗、設備投資が優れてる(=借金の賜物であることがある)、人口が多い立地(=家賃が往々にして高いものである)、経営手腕やマネジメントに優れ、といった経済競争に優位な、即ち資本主義的競争に優位な属性の多いお店の方がコロナに耐えるのが困難である。
● 他方、郊外、パパママ経営(家族経営)、小規模店、不利な立地(=家賃が安いことが多い)、自宅兼店舗、不器用、経営分析やマネジメントは行ってなさそうでフィーリングと勢いで営業をしてそう、といった経済競争において不利な経営形態、即ち資本主義的に低位なお店の方がコロナの影響に耐えるのが容易である。
大雑把に言えば、商売上手な飲食店ほどコロナに耐えるのは困難であり、 他方、商売下手、金儲けが下手な飲食店の方が、コロナに耐えやすい。
以上より、
【コロナは社会的には反資本主義的属性(あるいは反資本主義的影響力)を持つ】
と考えても良いように思われる。実際にコロナは経済活動を妨げているのだから、そう言っても良いだろう。 だとすれば、
【反資本主義的ライフスタイルは、コロナ対応のライフスタイルにもなる。】
と考えてみるのも良さそうである。大雑把には
【金儲けにならないライフスタイルは、そのままコロナ対応の有効なライフスタイルになるかも知れない。】
とも言える。
【反資本主義的ライフスタイル】の典型的なものであり、かつ様々な特性を兼ね備えているのがこの要約でのテーマ【昔のライフスタイル】である。【昔のライフスタイル】が直観的に資本主義的に低位なライフスタイル、即ち反資本主義的ライフスタイルであることは明らかである。(【真留句はこう言った 文章版2i 詳しい説明】で妥当性のしっかりした説明をする。また、反資本主義的ライフスタイルが必ずしも脱資本主義のライフスタイルと言えるかどうかは定かではない。しかし、脱資本主義のライフスタイルというのは反資本主義的性質を備えていると考えるのは妥当そうである。また今回の議論において数学的、論理的な厳密さは求めない事にして、読者には大きな心で【脱資本主義のライフスタイル≒反資本主義的ライフスタイル】を受け入れて頂きたい。)
【昔のライフスタイル】はコロナ対応のライフスタイルの典型例と言える。
ところで、コロナが反資本主義的であるということから、真留句がコロナ以前から説いていたライフスタイル、生き方は、そのままコロナ対応、ポスト・コロナにおけるライフスタイルになり得るのである。というのは、真留句はコロナ以前から、行き過ぎた資本主義のバランスと均衡を取り戻すべく、資本主義を抑制するようなライフスタイル、即ち、反資本主義的なライフスタイルを説いて来たからである。
2-2、二つの相対するカテゴリー、
【反資本主義的なる事柄】 と 【資本主義的な事柄】
先の2-1、コロナの社会的特徴における考察から【コロナは反資本主義的属性】を持つことがわかった。 そこで、【反資本主義的な事柄】と【資本主義的な事柄】という2つの相対する概念を考えることにする。そして、幾つかの分野の事柄をどちらのカテゴリーに属するか列挙して書き下すことにする。 なお同じローマ字の事柄は対応し合う事柄で正反対の事柄である。
【反資本主義的な事柄】
※ 反資本主義的≒自然的 とも言える。
a 昔(のライフスタイル)
b ローカル (=地産地消)
b-1 DIY
c 複業
d 1次産業
d-1 農林水産業
e 田舎
f 環境保全、持続可能性
g コロナ
h 効率が悪い
i 生産性 小
j 使用価値
k 人間
l 美
【資本主義的な事柄】
a 現代(のライフスタイル)
b グローバル
c 分業(=専業)
d 3次産業
e 都市
f 環境汚染、温暖化、異常気象
g コロナワクチン?
h 効率的
i 生産性 大
j交換価値
k 人間の作り出した環境
l 醜
なおこの区分けの妥当性、理由は【真留句はこう言った 文章版2i 詳しい説明 】でそれぞれの事柄を詳しく考察する際に述べることにする。
ところで以下のような性質がある。 同じ【反資本主義的な事柄】に属する事柄同士は親和性が高い。 同様に同じ【資本主義的事柄】に属す事柄同士は親和性が高い。 他方、【反資本主義的事柄】と【資本主義的事柄】、それぞれ別のカテゴリーに属する事柄は往々にして対立、敵対することが多い。
例1;同じ【反資本主義的な事柄】に属するa 昔のライフスタイル、b ローカル、d 1次産業、g コロナ、f 環境保全は親和性が高く連動している;
昔にさかのぼるほど、生産活動、消費活動においてローカルの度合いが強まり、かつ1次産業の占める割合が高くなる。そして社会的コロナ対応も容易になり環境負荷も軽くなる。
例2; 【反資本主義的な事柄】に属するgコロナと【資本主義的な事柄】に属するb グローバル、c 分業(=専業)、 d 3次産業、 e 都市は対立、敵対関係にある;
コロナはグローバル化を抑制し、3次産業(特に飲食業、観光業、金銭で生計を得る芸術)の生産活動を困難にし、それを専業とする人々の生計に打撃を与えた。また、コロナは都市での対応は田舎に比べ不利である。
例3; 【反資本主義的な事柄】に属するf 環境保全は【資本主義的な事柄】と対立するので経済活動の進展と共に一般には悪化する。
例4、【反資本主義的な事柄】に属するk人間は【資本主義的な事柄】と対立する。
資本主義が過剰に進むと人間は悪い影響を被る。 人間に限らず、生物の肉体や精神は環境にゆっくりと適応するものである。人間の心と身体は基本的に数万~数千年前の狩猟や農業で身体を動かして来たライフスタイルと相性が良い。まだまだ人間の身体と心は【反資本主義的、あるいは自然的】なのだ。
人間がここ2,3百年に自ら作り出した環境、身体をあまり動かさないライフスタイルと人間の心と身体は相性が悪い。ここ2,3百年、資本主義によって生み出されたライフスタイルに人間の心と身体は適応出来ないのである。
人間は過剰な食料、睡眠不足、身体を動かさない、社会的過ぎる(四六時中、相性の合わないかも知れない同僚と集団労働にあたる)のには向いてないのである。
これらは少子化、うつ病、成人病、過労、自殺、アレルギーなどを引き起こしている。
例5、l 美醜について 一般に資本主義が進展するほど醜いものが増え、美しいものは減少する;
建築物;西洋、東洋、日本問わず、寺院、教会といった古来の建築物は、ビルに代表される現代的建築物に比して美しいように私は感ずる。
都市;資本主義の進んでない都市の方が資本主義の進んでる都市より美しい気がする。 (例;モスクワとニューヨークや東京、テレビ映像で観た感想です。)
作業機械;昔の鉈、のこ切り、鎌で作業する音は、ガソリンエンジンで動く、草刈り機、チェーンソー、コンバイン、トラクターのエンジン音より美しい。 もしかしたら人間もそうかも知れない。
3、 【経済社会宗教】の概念について
現在、人類、地球が抱える大きな問題である、温暖化、異常気象、南北格差、核、少子化(日本)、人の幸福の減少といったものの解消、解決は【行き過ぎた資本主義】の延長上にある科学技術の進化、経済成長、あるいは現行の社会システムの延長上によって行われるとは考え難い。
それらの問題や【過剰資本主義】に歯止めをかける1つの有力な方法として【脱資本主義のライフスタイル】を述べて来た。(有力な1つの方法としたが私はこれ以外、思い浮かばない ※ ただ、コロナ以前に過剰資本主義を止める術などないと私は考えていたが大自然はコロナという形の想像を越えた事象、毒は毒を以て制す的な方法で経済活動を鈍化させた。それゆえ、同様に私などには想像すらできない何らかの新社会システムは存在するのかも知れない)
この【脱資本主義のライフスタイル】を人々が採用する事で【過剰資本主義】を抑制するのは【経済活動における人間1人1人の心、考え方の変化、そして、それら心の変化に端を発する生産、消費活動といった行動の変化】に託すという点でボトムアップ的な方法である。
このボトムアップ式は、資本主義に変わる新たな新社会システムが発明されて各国で採用されたり、コロナの影響の如く上からの強制力を持つような、トップダウン的なもので【過剰資本主義】を抑制するものではない。
前者のボトムアップ型の社会変革は草の根活動的なもの、という点では宗教の如き性格を帯びている。
かつて、貨幣経済が今日ほどまでに発展していなかった、無秩序と混乱が横行する時代に人類の苦しみに対処し、生活に指針を与える宗教が起こった。仏教、キリスト教、イスラム、ゾロアスター教などである。
宗教は心に大きな影響を及ぼし、日常の生活様式に様々な指針を与える。
貨幣経済が発達した現代は、日常生活は古の昔よりも秩序的なものになっている。しかし経済社会の方は古の昔の日常生活のように混乱、無秩序、経済的暴力が横行しているように思われる。
このような時世だからこそ、かつて古の昔の日常生活に宗教が指針を与えた如くに、経済社会、経済活動に指針を与えるような【宗教の現代アップグレード版】あるいは【経済活動、経済社会における宗教】のようなものが経済社会に秩序をもたらし、経済的暴力の横行を取り除くために有用なのかも知れない。
そのような経済における宗教を仮に便宜上【経済社会宗教】と呼ぶことにする。
【経済社会宗教】と言う名を用いたが、役割は経済社会の中での生活、即ち消費(=買い物)、生産(=労働)などといったものの仕方に指針を与うるのみである。
宗教における神の存在などの役割はもちろん担わない。
別の言い方をするならば、釈迦やキリストが現代をもし目の当たりにするならば、買い物(≒消費活動)、労働(≒生産活動)といった経済活動に関しても何らかの言及をされたはずであると私は考える。その言葉に近いものを推測し、目指し再現した指針が【経済社会宗教】とも言える。
上記要約や、真留句はこう言った 本編や文章版では、消費(=買い物)や生産(=労働)といった経済活動における、お薦め行動が語られている。
その意味では【真留句はこう言った】はある1つの【経済社会宗教】の経典とも言えて、真留句はその伝道者の1人とも言える。
他のブログ、セミリアイヤ系のブログなど見させて頂くと、【経済社会宗教】の優れた教えを披露されてる方を見かける。その方々もご本人にその自覚があるのかは定かではないが、【経済社会宗教の伝道者】の1人と言えるかも知れない。
現在、セミリタイヤのライフスタイルの方が少なくとも旧来の過剰資本主義的ライフスタイルよりも幸福度が高く、適したライフスタイルのように私には思われる。(私はセミリタイヤ系の方の多くが収入源に挙げる不労所得には懐疑的、反対ではあるが。先ず「自分がやられて嫌なことは、他人にもすべきではない」はゴールデンルールと言えそうなので採用する、仮定することにする。誰かが不労所得を得るという事は、他の誰かが労働の正当な対価を得ることができないことを意味する。労働の正当な対価が得られないこと、低賃金が最近の問題の世の中で、不労所得を追い求めるのはミイラ取りがミイラになる、という部分と先ほどのゴールデンルールに抵触することだと私は思う。)
このように、現在、旧来の資本主義のほころびが大きくなって、新たなライフスタイルへの転換が世界で始まっているような気がする。 かつて様々な宗教が人々の生活に規範、秩序をもたらしたように、今日の混乱、無秩序、経済的暴力が横行する経済社会に様々な正しい【経済社会宗教】が人々を苦しみから解放し幸福と良い意味での混沌をもたらす事をここに祈る。
(※ 良い意味での混沌 = 発展途上国、第3世界や昔の日本の市場(いちば)や屋台形式のお店などがある場のイメージ。カオスながらも活気に満ちた場。)
4、まとめ
ここでは以上まで書いた事柄をまとめたり、補足事項を書いてみる事にする。 まずは繰り返し、まとめとなる以下の主張をする; 【1】・・・次のライフスタイルは、だいたい同じライフスタイルになる、一致、重複する部分が多い、大雑把には異名同ライフスタイルとなる; ポストコロナのライフスタイル、反資本主義のライフスタイル、温暖化抑制、持続可能な(SDGsな)ライフスタイル、現代の人間の精神的苦痛、生きづらさを軽減し幸福度が高いライフスタイル
以上の異名同ライフスタイルをまとめて【脱資本主義のライフスタイル】と呼ぶ事にする。
ここでポストコロナのライフスタイルとはコロナ対応に適したライフスタイルの事であり、反過剰資本主義主義のライフスタイルとは、資本主義を抑制するようなライフスタイルである。
驚くべき事に緊急の課題であるコロナ対応に適したライフスタイル、そして将来、コロナ問題以上に大きな問題をもたらすであろう温暖化、異常気象、それを抑制するようなライフスタイルが大雑把には一致しており、なおかつ、現代的生きづらさを軽減し幸福度を高めるライフスタイルでもあるのである。
次に【脱資本主義のライフスタイル】の具体的な形を与える次の主張をする;
【2】・・・【脱資本主義のライフスタイル】の大きな方向性は【昔のライフスタイル】で与えられ、その中でも特に大きな柱となるのは、
● 消費と生産は、ローカルに行われる。即ち、地産地消である。
● 消費と生産は衣食住に重点を置く。
即ち、1次産業(典型的なのは農業)を複業に組み込むこと。そして他方、消費時は1次産業の商品にお金をかけること、ウェイトを置く。
※ 上記の2つを因数分解的にまとめた表現にすれば、 【一次産業にウェイトを置いて、ローカルに生産、消費を行う。】 となる。
● DIYを推進する。 である。
【脱資本主義のライフスタイル】とは【昔のライフスタイルそのものや、その構造なり骨格を基本に使って、さらに現代技術のうちの有用で弊害の少ないもの取り入れたをライフスタイル】というものになると思われる。昔のライフスタイルを適切な取捨選択で現代版にアップグレードするのである。
しかしながら、いきなりそのような【脱資本主義のライフスタイル】の状態に持って行くのは難しいので過渡的に当面は逆に弊害の多い現代のライフスタイルを核にしつつ昔のライフスタイルを取り入れる、といったものになるだろう。
(※ 過渡戦略については 真留句はこう言った コロナ以前ー15A 人生三分の計もご参照のこと。)
ここで時間的な各段階における混合比率、割合、取捨選択は各個人の置かれた状況、環境に応じて人それぞれである。
昔のライフスタイルと現代のライフスタイルの狭間で度合いを加減して、ちょうど良い新ライフスタイルのバランスを見つけることは、あたかも料理でちょうど良い塩加減を見つけるのと似てるかも知れない。
そして順次、だんだん昔のライフスタイルの部分を増やし、現代的ライフスタイルを減少させるのである。
単に昔の生活に戻るのではなく現代にある科学技術や文化のうち、有用なものは残し、無駄なもの、弊害の多いものはそぎ落として、捨てて、昔のライフスタイルを取り入れるのが良いと思われる。
ここでコロナの託宣とも言える2つのメッセージを書いて置くことにする、どちらも既に述べた事である。
【ヴァーチャルはグローバルに、リアルはローカルに】
【衣食住(特に食べ物)に生産、消費のウェイトを置く】
これはまた似た別の表現をすれば
【情報はグローバルに、現物はローカルに】 【交換価値から使用価値へのウェイトの転換】(経済学用語を用いるならば) となる。
この記事も終わりに近づいてきた。ブログとしては長文をここまで読んで下さった事に感謝したい。
ここまで、お読みになって、概ね、内容に同意されるならば、全てが実践可能ではないだろうから、実践可能なものを選択して、部分的にでも実践される事を願う。それは私の提示する方向性に少しずつでも歩みを進める事を意味する。それは、経済的には貧しい道かも知れないが、現行の行き過ぎた資本主義とそれに基づく社会システムが綻びを見せ始めている現代において、採用者に有利な道、助けとなる知見を提供しているものと私は信じている。おこがましくはあるが。
またこの記事やブログの内容における問題点や欠点、抜けてる点のご指摘をコメント下されば幸いに思う。また、その際には、それらの問題点などの解決策までも考えてご指摘下されば、なお有難い。
またブログの内容に概ね賛同できない、という場合でも、せめて、部分的にでも役立つ部分があれば幸いである。賛同しかねるのに大分の部分をお読み下さった事は有難いことである。
いずれにせよ、何らかの形でこの記事やブログが読者の知見の補助になったり、役に立つならば幸いである。
5、要約のおわりに
例え2020年末現在におけるコロナの災厄を科学の力で抑えたとしても、今後、また高い確率で第2のコロナが世界に対峙すると私は考えている。
ここで第2のコロナというのは、またウィルスかも知れないし、超異常気象など別の災厄かも知れない。人類、社会のライフスタイルに大きな影響を与えるような、広義の意味での大事象(大きな事象、イベント)という意味で【第2のコロナ】という言葉を用いている。
現在の資本主義のレールの上で、その場限りの対処を科学の力で行う事はイタチごっこで限りが無く、その度に人類は大きく疲弊するだろう。
だから、私は根本的に人類がライフスタイルを転換しない限り、ずっと何度もいろんな災厄に姿を変えたコロナに対峙し続ける事となると思う。
そのコロナの輪廻から脱する方法は決して未知の方法ではなく、この要約で述べ続けて来た【ポストコロナのライフスタイル】≒【脱資本主義のライフスタイル】≒【昔のライフスタイル(の現代アップグレード番)】であると私は考える。 これらのライフスタイル、あるいは他の適切な方法があるならば、それを、世界が、国が、コミュニティが、家族が、個人が、同志が、採択する事を祈る。
初投稿日 2020年秋
最終改訂日 2023年1月22日
久々の投稿、思ったこといろいろ。私はこう思った8
脱資本主義的ライフスタイルの戦争抑止効果について 解説版7 真留句はこう言った
当ブログのカテゴリー「解説版 真留句はこう言った」内の別記事「要約 真留句はこう言った 解説版1」において「脱資本主義のライフスタイル」≒「昔のライフスタイル」が温暖化問題やコロナ問題に代表される現代的な問題のうちの多くに対して、有効な解決策の1つになることを述べました。そのことが当ブログ全体を通してのテーマでもありました。
今回の記事では「脱資本主義のライフスタイル」が温暖化対策やコロナ対応に対して有効であるのみならずに、戦争抑止にも有効である、ということを書きたいと思います。より正確には、脱資本主義のライフスタイルを採用するような人々が多いような社会では、戦争がかなりの程度、抑止されるだろう、ということについて書きたいと思います。それがこの度の記事のテーマです。
また、仕方なく戦争にならざるを得ない場合、人類は今後、どのように戦争を行うべきか、という事の1つの案も「昔のライフスタイル」の観点から書いてみたいと思います。
※ 「脱資本主義のライフスタイル」≒「昔のライフスタイル」は当ブログ全体通してのテーマです。この記事においても「脱資本主義のライフスタイル」という言葉がキーワードとして登場します。この記事を読むには、それが何を意味するか知っておく必要があります。詳しくは、カテゴリー「解説版 真留句はこう言った」内の記事「要約 真留句はこう言った 解説版1」をお読み下さい。(「要約 真留句はこう言った 解説版1」も長い記事ですが、記事の始め~1章あたりまでを読めば十分です。2章以降は読む必要はありません、当記事を読むにあたっては。)
なお、その記事を読むのを省略する場合は「脱資本主義のライフスタイル」というのの大雑把なイメージは「昔のライフスタイル」と思えばだいたい大丈夫です。当ブログでは「脱資本主義のライフスタイル」という言葉の指し示すところは「昔のライフスタイル」のようなもの、としています。
即ち
「脱資本主義のライフスタイル」≒「昔のライフスタイル」
な訳です。ですから「脱資本主義のライフスタイル」という言葉は「昔のライフスタイル」という言葉に置き換えればイメージや意味はつかめると思います。「脱資本主義のライフスタイル」というのは農業など一次産業に重きを置いて、高いDIY率(自給自足率)を目指し、小規模で狭い経済圏を成立させること(≒地産地消)を目指します。江戸時代の日本の経済構造などをイメージされると良いかも知れません。君主制までは採用しなくても良いと思いますが、幕藩体制など地方分権などもある程度、イケてるのではないでしょうか。
※ 筆者は戦争に詳しい訳ではないです。それでこの記事に書いてあることは「思いて学ばざれば即ち危うし」的な間違い、見当違い、抜けてる視点が多々あると思います。本来ならば、文献や本などで戦争に関する知識や見識を得てから、記事を書くべきなのかも知れません。しかし、それには時間や精神力などコストが掛かります。読者の方には、筆者の怠慢を大目に見て、誤りを判断されたり、あるいは足りない観点を適宜、補完される事を望みます。しかし、この記事において、幾分、部分的にでも役に立つ事柄や知見、視点を提供できるならば幸いです。
目次
0章、概要
1章、脱資本主義のライフスタイル(昔のライフスタイル)の戦争抑止効果
2章、仕方なく戦争が避けられない場合、人類は今後いかなる形で戦争すべきか
3章、あとがき
0章、概要
当記事の1章では脱資本主義のライフスタイルの戦争抑止効果について説明します。
戦争が生じる原因は幾つかあります。私の思い浮かぶ範囲で以下のようなケース;
〇 食糧不足や肥沃な農地を求めての侵略。
〇 資源や利益を得る為の帝国主義や資本主義的な侵略
〇 東西陣営の対立など、共産主義と資本主義の思想上や価値観の対立
脱資本主義のライフスタイルは上記のようなことが原因で起こる戦争を抑制する力があると私は考えます。それは、脱資本主義のライフスタイルの特徴である、地産地消や高いDIY率、近場の小規模な経済圏で経済が成立すること、過度な競争をしない、などの帰結です。
2章では仕方なく戦争が避けられない時には如何なる形で戦争すれば良いかについて説明します。なるべく原始的な方法、昔の戦争スタイル、即ち徒手空拳や剣、槍、弓矢などで戦争をする、というのが私の案です。核兵器どころか、銃火器も禁止です。
1章と2章がこの記事のメインとなります。以下、各章で詳しく書いてゆきます。
1章、脱資本主義のライフスタイル(昔のライフスタイル)の戦争抑止効果
戦争はいろんな原因で起きます。食糧や肥沃な農地を求めてであったり、資源や利益を求めてであったり。また異なる思想や信仰の対立であったり。それには共産主義と資本主義の思想上の対立であったり、異なる宗教の対立があります。
これらのうち、宗教による対立以外に対して脱資本主義のライフスタイルは戦争抑止効果があると思いますので以下、個別に見てゆこうと思います。
〇 食糧など生存に関わる事柄に起因する戦争の抑止
昔のライフスタイルの特徴として地産地消や高い自給率があります。それらは戦争抑止に寄与します。
今後、温暖化が進めば、食糧や水の不足、農耕可能地帯の減少など生存に必要不可欠な物資が不足することが考えられます。それが、近代では減少傾向であった食糧や農地をめぐる戦争を引き起こす可能性あると思います。古代における戦争の主因はそのような食糧や農地を求めてのようです。第2次世界大戦以降は宗教戦争や、東西陣営の対立など異なる思想、主義、信仰といった精神的なものが原因となる戦争が主(メイン)というイメージが私にはあります。しかし、温暖化が進んで機能する農地が減少すれば、第2次世界大戦以前の食糧、農地、油田やガスなどの資源埋蔵地をめぐる戦争が再び勃発する可能性あるように思えます。
今後も従来通り、資本主義社会の維持を目指して、科学技術と経済成長の進展を目指せば、温暖化も進み食糧難が引き起こされ、戦争の動機が増えると思います。それ故、行き過ぎた資本主義社会であるよりは、社会全体が脱資本主義のライフスタイルを採用している方が戦争が抑止されると私は思います。
〇 帝国主義や経済成長、資本主義的事情による戦争の抑止
第二次世界大戦以前は帝国主義の時代ということで、先進国は国益や富、財を求めて、海外に進出し世界各地に植民地を作ろうとしました。それは国民の生活を足るものにするに留まらず、過剰な利益を求めることが動機にあったと思います。また、足るを知るで留まっていては、他の競争相手に敗れ、凋落してしまうということで否応なしに、諸外国との植民地拡大争いにお互いに巻き込まれてしまう部分もあったろうと思います。
資本主義というのは競争と拡大を伴うものです。競争というのは経済競争、企業間の競争、商店や飲食店やコンビニなどの競争などです。拡大というのは経済成長、商圏の拡大、企業における収益の拡大、商店(飲食店や菓子店など)の支店出店などの商業規模の拡大などのことです。
こういった資本主義社会における商店、企業の競争と拡大というミクロな現象はバスの通奏低音のような役割を演じて、資本主義による戦争というマクロな現象の遠因になるような気がしてなりません。(※ このように、資本主義なり共産主義のあるミクロな性質が通奏低音のようにして、他のマクロな性質に影響を及ぼすというか、ミクロな性質がマクロな性質として顕れてしまう気がします。それは別記事「資本主義と共産主義に関するいくつかの考察 真留句断片11」において考察しようと思います。)
経済成長や経済競争といった資本主義的経済の方向性を求めるのではなく、地産地消と高い自給率を主にして広義の経済(即ち人々の生活を可能とする経済)を目標とし足るを知る経済を目指すならば、他国への侵略は不要となると思います。経済成長や経済競争を渇望すれば、それは他国への侵略を引き起こさざるを得なくなると思います。なるべく各国で自給体制を目指し、自給が無理ならば貿易でカバーする。むしろ自営業者、あるいは生産者としては、国の領土や商圏が拡大しない方が資本主義的競争相手も現れずに安心できる面があると思います。結局のところ資本主義的商業競争はマクロな形で国家や陣営間の争い→戦争を引き起こす原因、元凶かも知れない、などと私は思います。
脱資本主義のライフスタイルは地産地消や高い自給率など足るを知る経済を目指しますので、その手の侵略とは無縁になると憶測します。
日本ならば石油資源に頼るのではなく、木材、薪などの森林資源をエネルギーとして利用するのが良いと思います。(木は太陽光エネルギーを蓄えます。ある意味、天然の太陽光パネル+バッテリーとも見なせる訳です。。薪を燃やして解放されるエネルギーで暖をとったり調理できます。しかし、薪の解放エネルギーを変換して人が電気製品を動かす為に利用できる形まで十分な電力を発電するのは厳しい気がします、第一感)
〇 東西陣営の対立、即ち共産主義と資本主義の思想上の相違による戦争の抑止
戦争は異なる思想や信仰、価値観の間の対立によって生じます。即ち精神的な、あるいは人の心が原因で戦争が起きる訳です。そのうちの1つとして資本主義陣営と共産主義陣営の対立があります。第2次世界大戦以降は冷戦など資本主義陣営と共産主義陣営の対立があります。東西陣営の対立とも言われます。
脱資本主義のライフスタイルはその手の戦争も抑止できると思います。というのは「解説版1 要約 真留句はこう言った」で説明したように「地域分散小規模経済圏が成立する中でエシカルな資本主義経済が行われる」のと、「分散した小規模な地域で行われる小さな共産主義経済(小規模な共産主義)」は実質、その制度の下で生活する人々にとってほとんど同じような生活形態、経済形態であり、それこそが「脱資本主義のライフスタイル」における経済だからである。
即ち「脱資本主義のライフスタイル」は資本主義的な性質と共産主義的な性質を両方、持っているので、資本主義と共産主義という異なる主義の争いは解消される可能性があります。(しかし、骨肉の争い、近親の争いはさらに酷い、という可能性もありますが。)
共産主義はもともと資本主義へのアンチテーゼとして考案されました。「脱資本主義のライフスタイル」も行き過ぎた資本主義へのアンチテーゼとしての案の1つです。故に共産主義の信仰者から見て「脱資本主義のライフスタイル」は文句はあまりないはずです。
また「脱資本主義のライフスタイル」はいちおう私有財産制のもとで行われることを想定してますので資本主義体制下の国民からも文句はないはずです。「脱資本主義のライフスタイル」が採用されると都合が悪いのは富裕層や大企業など、現行の行き過ぎた資本主義社会で大きな富や利益など既得権益を得ている人々でしょう。
脱資本主義のライフスタイルへの移行は戦争や革命によって政府の方針を転換させるという形で行われるものではありません。国民に制度を押し付けるトップダウン式な方式で脱資本主義のライフスタイルを人々に強制するものではありません。
そうではなく人々が自らの意思で採用する形で脱資本主義のライフスタイルは実現され、拡がるものと私は考えております。即ち、それは草の根的な拡大であり、庶民が脱資本主義のライフスタイルを採用することでボトムアップ式に拡がるものと思います。それは庶民の生産活動(働き方)や消費活動(買い物、購買活動)といった経済活動を通じてなされます。特に後者の消費活動に関しては、庶民がエシカルな消費を行う必要があります(エシカルな消費=倫理的な消費)。これが脱資本主義のライフスタイルと従来の行き過ぎた資本主義的ライフスタイルの大きな相違点となります。
資本主義体制下の経済部門において消費活動、即ち買い物は、あたかも選挙における投票のような性質を持ちます。買い物を通じて消費者は単に商品を得るに留まらず、買った商品の生産者なり企業、商店への支持もしていることになります。買い物を通じて多くの投票を得た企業は残り、投票を得る事が出来なかった企業は廃業します。あたかも、多くの投票を得た人が当選し、票を集めることができなかった人は落選する、といった感じにです。そのような買い物という投票活動を通じて企業のあり方を消費者は是認していることになります。そのようにして企業の存続が決定され、社会における経済部門が形作られます。そしてそれは社会における経済部門のみならず社会のあり方の大半をも決定するようにも私には思えます。即ち、資本主義体制下の経済部門は絶えず、消費者の購買行動という投票によってあり方が決定、あるいは是認されている、とも見なせるわけです。
脱資本主義のライフスタイルも上記のような消費活動による投票の結果、成立するので、その意味では資本主義体制下で実現され、また民主的でもあります。現行の行き過ぎた資本主義体制下とは別の方向に買い物というか投票せねばなりませんが。
(脱資本主義のライフスタイルを後押しする具体的な買い物の仕方については当ブログのカテゴリー「解説版」内の別記事「真留句のことば 解説版5」や「真留句リスト 解説版3」をご参照ください。)
ソ連などで資本主義(王政?)から共産主義への移行がトップダウン式に、暴力的に行われた過去の出来事を枯れ草を炎で燃やし一瞬にして枯れ草から炎(光)や熱の形で大きなエネルギー解放する事柄に比すならば、行き過ぎた資本主義から脱資本主義のライフスタイルへの移行は庶民の買い物による投票や働き方を通じた静かなる革命であり、枯れ草が微生物の働きで緩慢に分解されながら徐々に発熱し土壌を豊かにする様に比すことが出来るかも知れない。
このように、行き過ぎた資本主義から脱資本主義のライフスタイルへの移行は暴力的な戦争ではなく、買い物による投票といった選挙戦のような民主的、庶民的な平和な投票による戦いによって実現されると私は想定している。しかし、これは現在の日本において、新党や共産党、あるいは過去にあった緑の会議が政権を握るのと同じような難易度があるように私は思う。しかし、これからの状況や国民次第では実現もありえる、否、実現されなくてはならない。
また、上記の説明から行き過ぎた資本主義→脱資本主義のライフスタイルへの移行は、資本主義→共産主義への移行の際のような暴力や戦争は伴わないことも分かる。(生産手段や企業を政府が強制的に没収、国有化することはない。)
〇 脱資本主義のライフスタイルでは抑止できないタイプの戦争の例・・・宗教戦争など
多くの人々が脱資本主義のライフスタイルを採用することで様々な原因で生じる戦争のうち、ある程度のタイプは抑止できるのではないか、ということを今まで論じてきた。
しかし、脱資本主義のライフスタイルでは抑止できないタイプの戦争もある。
それは宗教戦争である。即ち、信仰を異にする人々の間の対立である。
宗教はある意味、商品のやり取りや生活といった経済などを超越した事柄である。それもあり脱資本主義のライフスタイルの守備の範囲外の事柄でもある。
私が範にすべきと思う江戸時代の日本という太平の世においても島原の乱という宗教の乱が生じている。やはり、宗教戦争は難しい部分があると思う。
また一神教はその厳格さから、どうしても争いが生じ易い性質があるように私は思う。
以下、やや宗教戦争からは脱線する。戦争抑止における一神教の問題点の為の補題である。
争いを避けるのに大切な一要素として多様性の尊重がある。人々は多様なので、お互いに相手の立場に想いをめぐらせ、お互いを尊重し合えば、かなりの程度、争いは無くなると私は思う。
戦争が生じる1つの原因として分離、独立戦争がある。これは、体制側、大勢を占める側が少数派への配慮が足りず、とか、少数派を蔑ろにし、ならば、ということで、少数派が体制側についていけないので独立を目指すから生じるのだと私は思う。ここにおいて、余裕のある大勢の側が少数派に対して配慮すべきで、既に苦しい立場にある少数派に我慢を強いたり、場合によっては、さらに少数派にとってマイナスになる政策を取ることすらあるように思う。多数派が少数派や弱い立場の身になって多様性の観点に立ちならば、少数派に配慮したり寛容になるならば、皆がまあまあ生き易い世になり、戦争もかなりの程度、抑止されるだろう。
脱線が長くなってしまったが、宗教戦争の話題に戻る。一神教というのは、その性質上、多様性を認めない部分がある。私の神以外は、認めないからである。一神教においては神の多様性は認めないのである。(あるいは同一の神を信仰してすら、過去における最後の救世主が誰であったか、ということの多様性を認めないことによる、見解の相違もある。)戦争抑止においてキーワードとなる多様性。この多様性と唯一の神は両立しない。これが宗教戦争の抑止が難しい点の1つであるように私は思う。
〇 1章の終わりに
今後の世界平和を考える上で、江戸時代の徳川幕府による統治の仕方を参考にしたり、研究したりする手もあると思いました。江戸時代の経済やライフスタイルは、現代の我々、世界全体の人々の今後、とるべきライフスタイルとして参考になると私は思っています。太平の世であった江戸時代のライフスタイルの延長はそのまま、世界を戦争を減らす効果もあるのかも知れません。統治機構も流石に幕藩体制そのままというのは不味いと思いますがエッセンスや構造を研究すれば世界平和の役に立つのかも知れません。
2章、仕方なく戦争が避けられない場合、人類は今後いかなる形で戦争すべきか
異なる国なり勢力の間でトラブルや意見の不一致が生じた場合、外交、話し合いで解決できれば、それに越したことはない。しかし、どうしても話し合いで妥協点が見つからないとなれば、仕方ないことだが戦争にならざるを得ない。
現在のところ核兵器は別格の威力があり、破壊力が大きいということで、かなりの程度、使用が規制というか禁止されている。しかし、私はさらに規制の範囲を拡張してミサイル、戦車や戦闘機などの兵器、銃火器、弓矢などの飛び道具、金属製の刀剣、槍や盾をも規制するのも1つの案のように思う。徒手空拳で戦争するのである。即ち、戦争も「昔のライフスタイル」で行うのが「脱資本主義のライフスタイル」である。馬鹿げていると感じる読者が大半とは思うが私はかなりの程度、本気である。以下、詳しく書いてゆくことにする。
「脱資本主義のライフスタイル」として江戸時代の日本をお手本とすれば良いのではないか?ということは当ブログでは事ある毎に書いてきたことである。
江戸時代の前の戦国時代におけるある戦争のエピソードから戦争の仕方についてヒントを得る事が出来る。
それは川中島の合戦である。戦国時代屈指の大名である上杉謙信と武田信玄が相争った戦いである。両者はライバルでもある。川中島の合戦はなかなか決着がつかず、5回ほども行われたそうである。即ち第五次川中島の合戦まで行われたそうである。そして双方ともに多くの兵士や有能な武将を失うなど被害も甚大であったそうである。
そこで最後は被害を少なくする為に両軍ともにそれぞれ1名の代表選士を選び相撲だか組み討ちだかで勝敗を決めたらしい。(組み討ちは、相撲と異なり倒れても負けではない。現代風に言えば、何でもありのバーリ・トード、総合格闘技のようなもの。しかも短刀を握ってである。短刀が真剣ならば、相手を殺せば、短刀が木刀ならば、有効打を入れれば勝ち、だと思う。)
しかし、最後の代表選士による相撲は実は後世、江戸時代の創作で実話ではないそうである。川中島の合戦なり関ケ原の合戦なりで国を二分するような数多くの犠牲者が出る出来事を経験した後世の人々が、大規模化する戦争のあり方を憂い、犠牲者を少なくする為の願いやアイディアをこの創作のエピソードに込めたのかも知れない。もし、そうならば、現在、核兵器の恐怖や犠牲の多いウクライナにおける戦争と同時代に生きる我々は、その願いから、戦争の害を抑える何らかのアイディアを得る事が出来るかも知れない。
先ず、私が思うのは1対1だと負けた方の代表選士に責任が重くのしかかるので、複数名の団体戦にすれば、責任が分散できて良いような気がする。柔道や剣道の団体戦のような感じである。
あるいは、平和の祭典オリンピックを利用して、相争う、当該国のメダル数や成績ごとに加点して合計点を比べることで戦争の勝敗を決める手もあると思う。この方向性には、いろいろアレンジや改良があると思う。
川中島の合戦の相撲エピソードが江戸時代の創作ということで、やはり、江戸時代の日本を参考にすることで現代の問題点の解決策のヒントが得られる気がする。
川中島の合戦のエピソードから着想を得た、代表選士制による戦争の案は以上である。
以下は冒頭でも書いた兵器の制限について述べることにする。現在、核兵器の使用は社会通念として規制がかかっているが、ミサイルや戦車、戦闘機などに関しては規制は無さそうである。しかし、もっと戦争において規制を強めれば良いと私は思う。
以下は規制のレベルである。レベルが高くなるほど規制が厳しくなる。
レベル1、核兵器使用禁止
レベル2、ミサイル、破壊力の大きい爆弾、潜水艦、戦闘機、戦艦、戦闘機、戦車の禁止
レベル3、大砲、砲弾の禁止
レベル4、銃火器の禁止
レベル5、弓矢など飛び道具の禁止
レベル6、金属製の刀剣、槍、盾などの禁止(ただし、鎌や鍬など農機具を武器とする事は特別に許される)
レベル7、木製兵器、木刀などの禁止=徒手空拳のみO.K.
現在、現実にはレベル1の規制が社会通念である。戦争においてレベル2は許容されている。ウクライナにおける戦争などはそうである。私はもっと規制を推し進めて、レベル6やレベル7の規制にすれば良いと思う。レベル6ならば木刀や木槍のみが許される。レベル7では徒手空拳しか許されない。
3章、あとがき
私がこのブログを始めたコロナ初期の頃において、人類の抱える大問題というのは温暖化問題、環境破壊と私は考えてました。そして、やや重大性のランクが落ちる問題として時事問題のコロナがあると思ってました。
しかし最近、ウクライナで戦争が行われていることで、戦争ついて意識を向けざるを得ませんでした。ウクライナ戦争が生じる前のコロナ発生初期において、社会問題に対する「昔のライフスタイル」という処方箋をブログに書いて文章化した時も、戦争は重大性の高い大問題と思っておりました。しかし、その時は「昔のライフスタイル」という処方箋は戦争問題においては、まったく無力と思っておりました。そして私に戦争に関する知識や知見がないのもあり、「戦争」は当ブログの守備範囲外と思っておりました。
しかし、最近、いろいろ戦争について考えざるを得ざるを得ませんでした。
その時に「脱資本主義のライフスタイル」≒「昔のライフスタイル」という、環境問題を始めとする現代的な問題に対する処方箋は人類の今後の戦争問題の処方箋としても、ある程度の有効性があるかも知れない、と思うようになりました。
そして、この記事を書いた、という次第です。
現代における問題点、即ち、温暖化、気候変動は進み過ぎた科学技術の負の側面が表出したものと私は思います。それは、温暖化のみならず、戦争においても言えることと思います。そして温暖化に関しては行き過ぎた資本主義によるところがあると思いますが、もしかしたら行き過ぎた資本主義は戦争をも助長するものなのかも知れません。
温暖化対策としての処方箋の1つが「脱資本主義のライフスタイル」あるいは「昔のライフスタイル」だとすれば、それは現代の戦争において被害が大きい、という問題点の1つの処方箋となるのかも知れません。
温暖化や戦争を始めとする現代における問題点の多くは、進み過ぎた科学などが現代的であることこそが原因であると私は思います。故にその解決策の1つは「昔のライフスタイル」を参考にすることだと思います。(現代の技術のうち医療技術などは残して、負の部分を削ぎ落す。)
※ また、私の考えている「脱資本主義のライフスタイル」≒「昔のライフスタイル」以外にも「脱資本主義型社会」の案がいろいろ多様にあると思います。それらは、細かな差異はあっても概ね同じ方向性を向いていたり、共通する考えが多かったりする場合もあるかと思います。そういった「脱資本主義型社会」も概ね、今回の記事で書いたような戦争が抑止され易い性質を持つのではないか、と私は思います。
温暖化問題と人類の戦争は、資本主義と科学技術の行き過ぎともに被害の度合いや危険性の増しつつあります。
それらを抑止する為に我々は「脱資本主義型社会」を目指さねばならないと私は思います。
ウクライナ戦争への私の見解 私はこう思った 7
そば処 あるまんど 真留句はこう言った コロナ以後+3 post coronam
真留句のコロナ後の行脚は続く。
真留句は彼の弟子で辺境の地において閑古鳥系そば屋を営む閑次の下を訪ねた。コロナで飲食業や観光業は大きな打撃を受けていたので真留句も弟子のそば屋が気がかりだったのである。
「おうぅい」と声をかけたが返事がない。
閑次の自宅兼店舗には休業中の看板がかけてあった。
お店の戸を開けて、「おうぅい」とまた声をかける。
2回目の呼び声が消えた跡の店内には、ただオーディオ機器から小さな音量でピアノの楽音が流れ続けるだけであった。
バッハのロ短調のインベンションであった。
先に流れていたト長調のシンフォニアが終わり、ちょうど楽曲は始まったばかりである。真留句はこの演奏を聴いていたい気持ちにかられた。真留句は目を閉じて音楽に耳を澄ました。短い時間であった。演奏が次にロ短調のシンフォニアに移ったところで真留句は節電のために勝手ではあったが演奏を止めさせて、電源を切った。
それから店を出て、辺りを見回した。
近くの畑を見ると、ごく小さなナスの芽が雑草の中でひっそりとあった。
ひっそりではあったが、真留句の眼には懸命に生きているように見えた。
数日続いている日照りに加え、昨日は季節外れの強風が吹いた。
しかし小さいが故に強い風当たりをまともに受けることはなかったのであろう、割と元気そうで小さいながらも生命力を感じさせるものがある。
周りのライバルたる雑草達も続く日照りにはナスと共に葉で日陰を作り、そして根でお互いに土の中の水を蒸発させまいと、共闘中のようである。
このナスは昔ながらの在来種を無肥料で育てているが故に、成長が遅い、否、成長が自然なのだろう。
他方、真留句がここに来る途中の畑で見た、マルチや化学肥料で早く、大きく育てたF1であろうナスやキュウリ、トマトはその大きさが却って仇となってか、昨晩の強風で支柱ごと倒れている株もしばしば見うけられたのだった。
真留句は閑次の他も畑も見に行くことにした。他の畑に閑次はいた。閑次はしゃがんで、雑草を抜いてキュウリの世話をしていた。かといって雑草を抜きすぎるほどではなく。
一心不乱に雑草を取るというのでは、無かった。
雑草を抜いては、しばらく見つめ、考え、また抜いてゆく。
そのゆっくりとした動作は雑草を抜くというよりは畑の中で一種のバランス、調和を保つ儀式を執り行ってるようにも真留句の眼には写った。雑草を排除することと残すことのバランス、調和を。
真留句は弟子にそっと声をかけると閑次が応えた。
閑次「師匠ではないですか、よく私が畑にいることが、わかりましたね。ずいぶんとお探しになられましたか?」
真留句「否、お店の後、すぐにこの畑に。以前は作物を栽培してなかったお店の近くの畑に今日はナスの芽を認めたものだから、あなたが今は農作業をしてるかも知れない、と思った次第だよ。畑の方はまずまずのようだが、そば屋さんのほうはどうかね?飲食店がコロナで受けている被害は大きいと聞きます。そう、あたかもコロナは飲食業や観光業に冬の時代をもたらしたと。」
詳しい事情を話すと、長くなるのですが、と閑次は前置きしてから話し始めた。
閑次「休業しています。しかしコロナの影響は経済的、収入的なことに関しては当あるまんどに関しては、あまりない、と申し上げてよろしいかと思います。情けないことですがコロナがあろうと無かろうと、以前あなたがお見えになった時と同様に閑古鳥が鳴いています。むしろ休業している現在の方が高くつくそば粉や鰹節、しょうゆを買わずに済むから経済的には楽と言って良いのかも知れません。
唯一の収入源のアルバイトはコロナ下でも、何とか勤務できてます。
以前、あなたがここにいらした際に私は次のように言っておりました;【アルバイトにはできることなら行きたくはないですし、お店が経済的に軌道に乗って、アルバイトを止めて、そば屋さんだけで生活するのが夢です。しかし、それは奇跡でも起こらない限り無理である】、と。
しかし、もしそのような奇跡が起こっていたら私は今頃、ひどい目に遭っていたところでしょう。幸か不幸か、お店が閑古鳥が鳴いていて、経済的にはうまくいっておらず、収入を他のサイドワーク、アルバイトに頼らざるを得なかったが故に、今回のコロナの被害をまともに受けることは無かったのです。」
閑次がそのように説明するのを、真留句は閑次の足元の小さなキュウリを見つめながら聞いていた。このキュウリも直播き栽培だろうか、先ほどのナスよりも成長していて大きな本葉のあるものもあったが、やはりまだ小さな姿をしていた。
閑次は続けて語った。
「しかしこのコロナを受けて、そば屋さんを営業して以来、時間不足でやめていた【家庭菜園を再開しなくてはいけない】、そのように感じました。直感というか、心の声と言ってもいいでしょう。そして、【内なる心の声に耳を傾け、従うように】というのが、あなたの教えです。今回はこちらが耳を傾けずとも、自然に向こうの方から語りかけてきたのですから、なおさらです。
農作業は自然にコロナ3密が回避されます。(密教の三密ではありません。)海外からの食糧の輸入ストップの観点からも、コロナ下において農作業をするのは合理的、自然なことのように感じます。
コロナのこともあって、そば屋さんは当分の間、休業せねばなりませんし、そば屋さんに投入する時間の代わりにちょうど、家庭菜園をする時間が与えられた、とも思えます。
」
真留句「飲食業を営む、あなたにとっては野菜を育てることは食材を見つめ直す良い機会となるのかも知れませんね。草木も冬、何もせずにじっと耐えてるようで見えないところではじっと根を伸ばし来るべき春に備えようとしますしね。
ところで、営業自粛の補助金は申請したのですか?」
閑次「師よ、あなたは超俗でありながら、けっこう俗っぽい質問もなされるのですね。
いいえ、飲食店としての自粛補助金の申請はしてないです。そば道具や、お店の設備の問題で仮にコロナが無くとも、営業はすぐには出来なかったはずです。
それに、もともと閑古鳥が鳴いていて
【売り上げ<原材料費】の、あるまんど不等式が成立しているお店です。
あるまんどの補助金申請はいろんな面で補助金の趣旨に反します。
それに、今回のコロナにおける助成金、給付金に私は違和感を覚えずにはいられません。いにしえの飢饉の際に【さつまいもを植えよ】と命じた古人の政策は自然で正しいように思われます。しかしながら、今回の助成金、一律給付金にはとにかく違和感を感じるのです。
しかしながら国民全員に給付される10万円に関しては申請してもらうことにしました。なにせ相変わらず貧しく生活が苦しいものですから。先ほど、【生活費を得るためにアルバイトをしている】と言いました。そば屋さんは赤字でしたから、そのアルバイトが唯一の収入源でした。しかし実は最近、事情があってそのアルバイトも止めてしまったのです。止めた理由は職場の人間関係のトラブルのためです。止めていなかったら、今頃、うつ病など心の病になっていたかも知れません。
アルバイトですし雇用保険には加入してませんでした。失業保険は出ません。このタイミングで行われた全国一律10万円の給付金には本当に助かりました。しかし依然として収入ゼロですし、出費を節約して抑えていても10万円もいずれはなくなります。何とか別のアルバイトの求職活動もしているといった次第なのです。」
真留句「君も相変わらず私と同様に常に金銭的にはギリギリなようだ。一律10万円の給付金が君とっては命綱の失業給付金となったようだ。
神のご加護に感謝したまえ。
ところで私も今回の給付金、補助金の分配には違和感、何かおかしいものを感じるのだ。しかし、現在のところ大規模な株価の下落や恐慌が起こってないところを見ると、【過去において大恐慌はどうすれば回避することが出来たのか?】の経済学的な研究の導く回答は今回の【お金のバラマキ】なのかも知れない。
お金のバラマキ、即ち紙幣の増刷はインフレをもたらすであろう。それはあらゆる分野の企業の倒産を抑制する方へと働くであろう。
先ず第1にインフレは債務者にとって有利に働く。インフレは借金を目減りさせるのだから。銀行から借金をしている企業にとっても有利に働くであろう。
また、第2にインフレを予期した消費者はお金を現物に替えようと、即ち買い物をしようとするだろう。特にプレミアに10万円をもらったのだし、なおさらさ。この購買活動の増加も生産者たる企業には有利に働く。
とはいえ、このツケ、副作用はきっと後からやって来るだろう。そして特に犠牲お強いられるのは我々庶民なのだろう。」
閑次「どういうことなのですか?」
真留句「私にも詳しいことはわからない。しかし次のような考えが思い浮かぶ;お金とは、そもそも労働に他ならない。我々の労働が姿を変えたものだ。労働と等価交換されるべき
ものだ。」
閑次「あなたの言われることは正しいように思われます。」
真留句「労働の伴わない貨幣、お金の乱発とは不自然なものなのだ。インフレなどを招くだろう。
先ほどは企業倒産の抑制というインフレの良い面を述べた。しかしインフレは庶民が血と汗を流して労働と交換して得た財産(貯蓄)を目減りさせる。
また国の借金の利子も増える。利子の返済は結局のところ我々庶民の家計が負担することになるのだ。
現在、乱発されたお金は、未来の労働でもって、しっかりと贖われるであろう。即ち、今後、我々庶民が労働した際に、正当な労働の対価を得ることができない、という形でもって。コロナ以前から既に私は【労働者が正当な労働の対価を受け取ることができない】という問題に言及していた。今後はもっとそれがひどいものとなるだろう。」
ここまで真留句は言うと、しばらく沈黙した。閑次はこの沈黙の時間を使って、長かった師の話を理解、咀嚼し整理するために考えにふけった。閑次も沈黙したのである。
閑次と真留句は高台の畑に立っていた。弟子の沈黙の間に真留句はふと、下方にある畑に目を向けた。
下方の畑は雑草1つ無い黄土色の畑であった。続く日照りは土を固く、黄土色にし、乾いているのがわかる。その畑を「黄土の畑」と呼ぶならば、今、閑次と共に立っている雑草に覆われた畑は「緑の畑」と呼ぶことになるだろう。
雑草1つないその畑は近代の農家が考える1つ理想郷と言えるだろう。
黄土の畑には大きなナスやこれまた大きなキュウリ、たくさん植えられていた。
他に収穫期を過ぎたキャベツもあった。キャベツに至っては大きい、というよりは緑の畑で採れる作物にに対しては化け物のような大きさ、と表現した方が良いような巨大さであった。
トマトやキュウリの中には昨晩の強風であろう、支柱ごと倒れている株も多かった。
ナスやキュウリの根元の土はやや土の色が異なっていた。誰かが数時間前に水を撒いたのであろう、それで色が異なるのである。しかし容赦なく照り付ける日差しで、水はほとんど乾いていて、あと1時間もすれば他の部分と変わらぬ色に戻るであろう。
先ほどの師の話を頭の中で整理し終えた閑次は、今度は師が下方の畑を見つめていることに気がついた。
真留句は早い時期から大きく育っている、その下方の「黄土の畑」を見つめていたのだった。
閑次「あれは私の母が手入れしている畑です。慣行農法の畑、よく手入れされた畑です。化学肥料やマルチを使った作物は私のこの畑よりも早く、大きく育ちます。
作物の生産ということでは効率的です。」
真「しかし早く大きくは、とんだ副作用が生じることもある。
化学肥料のやり過ぎは虫害を招くこともある。雑草がまったく無ければ、虫は育てた作物にたかる他はない。根こそぎ作物が虫にやられてしまう事もある。
対処するには農薬を投入する事になる。」
真「ところで、現代は社会活動、経済活動もより早く、より大きくだ。資本主義の進展とその産物である科学技術を化石資源や原子力を利用して生産活動を行う。学校における集団教育、そして経済競争に打ち勝ち生き残る為には大規模な生産体制、そして効率が求められる。」
閑「しかし、早く大きく、効率重視の経済活動はとんだ副作用が生じることもあります。化石資源の使用は温暖化を招き、原発も一度、事故が起きれば大変です。
対処するには、太陽光発電だとか、また別の科学技術が必要で、しかし、それもまた設置場所の自然破壊など、別の問題があって・・・・」
閑「早く大きく育ち、見栄えの良い野菜や作物を良いと考える人は多いものです。」
真「しかし、早く大きく、たくさん採れた見栄えの良い野菜は、中身が詰まってなく、食味に奥行きがないように思える時がある。」
真「人は高収入や何事にせよ早い事、高い車や高いマンションや邸宅を持つことが良いと思いがちなものだ。」
閑「しかし大きな収入を得ることや物質的な豊かさは人の生を時として空疎なものにする事があるように思えます。」
真「私もそのように思う。高収入は時として人を不幸にすることもあるように思う。健康や家族よりも仕事を優先した為に高収入ではあったが、健康を損なったり、離婚したケースを耳にすることがある。収入が多く、物に恵まれても仕事にやりがいが無かったり、家族と十分に過ごす時間の無い人生は中身の詰まっていない人生と言えるのかも知れぬ。
またネット社会やスマフォは学校におけるイジメを陰湿、凄惨なものにし、もはやイジメとは呼べず、事件や犯罪と呼ぶほうがふさわしいケースさえある。現代社会がどうしようもなく腐敗しているようにも見える。」
閑「化学肥料で早く大きく育てた野菜は、長い期間を経ることなく、ゼリー状に、どうしようもなく腐敗してゆくことがあります。」a
閑次と真留句は再び、閑次の畑、即ち、緑の畑に目をやった。
閑「私の雑草だらけの畑の野菜は成長も遅く、大きさも小さく、また畑からたくさん頂くことは出来ません。」
真「しかしバランスと調和があるように思える。周りの雑草も虫の食べ物なので育てる作物の虫害も部分的。根こそぎやられてしまうことはないだろう。」
真「昔の日本人は物質的には貧しかったかも知れん。」
閑「しかし心の世界や風雅を重んじる風潮があったように思えます。日本は昔の方が、心の豊かさと物質的な豊かさのバランス、調和があったのかも知れません。」
真「確かに今は自らの仕事への誇りやプライドといった心情的なものよりも、損得勘定やお金儲けに重きを置く世の中であるように思う。たくさんお金儲けをしている者が、もてはやされる時代のように感じる。
昔は貧しいながらも自分の腕と仕事に誇りを持った人が今よりもっと多かったろう。
また学校に不良もいたが一線を越えない分を弁えていたように思う。」
閑「緑の畑の作物は小さいです。」
真「しかし、そのような作物は中身が詰まっている感じがする。
また、長く持つ。腐ることなく、萎びてゆくか朽ちるかだ。味は滋味深く、奥行きがある。そして何より、食べた後に身も心も元気になって身体全体からエネルギーが湧いてくる感じがする。ストレスなどで落ち込んでいる時もそのようなものを食べると、気持ちが元気になり、健康になる。
そう、【本物の食べ物】と言えるのではないか。」
真「七世代後のことを考えて現在を生き、温暖化をどうにか止めようと思いながら、自然に逆らわず生きるのは収入が少なくなりがちであろう。」
閑「しかし、手元に自分や家族の時間が充分にあって、少ない金銭で余計な物は買えずとも必要な物を買えるのならば、そして自分が心から望むことや、大切な家族や友と過ごすのに費やす時間が十分にあるのならば、滋味深い、満足のできる中身の詰まった人生と言えるのではないでしょうか。
さらにあなたの言う【本物の食べ物】を食べて命を繋いで行くことができるならば、ーーーーーー食べ物が身体や心を作っているのだからーーーーー【本物の人生】を送れるのではないでしょうか?」
このように閑次と真留句はお互いに話したのだった。
「それにしても」
と真留句は対話の最後に弟子に次のように言った。
「畑は君に肉体の糧のみならず、心の糧をも、もたらしてくれたようだ。」
真留句はそのように言った。
初稿 2020年秋頃
最終改訂日 2023年5月1日
ジビエ推し 今後の肉食について 私はこう思った6
今後、肉を食べたい時にはジビエの肉が良いのではないか、というのが今回の記事のテーマです。
最近(2023年4月下旬頃)のコロナについて思ったこと 私はこう思った5
最近(2023年4月下旬)、またコロナ新規感染者数のカウントが増加傾向のようです。