真留句はこう言った

河流 真留句 (カワル マルク) の物語 ・・・初めて当ブログにお越しの方は【真留句はこう言った 0(ゼロ) ブログ案内】からお読みになる事をおすすめします。

旅が進む毎に経済も進む南米の国々 市場(いちば)とスーパーマーケットそしてレシート 私はこう思った

今週のお題「行きたい国・行った国」

 今から15年以上前の事ですが南米の幾つかの国を旅行しました。その時に印象に残った事を書こうと思います。(※ 以下、この記事は、イメージとしては、あたかも旅行をカラー写真で撮影したというよりは、レントゲン撮影したような話で面白みはないと思います…が、そこをなんとか、よろしくです。)

 その印象に残ってる事というのは市場(いちば)とスーパーマーケットの関係、それからお店でもらえるレシートの事です。

 私は南米にはペルーの空港に到着してペルー→ボリビア→チリ→アルゼンチン→ブラジル→ボリビア→ペルー→空路で南米を出る、の順で移動しました。これは即ち、南米西海岸のやや北側に位置するペルーを起点として大雑把には先ずは南下して南米を反時計周りに移動した事になります。南米の地図を見るとわかり易いですが、言葉で書くとわかり難いか、字数を要します。途中、陸路を鉄道やバスで移動しました。

 

 始めに訪れたペルーやボリビアは経済が進んでなく、人力の労働が多く、物価も安かったです。そして屋台のお店が多く、カオス(混沌)な感じがしました。駅前とかは特に屋台、露店が多い場合があり、お祭りのような雰囲気でした。しかし、それが日常、普段の生活のようです。

 また各都市にはメルカドと呼ばれる市場(いちば)があって、野菜やお肉、食べ物、衣服などがひしめき合って多様に売られてて賑わってました。スーパーマーケットを見ることはありませんでした。私は市場(いちば)の活気や賑やかでカオスな雰囲気をとても気に入りました。

 そしてお店や屋台で買い物してもレシートをもらう事は無かったです。

 物価が安く宿代や屋台の料理も安く美味しく、とても旅し易く(私が男性だったのもありますが。女性だと治安とか不安かも)、また市場や屋台のカオスな雰囲気も良くて、とても気に入りました。

 

 次に訪れたチリでは物価がペルーやボリビアに較べ高くなり、食事代や宿代、バス代金などが高くなりました。

 メルカド(市場)もありましたが、スーパーマーケットもありました。メルカドがどうもスーパーマーケットに押され気味なようで、メルカドの賑わいが減少して少し寂しい感じがしました。メルカドに空きテナントというか、商い場のはずなのに誰もいない空間がけっこう、ありました。ペルーやボリビアメルカドは商売する人や商品や露店がひしめき合っていたのとは対照的です。かつては、その空きテナントで商売してた人がいて、ペルーやボリビアのように賑わっていたのだと思います。日本で言えばシャッター商店街みたいな感じで商売を止めたのだと思います。

 あと、飲食店を利用したら手書きのレシートが渡されました。

 

 次のアルゼンチンになると、経済がさらに進んで、近代的な感じがしてカオスな雰囲気はなくなり日本に近くなるというか、ロウというか秩序があるような感じになりました。緯度も高く冷涼なせいもあるのかも知れませんがペルーやボリビアに比べ、活気がない印象を受けました。治安は良いですが。

 屋台は見かけず、市場も消滅したように感じました。屡々、スーパーマーケットを見かけました。買い物をするとレジスターで印字されたレシート、日本で見かけるようなレシートを渡されます。

 アルゼンチンの物価はチリよりもさらに上がって、宿代、食事代も高くつきました。ボンビー旅行だったのもあり「これは長くは滞在できない」と思って、アルゼンチンは早め通過しました。アルゼンチン脱出の際には確か72時間、ずっと同じバスに乗り続け、その殆どの時間、バスに座ってた記憶があります。大変ですが宿代節約も兼ねることとなります。今の年齢では厳しいと思います。

 

 以上のようなことから、次のような事を感じました。

 ペルー、ボリビア→チリ→アルゼンチン

と進む毎に、近代化が進み、経済が進展し、物価が高くなって行きます。またカオス、混沌→ロウ、秩序という感じでエントロピーが減少して行くというか活気が無くなって行くように感じました。またレシートが進化(?)して行くように感じました。

 チリはいろんなことが、ペルーやボリビアとアルゼンチンのちょうど中間のように感じました。活気やカオスの度合いや物価やレシートなど。

 チリにおけるメルカド(市場)がスーパーマーケットに押されて活気がなくなってる感じは、ちょうど日本における商店街がスーパーマーケットや大型ショッピングモールに押される様が思い浮かびました。

 

 南米、1カ月間くらいの強行軍の旅でしたが、数十年かかるような資本主義経済の進展の時系列の変化を短期間で感じる旅だったようにも思います。

 

今回の記事、旅行記としては面白みの無いものと私自身、思いますが、にも関わらずお読み下さり、ありがとうございました。

要約 真留句はこう言った 解説版1  ver.4

始めに  本ブログ全体のテーマと要約・・・

今後、目指したら良いかも的なライフスタイル、あるいは社会システムの1つの案 

【脱資本主義的ライフスタイル≒ポストコロナのライフスタイル≒昔のライフスタイル】

 

 かつては人類の生活に豊かさをもたらしてきた資本主義が現在、行き過ぎの様相を呈していて様々な問題を引き起こしている。その問題とは温暖化、異常気象、気候変動、環境問題、そしてまた、労働環境、生活環境の悪化、ストレス社会、少子化、学校及び職場におけるいじめ等である。それらは現在、人類の抱える主要問題である。それらの問題は現在、解決策の登場が望まれるものである。

 本ブログのテーマ、主題はその解決案の1つを提示する事にある。行き過ぎた資本主義の引き起こす様々な問題を解決、克服するライフスタイルを【脱資本主義のライフスタイル】と呼ぶ事にする。それは温暖化を抑制し、ストレス社会、生きづらさを軽減し、人々に生きがいをもたらし、幸福感を高めるようなライフスタイルである事が望まれる。今、【脱資本主義のライフスタイル】の登場が必要な局面であると私は考える。

 また別に時事問題としてコロナがある。コロナ対応に適したライフスタイルのことを【ポストコロナのライフスタイル】とこのブログでは呼ぶことにする。    

 

主張1、昔のライフスタイルを参考にして現代的ライフスタイルとバランス良く組み合わせたものは、脱資本主義のライフスタイルの1つになる。また、それはポストコロナのライフスタイルの1つにもなる。

 

この主張1が、このブログ「真留句はこう言った」の主要テーマとなる。 現代のライフスタイルに昔のライフスタイルを取り入れる事で生まれるライフスタイルが、脱資本主義のライフスタイルの1つの候補であると、主張1は言っているのである。

(脱資本主義のライフスタイルの候補は上記の1つに限る訳ではなく、いろいろ複数、考えられ得るはずである。即ち、当然の事ではあるが解決案は唯一つとは限らないだろう。しかし、以後、このブログにおいては、【脱資本主義のライフスタイル】という言葉の意味は主張1で提案した昔の生活様式を取り入れたライフスタイルという1つの候補のみを限定して表すことにする。即ちこのブログにおいては【脱資本主義のライフスタイル】という言葉は私の考える解決案を限定して指し示す事にする。)

 現代のライフスタイルの悪い点、欠点をそぎ落とし、昔のライフスタイルそのものや、その構造、骨格を参考にして現代のライフスタイルに取り入れるならば、脱資本主義のライフスタイルとなって、温暖化や、うつ病、いじめ問題、労働環境や生活環境の悪化の問題の解決に繋がり、人々の生きづらさの軽減にもなり、人々の幸福度も増すと私は思う。また、それはコロナ対応にも適したライフスタイルともなる。  

 ここで【昔のライフスタイル】からイメージされる、田舎で自給自足率が高い生活を送り、冬季は熊の冬眠の如くに引き籠って生活するというのは、直観的にコロナ対応に適したライフスタイルであるとある程度、同意して頂けることと思う。

【昔のライフスタイル】というのはまさしく万能な表現であって、ポストコロナや脱資本主義のライフスタイルの様々な特徴を一言で言い表している。【昔のライフスタイル】こそが私の考える【脱資本主義のライフスタイル】の大まかな方向性を与える指針、大きな幹となる。 

この要約の場でその中から、主要な太い枝となるもの五つ、①〜⑤まで挙げてみる事にする;

① 農業などの1次産業や大工、鍛冶職人など衣食住に関わる必需品系の産業に生産と消費のウェイトを置く。それは交換価値よりも使用価値を重視する事とも言える。しかもローカルに生産と消費をする(=地産地消)。しかし情報はインターネットなどでグローバルで良い。現物やリアルはなるべくローカルに(リアルはローカルに、ヴァーチャルはグローバルに。)

※ これは日常用語を用いれば、【買い物の際には衣食住に関わる商品やサービスにお金をかけて、仕事の際にはそのような衣食住に関わる事にウェイトを置く】という事になる。

② 生活の中でDIY率を高める。昔はDIY率が高かった。個人、地域、市町村、都道府県、国あらゆるスケールで生活に必要不可欠な事柄をなるべく自給できる体制にする。

DIYとはDo it yourselfの略。自分でする、自給、という事である。

③ 複業体制にする。

①の必要不可欠な仕事と、もう1つ、自分の好きな事、あるいは、自分の道、自分の使命といったような類の事業に取り組む。(半農半Xの拡張→半Z半X 、Z=①のような人々の生活に必要不可欠な部門、X=自分の好きな物事、自分の道、自分の使命的な仕事など) また規模は小さくする。自営業や少人数で仕事をする。大きくしない。

④ 地域に分散した小規模な経済圏が成立する事を目指す。また信頼できる仲間内で③において各自が生産した商品やサービスをお互いに交換し合う。物々交換でもいいし、貨幣を介してでも良い。買い物共同体(=経済共同体)みたいな感じです。共同体の仲間の生業も自分の生業と同様に運命共同体と思って守る。仲間の生業を脅かすようならば、外部には売らない、外部からは買わない。(=エシカルな消費と生産)

⑤ なるべく手業や人力で作業する。しかし適宜、外部動力(電力)も用いる。電力は、水力発電再生可能エネルギー発電、小規模地域分散型発電(例えば、小水力発電)。化石資源はできれば使用しない。しかし、食糧生産など最低限不可欠な分野などで化石資源に使用が必要な場合は優先順位をつけて使用する。経済競争の為の使用は身を滅ぼすであろう。

①~⑤の補足や説明は、本記事の本編にて後述する。 ①~⑤でもって、私の考える脱資本主義のライフスタイルの中核をなす柱はだいたい述べた事になる。

 

 次の問題として、実際に脱資本主義のライフスタイルが世の中に広まるのか、という問題がある。それについては見込みとしては厳しいかも知れないが、以下のようなシナリオに期待したい;

先ず、第一段階として、少数の精鋭、意識高い系、勇気のある人、志のある人々が脱資本主義のライフスタイルあるいは、そういった方向性のライフスタイルを採用する。先陣を切る、切り込みの精鋭部隊さながらに。確かに経済性の低いライフスタイル故に生活において生きづらい面、困難な面も多々ありそう。しかし、資本主義経済と、それがもたらす社会システムが機能不全に陥りつつある今日、むしろ、脱資本主義のライフスタイルを採用した人々の方が優位に立てる点、生き易い面も多いと思われる。そして、総合的には良い生活、充実した生活を送れる可能性がある。学校や職場におけるいじめ問題やコロナの感染問題、生きがい、労働環境、うつ病、過労、睡眠、長時間労働、労働の対価、時間の余裕などといった点においては現行の資本主義社会に合わせるよりは、脱資本主義のライフスタイルを採用した方が適切なのではないか。  

 第二段階では、現行の資本主義社会に合わせて生きる、いわゆる普通の生活を送る人々が第一段階で脱資本主義のライフスタイルに移行した人々の生活を見て、そちらの方が良いのではないか、と考えるようになり、脱資本主義のライフスタイルに移行する人々が増え始める。真似し始める、ということである。現行の資本主義社会における庶民の苦境は、自殺率、少子化、過労、未婚率、いじめ問題などに現れている。  

 確かに脱資本主義のライフスタイルで生きる人々が少数派のうちは、多くの人々が現行の行き過ぎた資本主義社会に異を唱え、脱資本主義のライフスタイル、あるいは別のライフスタイルに移行するとは思えない。

 しかし、人間というものは隣人や知人の幸不幸に敏感で、周囲と自分を比べ、そして、現在の苦境を軽減し、幸せそうに見える人々を判別し真似をする傾向はある。それ故、脱資本主義のライフスタイルが今の行き過ぎた資本主義に合わせるライフスタイルよりも格段に充実した生を送れるように傍目から見て感じられるならば、日和見的に脱資本主義的ライフスタイルに移行する可能性はある。

 また多くの場合、人は周りの多数の真似をする傾向が強い。

 これらの特徴から、脱資本主義のライフスタイルを採用する人数はねずみ算のように拡大する可能性がある。それはちょうどコロナの感染が拡大する様と通ずる部分があるかも知れない。拡大初期は至って少数派である。

 最近、Iターンなどで田舎に移住して無農薬農業に取り組んだり、電力や化石資源をなるべく使わない薪ストーブ生活を送る人々が増えてきているイメージがある。現行の行き過ぎた資本主義に違和感を感じてライフスタイルの転換を図ったのかも知れない。私には脱資本主義のライフスタイルの先陣を切る人々のように見える。現在は少数派なので、小さな火種である。しかし近年、この火種が段々と大きな炎となってきているイメージがある。この希望の炎がもっと多様に変容、進展しながら大きく拡がってゆく事を私は願う。

 以上が私の脱資本主義のライフスタイル拡大のシナリオである。

 江戸時代末期の日本人は今後のライフスタイル、社会システムのお手本を西洋資本主義に求めた。しかし逆に、江戸時代の日本のライフスタイル、社会システムは行き過ぎた資本主義システムの弊害が露わになる現代の世界のお手本、指針になるのではないか。その考えこそが昔のライフスタイルを参考にして、取り入れる、という事なのである。

  現在は現代的ライフスタイルに偏り過ぎて、バランスが崩れ、コロナ対応のみならず、人間の生活全体についても不味いライフスタイルになっていると思う。

 人間の成人病、心の病、温暖化(異常気象)、環境汚染、労働、賃金、少子化といった現代の主だった問題はまさしく現代特有の問題である。戦後間もない日本や戦前、昔にはこれらの問題は現在ほど幅を効かせてなかった。そこで、安直ながら処方箋として昔のライフスタイルを取り入れるならば、これらの問題も解消、軽減されるのではないか。

以上、要約の要約を述べた。

 

なお、この段階で【昔のライフスタイル】という大きな幹と上記①〜⑤という主要な枝を提示した。さらに末端の枝や葉に相当する、実践の為の日常のいろいろな具体的行動や身近な行動を知りたい方は別記事の【真留句リスト 真留句はこう言った 解説版3】や【真留句のことば 真留句はこう言った 文章版5i】をご参照のこと。葉に当たるものが書いてある。ここよりは具体的な行動、実践的な行動が書いてある。葉こそは光合成を行い、生きる為に必要な部分なので、やはり大切と思う。

 温暖化や生きづらい生活など、行き過ぎた資本主義の問題を改善してゆく具体的な行動、実践的な方法はたくさんあると思います。いろんな本を読んだり、他人との会話やブログからも得られたり、生活の中で自分で編み出したり。また別の方法として、昔の人々のライフスタイルや先住アメリカ人のライフスタイルなどに思いを馳せたり、あるいは参考にする事でヒントが出てきて、芋づる式に具体的な行動が発見できるかも知れません。

 

 

要約の本編 目次

1、始めに、の続き 

脱資本主義のライフスタイルの中核をなす主要な枝①~⑤の補足と説明

2、この要約の主張の根拠  

 2-1、コロナの社会的な特徴

 2-2、2つの相対するカテゴリー、

【反資本主義的なる事柄】 と 【資本主義的な事柄】

3、経済社会宗教の概念

4、まとめ

5、要約のおわりに 

 

1、始めに、の続き

ここでは脱資本主義のライフスタイルの中核をなす太い枝にあたる①~⑤の項目のやや詳しい説明と補足を行う

① 1次産業など衣食住に関わる仕事の重視+ローカルな生産と消費  

 1次産業は農林水産業などで、人が生きる上で必要不可欠な衣食住に関わる商品、サービスを生産する。  

 昔は現代よりも1次産業の生産、消費の割合が多かった。

 そこで次のようなことをすると、昔のライフスタイルへの歩み寄りとなる;

生産時 → 複業で1次産業をする。オーソドックスなのは農業。家庭菜園と書いた方が良いかも知れない。これは商売にならなくてもいい、自給用とかでも。 コロナ下でも労働可能、生産活動可能である事も大きい。誰しも実行できるわけでは無いが、可能ならば自分の生活に何らかの形で1次産業(特に農業)を組み込むことである。  

消費時(購入時) → 消費(=買い物)も衣食住、すなわち1次産業に関わるものを中心に購入する。労働自粛、失業、転職、短時間労働などで収入は減ることが多いと思われるが1次産業の商品、サービスは安価に済む場合が多い。また高価であるにしても、それに見合った生活の質の向上を購入者にもたらすであろう。

 では、消費時(購入時)において何を節約すると昔のライフスタイルへの歩み寄りになるか? 回答→住居(終身雇用をあてにした住宅ローンはしない、ということ、田舎の空き家など利用)、光熱(化石燃料を節約)、交通(税金という形でお金を吸いまくるマイカーを減らす)、通信、保健医療(昔のライフスタイルをとれば病院にあまり行かずに済むだろう)、教育(コスパが最近は低下)、教養娯楽(本当に自分が好きな物に限定する) この消費活動は低収入、低支出と相性が良い。

コロナ対応の有効性→コロナは1次産業の生産活動をあまり妨げなかった。例えば農業は自然にコロナ3密が回避される。他方、3次産業の飲食業、観光業、芸術の生産活動を困難なものにした。

 コロナが必需品を生産する1次産業の生産活動をあまり妨害しなかった事は注目すべき事柄であるように思われる。

 

● ローカル(地産地消)  

 昔になればなるほど、よりローカルに生産、消費活動が行れていた。 ローカルに生産、消費活動が行われるほどコロナは拡散しづらい。 また生産、消費活動がローカルに行われるならば、行き過ぎた資本主義が生み出す様々な弊害も改善されそうである。(労働や資源の搾取、働き甲斐、生きがいの問題など)

 

例;  野菜はなるべく自分に近いところで生産されたものを使うほど、昔のライフスタイルになる。一番近いところは自分で育てた野菜。いわゆるDIY、自給自足。買い物するなら自分の街、地域で生産された八百屋さん、直売所や朝市の野菜が最善。それが無理ならば、八百屋さん、スーパーで自分の都道府県産の野菜。それも無理なら国産の野菜。できれば輸入品は避ける。 自分で野菜を育てるのが難しい方もいるので、各人が自分にあったバランス(近⇔遠、あるいは昔⇔現代の)で野菜を入手する。

 コロナは標語的には 【ヴァーチャルはグローバルに、リアルはローカルに】 ※ 言い換えるならば、【情報はグローバルに、現物はローカルに】 ※ 英訳; 【Real may local,virtual may global.】 を人類に提案してるのではないだろうか。

 

② DIY(=自分ですること、自給自足)

 上記、ローカル(地産地消)の自分に近いところの極限は、自分の使う(消費する)商品やサービスの作成(生産)を自分ですること、即ちDIYである。

 このDIYは昔のライフスタイルのキーワードである。昔は現在に比べDIY比率が高かった。  身近な事では自炊も調理のDIYである。コロナで外食が減り、自炊する人が増えた。これは、人がコロナ対応すると自然にDIY、即ち昔のライフスタイルを取るという実例になる。  自分の生活の中で商品の作成やサービスをDIYする事柄が増えるほど昔のライフスタイルに近づくことになる。  

 逆に商品やサービスをお金の支払いで済ますほど現代的なライフスタイルに近づく。

 コロナで社会システム、経済システムが一部機能しなくなった。昔のライフスタイルをとってDIY比率が高いほど経済システムの混乱の害は受けにくい。(DIY比率が高いとは経済システム、分業システムからの独立性が高い=依存割合が低い、ということだから。ところでDIY的生活とはお金に頼らない生活、とも言える。金(ゴールド)の高騰はおカネの信用力が落ちていることを表している。金(ゴールド)を買うのも良いがDIY用の商品、サービスを購入してDIY力を高め、おカネにあまり頼らない生活を目指すのも1つの方法である。)

 また、労働自粛や勤務時間の短縮、失業、巣ごもりなどで収入(お金)は減るが、DIYする時間は増える。コロナとDIY(昔のライフスタイル)はこの点においても敵対関係ではなく親和性とも呼べるものがある。

 コロナ以前に長時間労働で得たお金で買っていた調理(=外食)などの商品、サービスを、コロナ以後に短時間労働と減った収入のもとで自炊(DIY)した時の方が人々の幸福度は高かったのではないか?と思う。

 またこのDIY、自給自足は今までは個人に対して述べている事であるが同時に地域、市町村、都道府県、国に対しても順次、拡張、移調して読み替えられたい。

 即ち、それぞれの圏内で食糧や衣食住に関わる生活の必需品をなるべく確保、生産できる体制を整えるのが望ましいと私は考える。輸入など外部依存はコロナ下では、なるべくあてにしないのが良いと思う。

 

③ 複業と、半Z半X

● 複業  複業はコロナ以前からある程度話題になってた。コロナ下では、さらに注目されるキーワードとなった。

 コロナは飲食業や観光業の生産活動を行えなくし、労働者を遊休状態にした時もあった。自治体によっては、このコロナ離職で職を失った人々に、人手不足の1次産業の仕事、農業、林業、漁業などの仕事を斡旋したりした。一次産業は屋外労働のケースが多く、三密を回避し易くコロナ対応には有利だったからである。

この事例は、例えば飲食店と農業の複業体制にしていれば、コロナ流行時に飲食業の生産活動が出来なくなっても、その時に農業の生産活動を行うことで完全な遊休状態を回避できる、という事を示唆している。即ち、複業体制にする事でコロナの影響で完全に生産活動が出来ない状態に陥らないようにリスク回避、リスク分散している、とも見做せる。

 また飲食業と農業の複業については次のような利点もある。それは、料理人が料理を追求すると、どうしても食材の質という問題と向き合う事になる。農業を複業にする事で良質の食材の調達や食材への知見が増すことで料理の道に進展をもたらす可能性もある。実際、料理を追求する姿勢の強いシェフはコロナとは無関係に自らが納得する食材の調達や知見を深める為に農業や家庭菜園に取り組み始めるというケースをしばしば耳にする。

 とはいえ、飲食業は長時間労働+立ち仕事で激務である。また農業も播種時期など作物の特性に合わせて時間に追われる作業になったり、農園の規模によっては大変な作業となる。それ故、飲食業と農業複業というのは時間的、体力的、精神的に両立の厳しい点もある。農業の規模を小さくしたり、飲食業の営業時間を短くしたりして実現を目指す事になるだろう。

 また、昔は複業のケースが多かった。宮大工を本業としつつも、自らの家族の最低限の食い扶持を自給する為の田畑を持って農業も行っていた。宮大工は寺社以外の一般家庭などの家屋の建造に携わる事は禁じられていたのもあり、社殿の改築、修築などの仕事がタイミング的に無い場合は宮大工の仕事は一切、行えない期間が生ずることもある。そんな時でも最低限度の生活を維持する為の複業のようである。  

 資本主義が進むと資本主義的競争に優位な専業が普通となった。分業が行き過ぎた状況になったのである。しかしコロナ下では、進み過ぎた分業化、専業化された労働形態が裏目に出てしまった。特に飲食業や観光業においては。

 コロナに逆らわずに生活する、と考えると複業の選択に行き着くが、これは脱資本主義のライフスタイルとしても推奨される選択となる。 

● 半Z半X    

 半農半Xはかなり理想的なライフスタイルと思う。これの一般化である半Z半Xが私の理想に思い描くライフスタイルである。ZとXでもって複業体制にする。(注;半Y半Xとは名前は似ているが別物。説明は後述。)

半Z半X・・・Zは農業、大工、織物師、鍛冶屋さんといった1次産業的、必需品を生産する仕事。これはコロナ下でも労働可能、生産活動が可能な仕事でもある。

 他方、Xは自分の好きな事、仕事、自分の道と言えるような事、使命的な仕事、やりがいを感ずる事の出来る仕事、その仕事をしてる最中は幸せであるような仕事。労働に没頭できる仕事(=労働しながらマインドフルネス!) このZやXの産する商品、サービスは自給用であっても、他人の労働との交換用(大雑把にはお金と交換できる商品、サービス)であっても、どちらでも良い。

 これは生産(労働)に関する事であった。  他方、消費(買い物)について→生きていく上で必要なのに自分で自給できない商品、サービスはなるべく他人のZやXから労働の交換によって(≒お金の支払いによって)入手する。それが不適当な時は旧来の資本主義的市場の商品、サービスを購入する。

 即ち、自分が労働中は没頭できる、幸福感を感じれる仕事をして、商品、サービスを生産する。その商品、サービスを自分で使って生活したり、または他人とお金などで交換する。

 そして自分で生きていくのに必要だが自分では生産できない商品、サービスを、他人のXやZで生産された商品の形でお金などの方法で交換するのである。

 しかし、鎖国中の江戸時代の人々の多くの人はこのような生活を送っていたのではないか、と思う。

※  注1: もちろん、無理に複業体制にする必要はない。Zのみ、あるいはXのみの専業体制が自分にマッチしてると感じ場合はそれで良い。

※ 注2: ここに出て来た【半Z半X】と【コロナ以前ー15A 人生三分の計】に出てくる【半Y半X】は言葉は似ていますが異なる意味を持ちます;

X・・・ ●好きな仕事、趣味、  ●使命的な事業、   ●魂、心が欲する行動

Z・・・ 衣食住に関わる必需品を生産する仕事、1次産業的な業。

具体的には家庭菜園、農業、林業、漁師、猟師、畜産業、衣服作成、大工、鍛冶屋さん、配管工、瓦職人など

Y・・・嫌々でも良いので生活費を得る為に会社勤めする仕事、アルバイト。この会社勤めの仕事は精神的、肉体的エネルギー、そして時間を消耗し過ぎない仕事にすること。エネルギーはXの注ぐようにする。収入は最低限の生活費を得れれば十分。あとはなるべくDIY(代表的なのは自炊。あとは家屋、配管などの簡単な修繕などを想定されたい)などで節約する。

 

【半Z半X】は真留句が1つの理想と考えるライフスタイルである。

 他方【半Y半X】や【人生三分の計】(※ コロナ以前ー15A 人生三分の計 参照)はその理想的な【半Z半X】に持って行くための過渡戦略、中途段階のライフスタイルである。しかし、この半Y半Xは不安定、変化の激しい時世においては有効なライフスタイルである。その柔軟性故に。総合格闘技柔術で言うところのガードポジションのようなスタイルである。

 

④ 小規模分散地域経済圏と買い物共同体  

 時代を遡るほど、経済圏、あるいは生活圏は小規模になる。それは即ち、時代を経るごとに経済圏が拡がってゆく事を意味する。即ちグローバル化である。

 私は昔のように経済圏がなるべく小規模な方が良いと考えている。もちろん、どうしても入手できない必要なものは、逐次、遠距離のところから入手しても良いが。しかし、なるべく近場で済ますべきである。特に現物のやり取りに関しては。

 

 ところで、資本主義を克服するものとしてマルクスが提示したのは共産主義であった。

 今後、我々が採用すべきは資本主義か、あるいは共産主義か、あるいはまた別の何かなのか?

 私がこの度、提示した【脱資本主義のライフスタイル】は【脱資本主義】という言葉になっているものの、いちおう資本主義の枠組みの中で行われる事を想定している。即ち、私有財産制の中で行われるライフスタイルである。

 しかし、それは小規模な共産主義の中で行われるとしても良い。

 買い物共同体、あるいは地域に分散した小規模な経済圏が仲間うちや経済圏の住民を運命共同体と思い、お互いの生業を守ろうとしてエシカルな消費(倫理的な消費。欲望や安値に踊らされて買い物をしない事)でお互いを支え合うならば、資本主義の枠組みの中でありながら、資本主義特有の競争などの資本主義下の経済法則が成立しなくなる。

 性善説を採用して仲間うちで自発的なエシカルな消費、買い物が行われると期待されるならば資本主義の枠組みで行われよう。

 しかし、性悪説を採用して、それが無理だと考えて外部からの規制、強制が必要だと考えるならば小規模な共産制を採用すれば良い。この場合は小規模な共同体内で消費や買い物のルールを強制するのである。

 しかし、この小規模な共同体内における生活、ライフスタイルというのは資本主義の枠組みにおけるエシカル消費をするのと、共同体内における小規模な共産制を採用するのは実質、殆ど変わらないと私は考える。共同体の仲間うちである他人の私有財産、生産手段も自らの生産手段と同様に生業の為に守るべきもの、と考えるならば、あたかも共同体内の共有財産のようにも思える訳で殆ど区別がなくなるのではないか。

 ソ連などが試みた大規模な共産制の実施は、独裁や強権政治などの悪い面が出やすかった。しかし小規模な共産制では、それらのデメリットがないというイメージが私にはある。

 即ち、小規模な共同体、あるいは小規模な経済圏という極限においてはエシカルな資本主義と共産主義は実質、一致する、というのが私の見方である。

 そして、それが正しい見方かは私自身も分からない部分もあるが、もしある程度でも正しいとすれば、それをご縁と思い、そのやり方を採用、あるいはその方向性を目指すのが妥当と思われる。先ずはその方向に歩んでみようではないか、の精神である。

 我々は買い物をする度に、その方向に歩みを進めるか、あるいは現行の行き過ぎた資本主義の地点に歩むか、している事となる。昔ながらの職人の手業の商品や地域の個人営業のお店で買い物をすれば前者であろうし、近場で購入できる商品をわざわざネット通販で購入したりすれば後者となろう。

 

⑤ 人力作業と電力に関して

 人力作業、肉体労働の割合が昔になるほど大きくなる。他方、現代になるほど人力作業、肉体労働は減って機械作業に取って代わることとなる。

 人力作業は一見、避けたい、機械と石油任せにして楽ちんしたいと考える人もいる。しかし様々なメリットがある。

・身体を動かす事はストレス軽減になる。メンタルヘルスで食事、睡眠、運動が大切とよく言われる。ジョギング、散歩、ウォーキング、スポーツ、人力農作業などはそれ自体ストレス軽減になる。汗とともに心の毒(=ストレス)も体の毒も体外に排出される。また不眠、睡眠障害の1つの原因が身体を動かさない事によるエネルギーや元気の余り過ぎにある。身体を動かしてエネルギーを消費させる事で、快眠が導かれる。

 

・手業の効能

機械で大量生産されるはずの商品を人の手で生産する事は生産者にとっても消費者にとっても有益である。

 先ず消費者にとって、手業の商品を購入する事は生活の質を大きく向上させる。食べ物にせよ、器など生活用品にせよ。工場の大量生産品に比べて高くても、実はその価格以上に生活の質の向上をもたらしてくれる場合が多いのでは。我々はもっとこのような消費というか買い物を推進すべきであろう。

 次に生産者にとって。手業の向上は生きがいをもたらす。例えば、刃物鍛治や、陶芸家、農作業者などの技術の向上は生きがいにもなるし、自己肯定感の向上にも繋がる。また手業に没頭してる間は幸福感や充足感に浸れるのも大きい。

 手業が廃れ、手業の必要な仕事が減り、手業の身につく仕事が減った。コモディティ的仕事、誰でも出来る仕事が増える現代においては、仕事にやりがいや、あるいは仕事を通じて生きがいを持つ事が難しい世の中になっている。

 それだから、消費者としては、そのような手業の生産形式を支持する意味でも、安い工場の大量生産品よりも、気持ちのこもった手業品を購入するのが良いと思う。消費者の時の買い物が、生産者としての自分に跳ね返ってくるのである。

 また、男性の生きづらさの軽減にもなる。もちろん女性は主婦家事と仕事、場合によっては子育てと、ワンオペで忙しく厳しい環境にある。

 他方、だからといって男性が楽かと言えば、そうでも無い。ひと昔前に比べ給料水準も減った。安い給料では奥様に頭が上がらない。未婚者の多さや奥様が働いて共働きせざるを得ない状況は、そのまま男性の地位の衰退を意味する。

 定年後、男性は退職したにも関わらず、奥様はパート継続+家事ともなれば、夫婦ともに居心地の悪い状況になり得る。

 女性も忙しく大変だが、男性も肩身の狭い状況になり易い今日この頃なのではないだろうか。

 この状況の一因は、男性向きの肉体労働が機械作業にとって変わられて女性向きの事務作業やサービス業などが現代において増えたからであると私は考える。

 即ち、肉体労働に適性のある男性と現代の社会システムのギャップである。これは一般的には人間の動物的部分、原始的部分と現代文明のギャップによって引き起こされるマズい面の一例となる。

 ここで脱線するが、この人間の原始的部分と現代文明のギャップこそが、現代の様々の問題の源泉になってる場合があるので幾つかの例を挙げてみる。この相い容れぬ両者が化学反応を起こす事で大きな害が生ずるケースが多々ある。

 

例1、人間の原始的部分としての闘争本能と、現代文明の核兵器。あるいは、闘争本能と、現代的な戦争の兵器。これは化学反応の結果、核戦争、人類滅亡、地球破壊が引き起こされる。

 

例2、前述の人の動物的特性としての男性の肉体労働適性及び外仕事する場合が多いことと、現代における肉体労働の減少。

 

例3、男女問わず、動物的特性として、身体をたくさん動かすのが普通だった人間と、現代における機械作業で肉体労働が奪われた事。これは、化学反応の結果として運動不足とそれによる病気、睡眠不足、ストレスが発散されない、などを引き起こす。

 

例4、人間の動物的特性として日中行動して、夜間は寝るという事と、現代における電力利用や夜間労働。これは、化学反応の結果、労働者の体調不良や睡眠障害が引き起こされる。

 

脱線おわり。

脱線したが、話を元に戻す事とする。

 手業や肉体労働を復権させる事で再び、男性にとって生きづらさが軽減されると私は考える。男性が動物的適性をもつ肉体労働が復権する事で男性の生きづらさが軽減されるかも、なのである。

・前述した事ではあるが手業の推奨は機械作業の完全な排除を意味する訳ではない。私は必需品の生産量に問題が生じる場合は適宜、機械と電力などの外部動力は用いても良いと考えている。ポル・ポトと同じではないので誤解されませぬよう。

 しかし、とにかく手業、肉体労働を多くすれば上述のメリットのほかに勿論、化石燃料や電力の節約が挙げられる。主要なデメリットは生産量が減る事である。しかし、その場合は前述したように機械や外部動力で補えば良いと私は思う。

 

電力に関する言及→未記入。いずれ、改訂時に書くかも。

 

なお、その他いろいろな具体的行動は【真留句はこう言った 文章版3i 真留句リスト】ご参照のこと。

 以上のようにコロナ対応で昔のライフスタイルを取り入れることは、そのまま人の生活の質の改善、幸福度の上昇にもなるし、環境問題対策、異常気象抑止にもなる。

 コロナはコロナ対応を人類に迫ることで、持続可能なライフスタイルを強制、エンハンス(助長)してるという見方もできる。

 

2、この要約の主張の根拠  

 今まで、【昔のライフスタイル】が【ポストコロナのライフスタイル】や【反過剰資本主義のライフスタイル】の指針となる事を主張してきた。この2章では、その理由を説明する事にする。

2-1、コロナの社会的な特徴

先ずはコロナの社会的な特徴を挙げてみよう;

● 資本主義的に優位な、都市、3次産業(観光、飲食、サービス業)はコロナ下での活動、生産活動は困難である。

● 他方、資本主義的に不利な、田舎、1次産業(農林水産業、大工)はコロナ下でも活動や生産活動が容易である。

● また、同じ飲食店でも都市部、チェーン店、従業員が多い、大きい店舗、設備投資が優れてる(=借金の賜物であることがある)、人口が多い立地(=家賃が往々にして高いものである)、経営手腕やマネジメントに優れ、といった経済競争に優位な、即ち資本主義的競争に優位な属性の多いお店の方がコロナに耐えるのが困難である。

● 他方、郊外、パパママ経営(家族経営)、小規模店、不利な立地(=家賃が安いことが多い)、自宅兼店舗、不器用、経営分析やマネジメントは行ってなさそうでフィーリングと勢いで営業をしてそう、といった経済競争において不利な経営形態、即ち資本主義的に低位なお店の方がコロナの影響に耐えるのが容易である。

 大雑把に言えば、商売上手な飲食店ほどコロナに耐えるのは困難であり、 他方、商売下手、金儲けが下手な飲食店の方が、コロナに耐えやすい。

  以上より、

【コロナは社会的には反資本主義的属性(あるいは反資本主義的影響力)を持つ】

と考えても良いように思われる。実際にコロナは経済活動を妨げているのだから、そう言っても良いだろう。 だとすれば、

【反資本主義的ライフスタイルは、コロナ対応のライフスタイルにもなる。】

と考えてみるのも良さそうである。大雑把には

【金儲けにならないライフスタイルは、そのままコロナ対応の有効なライフスタイルになるかも知れない。】

とも言える。

 【反資本主義的ライフスタイル】の典型的なものであり、かつ様々な特性を兼ね備えているのがこの要約でのテーマ【昔のライフスタイル】である。【昔のライフスタイル】が直観的に資本主義的に低位なライフスタイル、即ち反資本主義的ライフスタイルであることは明らかである。(【真留句はこう言った 文章版2i 詳しい説明】で妥当性のしっかりした説明をする。また、反資本主義的ライフスタイルが必ずしも脱資本主義のライフスタイルと言えるかどうかは定かではない。しかし、脱資本主義のライフスタイルというのは反資本主義的性質を備えていると考えるのは妥当そうである。また今回の議論において数学的、論理的な厳密さは求めない事にして、読者には大きな心で【脱資本主義のライフスタイル≒反資本主義的ライフスタイル】を受け入れて頂きたい。)

 【昔のライフスタイル】はコロナ対応のライフスタイルの典型例と言える。

  ところで、コロナが反資本主義的であるということから、真留句がコロナ以前から説いていたライフスタイル、生き方は、そのままコロナ対応、ポスト・コロナにおけるライフスタイルになり得るのである。というのは、真留句はコロナ以前から、行き過ぎた資本主義のバランスと均衡を取り戻すべく、資本主義を抑制するようなライフスタイル、即ち、反資本主義的なライフスタイルを説いて来たからである。

 

2-2、二つの相対するカテゴリー、

【反資本主義的なる事柄】 と 【資本主義的な事柄】  

 先の2-1、コロナの社会的特徴における考察から【コロナは反資本主義的属性】を持つことがわかった。 そこで、【反資本主義的な事柄】と【資本主義的な事柄】という2つの相対する概念を考えることにする。そして、幾つかの分野の事柄をどちらのカテゴリーに属するか列挙して書き下すことにする。 なお同じローマ字の事柄は対応し合う事柄で正反対の事柄である。

【反資本主義的な事柄】  

※ 反資本主義的≒自然的 とも言える。

a 昔(のライフスタイル)

b ローカル (=地産地消)  

 b-1  DIY

c 複業

d 1次産業  

 d-1 農林水産業

e 田舎

f 環境保全、持続可能性

g コロナ

h 効率が悪い

i 生産性 小

j 使用価値  

k 人間 

l 美 

 

【資本主義的な事柄】  

a 現代(のライフスタイル)

b グローバル

c  分業(=専業)  

d 3次産業

e  都市  

f 環境汚染、温暖化、異常気象  

g コロナワクチン?  

h 効率的    

i 生産性 大  

j交換価値  

k 人間の作り出した環境  

l 醜

 

なおこの区分けの妥当性、理由は【真留句はこう言った 文章版2i 詳しい説明 】でそれぞれの事柄を詳しく考察する際に述べることにする。

ところで以下のような性質がある。 同じ【反資本主義的な事柄】に属する事柄同士は親和性が高い。 同様に同じ【資本主義的事柄】に属す事柄同士は親和性が高い。 他方、【反資本主義的事柄】と【資本主義的事柄】、それぞれ別のカテゴリーに属する事柄は往々にして対立、敵対することが多い。

例1;同じ【反資本主義的な事柄】に属するa 昔のライフスタイル、b ローカル、d 1次産業、g コロナ、f 環境保全は親和性が高く連動している;

昔にさかのぼるほど、生産活動、消費活動においてローカルの度合いが強まり、かつ1次産業の占める割合が高くなる。そして社会的コロナ対応も容易になり環境負荷も軽くなる。

例2; 【反資本主義的な事柄】に属するgコロナと【資本主義的な事柄】に属するb グローバル、c  分業(=専業)、 d 3次産業、 e  都市は対立、敵対関係にある;

コロナはグローバル化を抑制し、3次産業(特に飲食業、観光業、金銭で生計を得る芸術)の生産活動を困難にし、それを専業とする人々の生計に打撃を与えた。また、コロナは都市での対応は田舎に比べ不利である。

例3; 【反資本主義的な事柄】に属するf 環境保全は【資本主義的な事柄】と対立するので経済活動の進展と共に一般には悪化する。

例4、【反資本主義的な事柄】に属するk人間は【資本主義的な事柄】と対立する。

資本主義が過剰に進むと人間は悪い影響を被る。 人間に限らず、生物の肉体や精神は環境にゆっくりと適応するものである。人間の心と身体は基本的に数万~数千年前の狩猟や農業で身体を動かして来たライフスタイルと相性が良い。まだまだ人間の身体と心は【反資本主義的、あるいは自然的】なのだ。

 人間がここ2,3百年に自ら作り出した環境、身体をあまり動かさないライフスタイルと人間の心と身体は相性が悪い。ここ2,3百年、資本主義によって生み出されたライフスタイルに人間の心と身体は適応出来ないのである。

 人間は過剰な食料、睡眠不足、身体を動かさない、社会的過ぎる(四六時中、相性の合わないかも知れない同僚と集団労働にあたる)のには向いてないのである。

 これらは少子化うつ病、成人病、過労、自殺、アレルギーなどを引き起こしている。

例5、l 美醜について  一般に資本主義が進展するほど醜いものが増え、美しいものは減少する;

 建築物;西洋、東洋、日本問わず、寺院、教会といった古来の建築物は、ビルに代表される現代的建築物に比して美しいように私は感ずる。

 都市;資本主義の進んでない都市の方が資本主義の進んでる都市より美しい気がする。 (例;モスクワとニューヨークや東京、テレビ映像で観た感想です。)

作業機械;昔の鉈、のこ切り、鎌で作業する音は、ガソリンエンジンで動く、草刈り機、チェーンソー、コンバイン、トラクターのエンジン音より美しい。 もしかしたら人間もそうかも知れない。

 

3、 【経済社会宗教】の概念について

 現在、人類、地球が抱える大きな問題である、温暖化、異常気象、南北格差、核、少子化(日本)、人の幸福の減少といったものの解消、解決は【行き過ぎた資本主義】の延長上にある科学技術の進化、経済成長、あるいは現行の社会システムの延長上によって行われるとは考え難い。

 それらの問題や【過剰資本主義】に歯止めをかける1つの有力な方法として【脱資本主義のライフスタイル】を述べて来た。(有力な1つの方法としたが私はこれ以外、思い浮かばない ※ ただ、コロナ以前に過剰資本主義を止める術などないと私は考えていたが大自然はコロナという形の想像を越えた事象、毒は毒を以て制す的な方法で経済活動を鈍化させた。それゆえ、同様に私などには想像すらできない何らかの新社会システムは存在するのかも知れない)

 この【脱資本主義のライフスタイル】を人々が採用する事で【過剰資本主義】を抑制するのは【経済活動における人間1人1人の心、考え方の変化、そして、それら心の変化に端を発する生産、消費活動といった行動の変化】に託すという点でボトムアップ的な方法である。

 このボトムアップ式は、資本主義に変わる新たな新社会システムが発明されて各国で採用されたり、コロナの影響の如く上からの強制力を持つような、トップダウン的なもので【過剰資本主義】を抑制するものではない。

 前者のボトムアップ型の社会変革は草の根活動的なもの、という点では宗教の如き性格を帯びている。

 かつて、貨幣経済が今日ほどまでに発展していなかった、無秩序と混乱が横行する時代に人類の苦しみに対処し、生活に指針を与える宗教が起こった。仏教、キリスト教イスラムゾロアスター教などである。

 宗教は心に大きな影響を及ぼし、日常の生活様式に様々な指針を与える。

 貨幣経済が発達した現代は、日常生活は古の昔よりも秩序的なものになっている。しかし経済社会の方は古の昔の日常生活のように混乱、無秩序、経済的暴力が横行しているように思われる。

 このような時世だからこそ、かつて古の昔の日常生活に宗教が指針を与えた如くに、経済社会、経済活動に指針を与えるような【宗教の現代アップグレード版】あるいは【経済活動、経済社会における宗教】のようなものが経済社会に秩序をもたらし、経済的暴力の横行を取り除くために有用なのかも知れない。

 そのような経済における宗教を仮に便宜上【経済社会宗教】と呼ぶことにする。

【経済社会宗教】と言う名を用いたが、役割は経済社会の中での生活、即ち消費(=買い物)、生産(=労働)などといったものの仕方に指針を与うるのみである。

 宗教における神の存在などの役割はもちろん担わない。

 別の言い方をするならば、釈迦やキリストが現代をもし目の当たりにするならば、買い物(≒消費活動)、労働(≒生産活動)といった経済活動に関しても何らかの言及をされたはずであると私は考える。その言葉に近いものを推測し、目指し再現した指針が【経済社会宗教】とも言える。

  上記要約や、真留句はこう言った 本編や文章版では、消費(=買い物)や生産(=労働)といった経済活動における、お薦め行動が語られている。

 その意味では【真留句はこう言った】はある1つの【経済社会宗教】の経典とも言えて、真留句はその伝道者の1人とも言える。

 他のブログ、セミリアイヤ系のブログなど見させて頂くと、【経済社会宗教】の優れた教えを披露されてる方を見かける。その方々もご本人にその自覚があるのかは定かではないが、【経済社会宗教の伝道者】の1人と言えるかも知れない。

 現在、セミリタイヤのライフスタイルの方が少なくとも旧来の過剰資本主義的ライフスタイルよりも幸福度が高く、適したライフスタイルのように私には思われる。(私はセミリタイヤ系の方の多くが収入源に挙げる不労所得には懐疑的、反対ではあるが。先ず「自分がやられて嫌なことは、他人にもすべきではない」はゴールデンルールと言えそうなので採用する、仮定することにする。誰かが不労所得を得るという事は、他の誰かが労働の正当な対価を得ることができないことを意味する。労働の正当な対価が得られないこと、低賃金が最近の問題の世の中で、不労所得を追い求めるのはミイラ取りがミイラになる、という部分と先ほどのゴールデンルールに抵触することだと私は思う。)

 このように、現在、旧来の資本主義のほころびが大きくなって、新たなライフスタイルへの転換が世界で始まっているような気がする。    かつて様々な宗教が人々の生活に規範、秩序をもたらしたように、今日の混乱、無秩序、経済的暴力が横行する経済社会に様々な正しい【経済社会宗教】が人々を苦しみから解放し幸福と良い意味での混沌をもたらす事をここに祈る。 

(※ 良い意味での混沌 = 発展途上国、第3世界や昔の日本の市場(いちば)や屋台形式のお店などがある場のイメージ。カオスながらも活気に満ちた場。)

 

 4、まとめ  

ここでは以上まで書いた事柄をまとめたり、補足事項を書いてみる事にする。  まずは繰り返し、まとめとなる以下の主張をする;    【1】・・・次のライフスタイルは、だいたい同じライフスタイルになる、一致、重複する部分が多い、大雑把には異名同ライフスタイルとなる; ポストコロナのライフスタイル、反資本主義のライフスタイル、温暖化抑制、持続可能な(SDGsな)ライフスタイル、現代の人間の精神的苦痛、生きづらさを軽減し幸福度が高いライフスタイル

 以上の異名同ライフスタイルをまとめて【脱資本主義のライフスタイル】と呼ぶ事にする。

 ここでポストコロナのライフスタイルとはコロナ対応に適したライフスタイルの事であり、反過剰資本主義主義のライフスタイルとは、資本主義を抑制するようなライフスタイルである。

 驚くべき事に緊急の課題であるコロナ対応に適したライフスタイル、そして将来、コロナ問題以上に大きな問題をもたらすであろう温暖化、異常気象、それを抑制するようなライフスタイルが大雑把には一致しており、なおかつ、現代的生きづらさを軽減し幸福度を高めるライフスタイルでもあるのである。

次に【脱資本主義のライフスタイル】の具体的な形を与える次の主張をする;

【2】・・・【脱資本主義のライフスタイル】の大きな方向性は【昔のライフスタイル】で与えられ、その中でも特に大きな柱となるのは、

● 消費と生産は、ローカルに行われる。即ち、地産地消である。

● 消費と生産は衣食住に重点を置く。

 即ち、1次産業(典型的なのは農業)を複業に組み込むこと。そして他方、消費時は1次産業の商品にお金をかけること、ウェイトを置く。

 ※ 上記の2つを因数分解的にまとめた表現にすれば、 【一次産業にウェイトを置いて、ローカルに生産、消費を行う。】 となる。

● DIYを推進する。 である。  

【脱資本主義のライフスタイル】とは【昔のライフスタイルそのものや、その構造なり骨格を基本に使って、さらに現代技術のうちの有用で弊害の少ないもの取り入れたをライフスタイル】というものになると思われる。昔のライフスタイルを適切な取捨選択で現代版にアップグレードするのである。

 しかしながら、いきなりそのような【脱資本主義のライフスタイル】の状態に持って行くのは難しいので過渡的に当面は逆に弊害の多い現代のライフスタイルを核にしつつ昔のライフスタイルを取り入れる、といったものになるだろう。

 (※ 過渡戦略については 真留句はこう言った コロナ以前ー15A 人生三分の計もご参照のこと。)

 ここで時間的な各段階における混合比率、割合、取捨選択は各個人の置かれた状況、環境に応じて人それぞれである。

 昔のライフスタイルと現代のライフスタイルの狭間で度合いを加減して、ちょうど良い新ライフスタイルのバランスを見つけることは、あたかも料理でちょうど良い塩加減を見つけるのと似てるかも知れない。

 そして順次、だんだん昔のライフスタイルの部分を増やし、現代的ライフスタイルを減少させるのである。

 単に昔の生活に戻るのではなく現代にある科学技術や文化のうち、有用なものは残し、無駄なもの、弊害の多いものはそぎ落として、捨てて、昔のライフスタイルを取り入れるのが良いと思われる。

 ここでコロナの託宣とも言える2つのメッセージを書いて置くことにする、どちらも既に述べた事である。

【ヴァーチャルはグローバルに、リアルはローカルに】

【衣食住(特に食べ物)に生産、消費のウェイトを置く】

これはまた似た別の表現をすれば

【情報はグローバルに、現物はローカルに】 【交換価値から使用価値へのウェイトの転換】(経済学用語を用いるならば) となる。

 

 この記事も終わりに近づいてきた。ブログとしては長文をここまで読んで下さった事に感謝したい。

 ここまで、お読みになって、概ね、内容に同意されるならば、全てが実践可能ではないだろうから、実践可能なものを選択して、部分的にでも実践される事を願う。それは私の提示する方向性に少しずつでも歩みを進める事を意味する。それは、経済的には貧しい道かも知れないが、現行の行き過ぎた資本主義とそれに基づく社会システムが綻びを見せ始めている現代において、採用者に有利な道、助けとなる知見を提供しているものと私は信じている。おこがましくはあるが。

 またこの記事やブログの内容における問題点や欠点、抜けてる点のご指摘をコメント下されば幸いに思う。また、その際には、それらの問題点などの解決策までも考えてご指摘下されば、なお有難い。

 またブログの内容に概ね賛同できない、という場合でも、せめて、部分的にでも役立つ部分があれば幸いである。賛同しかねるのに大分の部分をお読み下さった事は有難いことである。

 いずれにせよ、何らかの形でこの記事やブログが読者の知見の補助になったり、役に立つならば幸いである。

 

5、要約のおわりに  

例え2020年末現在におけるコロナの災厄を科学の力で抑えたとしても、今後、また高い確率で第2のコロナが世界に対峙すると私は考えている。

 ここで第2のコロナというのは、またウィルスかも知れないし、超異常気象など別の災厄かも知れない。人類、社会のライフスタイルに大きな影響を与えるような、広義の意味での大事象(大きな事象、イベント)という意味で【第2のコロナ】という言葉を用いている。

 現在の資本主義のレールの上で、その場限りの対処を科学の力で行う事はイタチごっこで限りが無く、その度に人類は大きく疲弊するだろう。

 だから、私は根本的に人類がライフスタイルを転換しない限り、ずっと何度もいろんな災厄に姿を変えたコロナに対峙し続ける事となると思う。

 そのコロナの輪廻から脱する方法は決して未知の方法ではなく、この要約で述べ続けて来た【ポストコロナのライフスタイル】≒【脱資本主義のライフスタイル】≒【昔のライフスタイル(の現代アップグレード番)】であると私は考える。  これらのライフスタイル、あるいは他の適切な方法があるならば、それを、世界が、国が、コミュニティが、家族が、個人が、同志が、採択する事を祈る。

 

初投稿日 2020年秋

最終改訂日 2023年1月22日

真留句以外 私はこう思った アーカイブス(蔵書庫)

ここでは、今までに書いた、【私はこう思った】の過去記事を残しています。各記事は3、2、1などのアラビア数字でラベリングされています。上から順に新しい記事を並べてます。古い記事ほど後の方に書いてあります。だから、後に書いた大きいアラビア数字ほど上の方に書いてある訳です。【私はこう思った】シリーズは【真留句断片】の姉妹版みたいな感じであまり明確な差異はないかも知れませんが、こちらもよろしくです。

 

私はこう思った 目次

3、温暖化と農産物と人々の生活

2、六波以降のコロナの考察

1、最近のインフレについて

 

以下、本編

 

☆ 3 、温暖化と農産物と人々の生活

2022年11月14日投稿

今回のテーマは今後の農産物の価格についてです。当ブログはどうも閑古鳥系ブログのようです。

 読者の方は題名の【温暖化、農産物、人々の生活】のキーワードのみで、今回の記事の内容のだいたいの察しがつかれると言いますか、ピンとこられるのではないか、と思ったりもします。以下、細部はどうあれ、大まかには読者の皆様方の予想通りの内容、即ち、人類の未来に対する悲観的予測が展開されるかと思います。しかし最後には可能性の度合いはどうあれ、希望のあるシナリオも書きましたので、お付き合い下されば幸いです。

 

概略→今後、温暖化が進めば、農産物の栽培環境が悪化し、農産物の生産量、供給量が落ちると私は憶測してます。そして農産物価格が非常に高騰するのではないかと思っております。そして農産物が必需品である事を鑑みるに、人が生きて行くのに厳しい世の中なると憶測してます。しかし希望もあろうかと思います。

 

目次

Ⅰ、将来の農産物  温暖化下の農業

Ⅱ、農産物価格の高騰

Ⅲ、その他の影響と希望

 

以下、本編。憶測がたくさん、ありますから眉唾でお読み下さい。

Ⅰ、将来の農産物  温暖化下の農業

 

 温暖化が進むと農産物の生産量が激減すると私は憶測してます。

その理由は私が思いつくもので2つあります。

 1つは農産物の栽培可能地域の減少。2つ目は石油の使用制限、使用禁止です。

 1つめの農産物の栽培可能地域の減少→そもそも温暖化が進んで異常気象などで農産物の栽培可能な地域が減って行きそうです。現在、既に温暖な赤道近くなどの南方の地域は、温暖化進むと暑くなり過ぎて、作物なり生き物が生きて行くのに適さなくなるのでは。

 現在、冷涼な北方の地域が辛うじて、温暖化進んでも農産物栽培可能な地域になるのかも。中国人が北海道の土地を購入してるのは温暖化を見越した行動の可能性もあるのではないでしょうか。寒いロシアとか、農産物生産地域として今後、有望かも知れません。

 あと、異常気象による強風や大雨なども農産物栽培を困難にしそうです。

 科学技術によるこの問題点に関する対策は遺伝子操作などによる異常気象下でも生育する農産物の開発が考えれます。しかし食べ物として身体に良くなさそうな気がします。生命力、健全性、パワーがなさそう。

 

 農産物生産量の減少、2つ目の理由は化石資源、石油の使用不可によるものです。

 温暖化が進んで異常気象などの脅威が酷くなって人々の生活に及ぼす悪影響、害が大きくなってくると流石に重い腰を上げて、化石資源、石油の使用禁止、使用制限に世の中が動くことになると私は思います。

 ところが、近代の農産物の生産量、供給量の大きな増加は石油によるところが大きいのです。石油を動力源とするトラクターやコンバインに代表される作業機械が使えなくなると、かなり生産量は落ちると思います。石油禁止された場合、これが1番大きな減産の理由になると思います。あとあまり詳しくはないのですが化学肥料の生産にも化石資源は関係してると思います。化学肥料が使えなくなると、やはり、かなり減産すると思います。

 以上の問題点に対して温暖化抑止と農産物生産量維持の両立を可能とする対策としては必要不可欠な農業生産に関しては石油の使用を許す、とかあるかも知れません。優先順位を考えて無駄な石油使用を禁止して経済競争や資本主義的経済の維持ではなく、あくまで人々の生活の為の農業など最低限度の石油使用は許容するとか、すれば温暖化問題も何とかなるのかも知れません。

 あと別の対策として太陽光発電、再エネ発電、水力発電、地域分散型小規模発電(例えば小水力発電)で発電した電力エネルギーを高性能バッテリーに充電して、それを作業機械の動力源に充てる、という事が思い浮かびます。科学技術で上記各種の発電機構、および高性能バッテリーの開発を人類は目指してるようです。

 以上、温暖化による農産物生産量激減の2つの理由を書きました。栽培可能な農地の減少と石油の使用制限でした。

 問題点の科学技術による解決案も幾つか書きましたが、私は科学技術による解決には懐疑的です(=科学技術による解決はたぶん無理、というのが私の見解)。温暖化は科学技術の進展+人の欲望、人間社会の産み出したものです。論理的な根拠はないのですが、基本、Aの産み出した災いはAでは解決できないと思います。親は自らの子には勝てないのです。ギリシア神話でも時の神クロノスは自らの子であるゼウスに打ち勝つことは出来ませんでした。これは象徴的な神話と言える気がします。神話ながら。

 

II、農産物価格の高騰

 

先のⅠでは温暖化が進むと農産物の生産量が激減しそうだという私の憶測を書きました。当たり前の事ですが農産物生産量の減少は農産物価格の高騰をもたらします。生産量の減少が価格上昇を招く事は農産物以外の商品も同じです。しかし、農産物特有の事情がさらに過激に価格を高騰させると私は憶測してます。以下、それについて書こうと思います。

 農産物特有の事情というのは、幾つかあるのですが、今回のこの記事でピックアップしたい特徴は農産物の需要の価格弾力性の低さです。即ち、農産物は生産量が増えても減っても、あるいは価格が高くなったり低くなったりしても需要はあまり変わらない、という事情です。以下、少し周り道、脱線もして今回の記事には関係のない農産物の特有の事情にも言及しながら説明していきます。

 別記事の真留句断片で農産物という商品の特殊性を書きました。そこでは農産物が現在のところ不当に安価で儲けを出しにくい農産物特有の特殊な理由を2つ書きました。1つは政府の大きな役割が安全と食の保障(=安価な食糧供給)である、という政治的な理由。2つ目は必需品である農産物が安価になると労働者の賃金を安くできて、企業に残るお金が大きくできて資本主義が推進され易くなる、という資本主義サイドの要請でした。これは資本主義的理由と言えるかと思います。別記事の真留句断片では、この2つの理由を書いた訳です。

 ところが、私が学生時代に購入しながら読みたいと思いつつも読めていない経済学の本を最近になって、拾い読みしたところ、3つ目の理由が書いてありました。どうも、世間一般の見解ではこの3つ目の理由が農産物が安価なのの主な理由としての見解のようです。その3つ目の理由とは農産物に対する需要は供給量や農産物価格にあまり左右されない、というものです。即ち、農産物の需要は価格弾力性が低い、という事になります。

 確かに人が食べる量には限りがあるので価格が十分の一になったからといって10倍の量を食べるとはならない。逆に価格が10倍になったからといって食べる量を十分の一に減らす、とかは、なさそうです。確かに価格の高い安いで、食べる量を多少、減らす、増やすとかするかも知れませんが、食べる量を大きく増やす、減らすは出来ないと思います。

 この事から石油使用で生産量が激増した近代において農産物価格が激減する事が分かります。対照的にパソコンやテレビのような必需品でない【普通の】商品を考えてみます。パソコンやテレビのような商品は生産量が少なく価格が高いうちは需要も少ないです。しかし、技術革新などで生産量が増えて価格が減少するとそれに応じて需要も増えます。(パソコンは安くなってから、だいぶ普及したと思います=需要が増えた、よく売れた)

 対して農産物は生産量、供給量が増えて価格が下がっても、それに応じて、需要が激増する事はありません。供給量が増えて価格が下がれば確かに多少は需要も増えます。しかし、無理に食べ過ぎるほどには需要は増えません。限界があるのです。そして作業機械や化学肥料などの発展で供給量はどんどん増えるのに需要は大きくは増えない。これがさらに農産物の価格の減少をもたらします。

 この需要の価格弾力性の低さが、必需品である農産物が作業機械の活躍などで膨大な生産量を誇る現代において農産物が他の商品に増して安価になる事の理由のようです。私が読みたいと思いつつも読めてない経済学の教科書によれば。(その経済学の本は、サミュエルソン 経済学 です。現在はもはやモダンな教科書とは言えないようです。時代遅れ??かも)

  周り道が長くなりました。

 しかし逆に考えると農産物は生産量、供給量が激減しても需要は、やはり、あまり変わらない訳です。人間、ある程度、食べないと生きて行けないので。そうすると、生産量が激減した時に、価格が激増するという事になります。

 テレビやダイヤとか必需品でない物は価格が高騰すれば、需要も減って、ある程度、価格の高騰が抑えられます。

 しかし農産物に関しては生産量が減って価格が高騰したからといって需要が激減する事はなく、価格高騰に歯止めがかからない、という事になろうかと思います。普通に考えれば。

 しかし農産物は必需品という性格上、生産量が減り、人々の生活、食生活に支障が出始めると政府が何らかの対策をすると思います。前述した通り、政府の大事な役割は国民の安全と食の保障なのです。食糧不足は社会混乱、一揆、暴動、米騒動などをもたらします。

 農産物生産量が激減した際の政府の役割、対策、そして農産物が必需品であるという特殊事情に関しては私の考えと憶測の及ばぬところあり、その影響をここで書く事は出来ません。(=その辺りの事は私には判りません、という事です。)

 しかし、とにかく普通に考えると、温暖化下で農産物の生産量が激減すると、農産物価格はかなり高騰しそうな気がします。

 

Ⅲ、その他の影響と希望

私の憶測が正しければ、温暖化が進むと農産物の生産量が激減して価格が高騰しそうです。

 そして、それは戦争を引き起こす事にもなるかと思います。温暖化による農産物の生産可能地域の減少は戦争の原因になり得ると思います。近代はそうでもないかも知れませんが、古代になるほど、戦争の原因、侵攻の目的は食べ物がない人々による、肥沃な土地、食べ物を求めての侵略だったケースが多いです。

 最近のウクライナ戦争で日本の軍備増強が話題となっております。戦争抑止には軍備増強すべきである、と。

 しかし私としては温暖化抑止こそ戦争回避、戦争抑止したければ目指すべき事であると思います。

 温暖化が進むと戦争になる可能性も上がると思います。

 あまり未来に良いヴィジョンを描けませんが、何とかしないと行けないと思います。

 以下、希望のあるシナリオの一例として→私が他の記事で書いたライフスタイルを採用した人々が少数でもいたとする。その人の生活、生き方が傍目から見て幸福そうで、従来の資本主義型のライフスタイルをとる人々よりも活き活きして生きてるように見えたら、周りも真似しだすかも知れません。そういったライフスタイルの真似、パクり、模倣、オマージュによって草の根的に、ボトムアップ的に温暖化抑止、反資本主義的ライフスタイル、幸福度の高い活き活きライフスタイル、生きがいあるライフスタイルを採用する人々が増えるかも。

 そのライフスタイルとは、昔のライフスタイルを参考にする事、江戸時代のライフスタイルを参考にする事で編み出せるライフスタイルでした。日本が世界に対して、温暖化抑止、行き詰まった資本主義の打開のお手本、事例となるライフスタイルを提示する事が出来るかも知れません。あたかもコロナのように世界中にその新しい(古い?)ライフスタイルが模倣、真似という形で伝染、伝播し、温暖化をくい止める事が出来るかも知れません。以上、私の思いつく限りの希望のシナリオです。

 

 一概には言えない事かも知れませんが、人類がここの読者の方々のような方ばかりならば、温暖化、環境汚染、戦争は起こらないのかも知れません。

 人間の心には遠い未来を見通す眼を持たず、ただ目先の損得勘定に基づく判断をし近視眼的生き方をしようとする傾向や、周りの人々と同じライフスタイルを取ろうとする傾向があると思います。それは人が理性を持つ前の原始時代における瞬間的な闘争や判断力がものを言ったその日暮らしの頃の動物的生き方の名残かと思います。

 現在、私が他の記事で書いている脱資本主義的なライフスタイルをリスクを負いながらも何とか採用して、現在の資本主義的ライフスタイルに楔(クサビ)を打ち込む人々が少数でも現れたとする。そして、その脱資本主義的ライフスタイルが傍目から見て従来型の資本主義的ライフスタイルよりも幸福度が高そうならば、目先の損得勘定で生きがちな人も脱資本主義的ライフスタイルに乗り換え始めるかも知れません。そして、脱資本主義的ライフスタイルを採用する人々が増えて、勢力が増すごとに、さらに益々、脱資本主義的ライフスタイルを採用する人が増えると思います。人は周りの、大勢のライフスタイルを真似する傾向があるからです。それはあたかもコロナの感染が伝染、伝播する様に似ているのかも知れません。

 この流れの初動の契機となる楔(クサビ)を打ち込む少数の人々は、戦争で言えば、突撃隊、切り込み部隊のような一面もあるかと思います。先駆者として、周りの大勢の生き方、ライフスタイルと訣別し、リスクを負う勇気と志し、行動力、そして正しい道を判断する理性を持ち合わせる必要があると思います。そういった人々が増える必要があるのが、現在の段階(フェイズ)だと私は思っております。

 

☆ 2、六波以降のコロナの考察

初回記述日 2022、11、4、

最終改訂日 2022、11、26

今回は第6波以降の弱毒化したオミクロン系コロナについて思ったこと、書いてみます。

 

6波以降は弱毒化したオミクロン系が主流です。以下、6波以降のオミクロン系コロナが主流の時を話題とします。

 

先ず、次のような傾向あるようです。

 

【傾向1】 気温が快適気温に近い春や秋は感染が収束傾向になる。他方、快適気温からのズレが大きくなる高温の夏や低温の冬季は感染が拡大する。最高気温が快適気温の25℃からズレるほど感染拡大し易くなる。

 

実際に同じ都道府県なら夏季や冬季ほど感染が拡大します。また傾向1を支持する現象として

 

【傾向2】 夏季は気温の高い沖縄、九州から感染の拡大が始まり、また感染拡大の度合いも大きい。(同時期における別々の都道府県を比較した際に)

冬季は気温の低い北海道や東北から感染拡大が始まり、感染拡大の度合いも大きい。(これも同時期における異なる都道府県を比較した際に見られる傾向)

 

以上のように傾向2は傾向1を支持してるように見えますし、少なくとも矛盾はしません。

 

傾向2から、夏季(正確には夏季に入る前の頃)は沖縄や九州に注目すれば、それらの県の感染拡大してきたら、その他の都道府県もしばらくしたら感染拡大、という事になろうかと思います。

冬季前は北海道や東北に注目すれば、それらの道県の感染が拡大してきたら、他の都道府県も近いうちに感染拡大、と思います。

 

あと波は今までは2カ月くらいでしたが、今度の冬季の8波は12月〜3月の間の3〜4ヵ月と、割と今までより長い波になるのでは、と私は思ってます。

 

さて、傾向1の理由は幾つかあると思います。日本における人間社会のあり方、経済活動のあり方による感染拡大の理由の1つとして、次の理由が憶測ですが、思い浮かびます。

 

【憶測1】 夏季や冬季に快適気温からのズレが大きくなるとエアコン使って、窓開け換気しなくなってオフィスなどで経済活動の際に空気感染で拡大する。ここで経済活動というのは学校も含む。学校は将来の経済活動従事者養成所という見方も出来るので。

 

考えられる典型的な経路として

事務所などで窓開け換気しなくなってオフィスで感染拡大→オフィス労働者の家庭内で子供に家庭内感染→子供が通う学校で窓開けしなくて感染拡大→屋外労働など窓開け換気があまり関係ない環境で働く親に学校で罹患した子供から家庭内感染

というの思い浮かびます。もちろん他の経路も沢山あります。一例です。

また日本は近代的な高気密住宅の割合が多いのかも知れません。だとすれば6波以降の日本の世界有数の感染拡大の1つの理由として高気密住宅、あるいは高気密な職場環境があるのかも。他の国に比べ精度の高い高気密設計になってるのだと思います。日本人の細かさ、几帳面さがコロナ換気の観点からは裏目に出てしまってるのかも。他の国のいい加減さ、緩さ、遊びがあるというか、建物の隙間がちょうどコロナ換気の観点からは良いバランスとなってるのでは。(※ 文末に日本が6波以降世界有数の感染拡大を誇る理由、思い浮かんだ別の理由、書きました。)

 

あと、空気感染は換気されない状態、密閉状態だとマスクしてても、時間経つごとに感染する確率上がってくようです。私自身はマスクしてたら、しない時よりも感染確率は減るけど限界があると思います。マスクはRPGで言えば防具、よろいや盾ですね。完全にノーダメージに出来る訳ではないが軽減はできる。というのが私見です。

 

ところで、憶測1を元に以下のような憶測2が思い浮かびます。

 

【憶測2】 第6波以降のオミクロン系のコロナの感染拡大は経済活動に伴う空気感染が主流である。

 

そんな訳で、暑くなったり、寒くなったりでエアコン使い始めて、職場で窓開け換気しなくなってきたら感染が拡大するのではないでしょうか。

 

また、感染拡大をエンハンス(助長、パワーアップ)させるものとして連休があると思います。

 

【憶測3】 3〜14日程度の連休(3連休、ゴールデンウィーク、お盆休み、年末年始)は連休明けに少し経つと感染が拡大する。感染拡大がエンハンスされる。

 

【連休時に人流の攪拌→連休明けの経済活動再開時に経済活動に伴う空気感染で拡大】

というメカニズムだと憶測します。なお憶測3と書いてますが私的には傾向3と書いても良いと思います。

今度の年末年始明けも感染拡大、あるいは感染爆発かも知れません。夏季のお盆休みは確かに感染拡大のエンハンス効果あったのですが幸運にも、その後9月になり秋季に入り快適気温になって行って感染は収束傾向になりました。しかしながら、今度の年末年始は危ないと思います。冬季の只中ですのでお盆のようにエンハンス後に収束とは行かず、寧ろ、拡大、ある程度し続けるかも。かなり資本主義的経済活動に影響出る可能性もあるのでは。インフレ、円安などによる経済混乱と連携して、かなり日本経済、危ない可能性あるかも。熊を見習い冬眠作戦、あながち冗談ではないかも。自治体、行政は今までにない感染爆発を想定して準備、備えをすべきかも知れません。真留句の冬の備え、熊との対話の内容は今度は当てはまるのかも、2年越しに。円安がさらにひどくなって円が大暴落するとか、あるかもです。今度も私は、なるべく長い期間を耐え凌ぐ為の生活必需品を買い込んでおこうと思います。冬眠前の熊のイメージです。いろんな意味で冬と思います。その冬の分の必需品を買い込む。インフレ傾向なのもあるし、かといってインフレ対策に金(ゴールド)買うほど私はお金に余裕ありません。どんどんインフレで腐って行くお金を生活必需品(お米、灯油、小麦粉、油、調味料(味噌、塩、醤油)、DIY用品など)に変えよう、買い物しようと思います。インフレの今、ある意味、良いタイミングです、熊の真似をするには。コロナも3回目の冬を迎えようとして、幾分、私は慣れ気味、油断気味になってました。まあ、またか、という感じで。しかし今度の冬は今までと一味、違う可能性もあるかも、で初心に返ってコロナの冬対策をしとこうと思います。

 また、第1波〜7波までに見られる次のような傾向がありますので書いておきます。

 

【傾向4】第○波において波が増すごとに、感染者数のインフレが起きる。(コロナ感染者数のインフレ則)

 

第5波よりも第6波の方が感染者数が多く、第6波よりも第7波の方が感染者が多いです。またこの波を追うごとに感染者が増えるというかインフレするのは少しずつというよりは感染者数のスケール(桁)が増えるくらい急激です。第8波においてもこのコロナ感染者数のインフレ則は成り立つ可能性があります。今まで、第1波から7波までずっとインフレ則が成り立っていました。8波においてもこのインフレ則が成立するならば、ものすごい感染者数になる可能性もあります。

 

 第8波は何かあるにせよ大事なく、ほぼ今まで通り、という可能性もあります。しかし、もしかしたら大きな変化があるかも知れません。第8波が過ぎ去るであろう来年の春、私は日本社会がどのようになってるか心配な部分もあります。貯蔵の効く、早めに買い溜めしておいても損はしない、お米、味噌などを買って、万が一(?)に備えておこうと私は思います。お米と味噌があれば、ある程度、生きていけると思います。炊飯の為の電力やガスや薪などが使えれば、ですが。

 

次に憶測2を元にして感染対策について考えてみます。あまり、現実的に有効なの、私は思い浮かばないのですが。

【対策1】 真留句流にはオフィス労働から転職せよ、屋外労働に転職して、子供も学校に行かすな、となろうかと思います。

 

転職せずにオフィス労働や経済活動をこのまま続けるならば→

【対策2】 オフィスや学校で窓開けせずに滅菌空気循環させる方法。何らかの滅菌空気循環機構、滅菌空気循環装置を作る。太陽光に含まれる紫外線を通すガラスなどを天井に使ったり、窓際など太陽光のあたる場所に空気を循環させるとか?そんなんで滅菌作用あるのか、分かりませんが。充分な時間、紫外線なり高温(70度以上?)にウィルスを含む空気が当たるようにすれば良いのですが。なお薪ストーブは換気効果あるので、コロナ対策に有効と思います。またウィルスを直火で殺す効果もあるのでは。コロナは、どうも農業や薪ストーブなど昔のライフスタイルだと対応し易い気がします。

 

【対策3】 窓開けをゴリ押しする方法。例えば、冬季、オフィスでも窓を開けて、屋外と同じようにコートや防寒具を着て、指の部分に穴の空いた手袋着用してパソコン作業するとか。

 

実際は社会はワクチン頼みで、経済活動に伴う空気感染は已む無し、としてるように感じます。弱毒化により感染をある程度、受け入れて資本主義的経済活動を継続という事かと思います。

 

最後に→以上はオミクロン系もしくは似たような傾向のコロナが主流の場合の話です。大きく特徴の異なるコロナウィルスが輸入されたら、また話は違ってくると思います。

 

※ 第6波以降の感染拡大、日本が世界有数なのの理由、本文に少し書きましたが、ここにも別の理由、憶測ですが書いてみます。ポイントは2つあって

○ オミクロンの弱毒性

○ 資本主義的経済競争の導いた、企業におけるカツカツの人員配置

オミクロン系になってから弱毒化してしまい無症状だとか軽症だとかで、コロナと思わず、ただの風邪かな、くらいの気持ちで仕事に行ったり、学校に行ったり、これでけっこう感染拡大してるケースあるのでは。強毒性のδ株など5波以前は症状も有りありと分かるのでコロナに罹患しながら経済活動というのは比較的、少なかったのでは。

 そして、しばらく前から経済競争、経済競争の原理の導くままにリストラが行われ、無駄の排除、効率化の名の下にカツカツの人員配置が企業における労働環境でなされたのもポイントと思います。

 もしかしたらコロナに罹ったかも知れないけど、休む事が出来ない、代替用員がいない。そして症状もそれほどではない。だから多少無理して解熱剤を飲んででも仕事に行かねばならない。こんなケースが日本は他国より多いイメージが浮かんでしまいます。

 

☆ 1、最近のインフレについて

2022、10、28

最近、インフレが生じてます。以下、最近のインフレをテーマに色々、書いてみます。しかし、当方、あまり経済学、詳しくないので以上の見解には抜けてる部分、足りない観点あったり、あるいは間違った見解かも知れませんので、眉唾でお願い致します。

 

①  真面目に働いてる人のお金(労働)がもの凄く掠奪されてる→

少子化の理由のうちの大きなものは、お金や時間に余裕がない事だと思います。特に将来、必要になる教育費は大きいと思います。

 ただでさえ、仕事はキツい+給料は少ない(=労働の対価が得られない)の中、さらに税金も取られる中、何とか節約して子供の教育費、大学の費用を貯める訳ですが、ここに来てインフレです。

 仮にインフレ前に500万円貯金してて、3割、物価が上がったとします、1.3倍です。そうすると、実質のところ500万円は385万円≒500万円÷1.3に目減りした事になります。インフレ後は500万円で買い物してもインフレ前の385万円分の商品やサービスしか購入出来ない、という事です。表面上は500万円のままですが。

 具体例を考えてみます。インフレ前に100円だったパンがインフレ後に130円に値上がりしたとします。現実にはあり得ない話ですが500万円分、このパンを買うと、インフレ前は5万個=500万円÷100円/個、買えます。しかし値上がりしたインフレ後は38500個≒500万円÷130円/個しか買えなくなります。即ち、500万円はパン5万個からパン3.85万個程度の価値に下がった訳です。

 貯金が÷1.3≒×0.77倍に減る訳ですが、これは働いた時間の貯金に当てた部分のうち23%が時間泥棒された事になります。酷いです。

これでは、少子化が進むのも当然。子供を産もう、なんて気にはならなくなるのも当然と思います。クーポンなど小手先の少子化対策するようですが、大局的に不味い流れに走ってしまってる、と思いました。

 真面目に働いた人が踏んだり蹴ったり。おかしな世の中、狂った世の中、病的な最近の日本、と思います。

 

② インフレの第1波を耐えれば、借金の多かった企業には光明が? →

 円安とインフレは様々な商品を値上がりさせてます。私のようなボンビーは支出に占める必需品費用の割合が多いので値上げは厳しいです、低所得層にとって。

 また海外から輸入してる原材料の値上がりは企業に大きな打撃を与えてます。そして実際に倒産するケースが出てるようです。

 しかし、何とかこの、インフレの第1波、始めのショックを乗り越えてインフレに順応する事が出来れば借金を多く抱える企業にとっては光明が見えるのではないか、と私は思いました。

 インフレに順応し、企業の販売する商品が値上がりし、また労働者の賃金も増えれば、後はまたインフレ前のような生活サイクルに戻ります。(今回、そのように順当に行くかは油断できざる所、ありますが。以下、仮にそうなったとして)なんだかんだ言っても商品が値上がりしてもそれと同じ割合で給料も上がれば、また支出に占める必需品費用の割合もインフレ前に戻る訳です。そしたら、結局のところ、貯金や借金が目減りした、という事になります。

 そういった訳でインフレの初期のショックを何とか耐え凌ぎ、インフレに順応する事が出来れば借金は目減りします。企業のみならず、住宅ローンとか組んでる人も幾分、得をするのではないでしょうか。(とは言え、先行き不透明、不安定な世の中なれば、借金、ローンは得策とは思えませんが)

 

③ 全体としては→

以上の①、②の両方を見ると、全体として、結局のところ、①で真面目に働いた人の労働、貯めたお金が、②の借金を抱えた企業の借金の補填に充てられてる、という見方ができるような気もします。掠め取られた①の労働は②の企業の借金の返済に投入された、という見方できるのでは?トータルとして。

 

④ 経済政策としてのインフレと税金→

前述の①において、もし物価が1.3倍にインフレすれば500万円が実質の価値は385万円に目減りすることを書きました。逆に500万円の借金は385万円の借金に減るとも考えれます。

500万円貯蓄してた人の失った価値115万円は借金を抱える企業や国の借金(国債)の返済に充てられた、というような見方も可能かと思います。

 こう考えるとあたかも庶民の115万円が税金で取られて国債の返済や借金を抱える企業に公金が投入された、という見方も出来るかと思います。実際に貯蓄した500万円に対して115万円の税金が掛かったら、かなり庶民の不満は高まると思います。インフレは隠れ蓑のように騙し騙し、税金をかける効果がある、という見方も可能と思います。ステルス値上げという言葉がありますが、インフレは貯蓄へのステルス課税、という見方も出来る訳です。インフレは色んな商品が値上がりして厳しいなーと実感する訳ですが、通常、遅かれ早かれ、賃金も上がって、元の生活に戻ります。しかしインフレの大きな影響は自覚症状の無い人もいる、貯蓄へのステルス課税にこそ、私はあると思います。貯蓄への、あからさまな課税は国民の反感を書いますが、インフレによるステルス課税は間接的で分かり難く、反感があまり起きないと思います。とりあえず、私の母はインフレによるステルス課税には自覚症状がないようです。しかし貯蓄するまでに所得税やら住民税やらその他いろいろの税金を納めた上で節約して貯金するお金を捻出する訳ですが、インフレはそれにすら税金を掛けてくる、とも見なせます。

 他方、この作用は富の再分配、貯蓄を持つ者から、借金を抱える持たざる者への再分配が行われてるとも見なせます。しかし、借金せずに地道に勤勉に働いた人のなけなしの貯蓄がもっと派手な生活を送りつつ経済活動の為などに借金する人々へ富の移行がなされる等のイメージを考えると、どうも納得が行きません、私は。

 

⑤ インフレと無縁にいる為には・・・真留句の説く昔のライフスタイル

 

 インフレは是の如く本来、腐るはずのないお金が腐ってしまう、という見方も可能と思います。500万円のうちの115万円分が腐ってしまった、と。 貯蓄や借金が目減りする訳ですが、貯蓄、借金がプラマイゼロの生活を送る人々にとってはインフレのこの腐る効果は影響を受けません。そもそも魚を持ってない人にとっては、魚が腐ろうが、そんな事は関係無い訳です。

 読者の方は、常に貯蓄なしギリギリの低空飛行の生活を送る人を少なくとも1人はご存知と思います。架空の人物とはいえ。真留句です。経済界のサバイバーの異名を持つ彼は、常に貯金無しのギリギリサバイバル的経済生活を送っています。

 お金が無かった大昔なんて、貯金なんてことは出来なかったし、お金が出来ても生活に余裕のない頃は貯金は出来なさそうなイメージあります。真留句は昔のライフスタイルを提唱してます。貯金に関して昔のライフスタイルは貯金しない、という事になろうかと思います。確かにこれならインフレとは無縁。江戸っ子は宵越しにはお金は持たねーぜ、というライフスタイルかと思います。予期せぬトラブルに備えての最低限の貯金、貯蓄は必要と思いますがバランスを越えた財、度を越すほどの莫大な財を貯め込むはインフレ、あるいは、いろんな観点からは避けるべきなのかも知れません。

 当ブログの熱心な読者の方は、他の真留句記事もお読みと思います。そのライフスタイルは沢山の貯蓄、貯金とは無縁なライフスタイルです。真留句の推奨するライフスタイルは子供の為の大きな学費も必要なく膨大な貯金をする必要はありません。ただ、流石に真留句のような貯金ゼロ生活は私もおすすめできません。やはり、多少の余裕、トラブル対応などの為の適度な貯蓄は必要と思います。

 

なお「自然のレッスン  北山耕平著」の中にはお金の法則というのが書いてあって、

○ 正しい事をやってれば、お金は必ず入ってくる。

○ 正しい事をやってれば、お金は全て出ていく。

○ お金はそれ自体、エネルギーの1つの形。

○ お金のない世界もある。

 

という4つの法則が書いてあります。始めの2つから正しい事をやっていれば、貯金も借金もない、プラマイゼロという事になろうかと思います。

 

私はこう思いました。

真留句通信 2022年4月

真留句通信 2022年4月


最近、更新しておりませんでした。心優しき読者の中には身を案じて心配して下さってる方もいらっしゃるとも思い、無事であることをご報告する次第です。

 忙しく時間不足で更新できない部分、あります。「忙しい」とは心が亡くなると書きますが、何となく、的を得た漢字の作りだな、と感じる日々も長いものとなっております。

 

 


☆ 以下は2021年8月の真留句通信


〇 東京オリンピックについて

 

 私はオリンピックの開催は反対です。

 テレビも家に無いことですし、オリンピックに興味がそれほどある訳でもなく、観てません。

 

 しかし開会式の選手入場時にゲーム音楽が使われたとのこと。この事は私の心を動かす部分がありました。ネットニュースを見るとドラクエFFの音楽が使われ、「胸アツ」「感動」「鳥肌」とかの感想多いそうです。

 それまでは中止、反対の意見が多かったネットでも、肯定的な流れが生じたとのこと。

 選曲や、各曲のヴァージョンも練られてるみたいでマニアも絶賛のようです。

 確かにゲーム、特にRPGというのはゲームの世界を疑似体験しているわけですから、使用されたゲームをプレイしたことのある人なら強く心を揺り動かされるのも無理はない気がします、かく言う私もそのひとり。

 

  脱線しますが、私が使われたゲーム音楽の中で知ってたのは、ドラクエFF、サガメドレー、グラディウスのみです。モンハンとかは知りません。

 

 ただドラクエ、FF、サガシリーズはかなり時間をともにしたゲームなので私も感慨深いものがあります。 開会式にゲーム音楽を使うアイディア、一本取られた、という感じで、アイディアを称えたいです。

 

 さて私は特にサガシリーズの音楽が好きで、特にサガフロンティア2(以下サガフロ2)の音楽が好きです。ゲーム音楽の中でも1番好きかも知れません。

 

 音楽、ブログでいろいろ書く割にあまり詳しくないのですが、サガフロ2は同じ音形(モティーフというのでしょうか)で幾つもの曲が作られています。ある曲で用いられた音形がテンポや音程、音色を変えて別の曲に登場する。それがどうも、心地良さというか、聴いていて耳に馴染むような気がします。

 

 サガフロ2はそれまでのゲームボーイサガシリーズロマンシングサガシリーズとは別の方が作曲担当のようです。

 しかしゲームボーイサガシリーズロマンシングサガの音楽も私は好きです。

 特にロマンシングサガ2の音楽もかなり好きです。実のところサガフロ2と甲乙つけ難いといいますか。ロマサガの音楽の方が好きという人も多いと思います。

 サガフロ2とロマサガ2では音楽の方向性が違うような気がします。そして、どちらも良い。比べる事の出来ない魅力がどちらにもあります。

 ロマサガ2の音楽は感情、心に響くような気がします。七英雄とのバトルシーンの音楽なんかは圧巻です。

 対してサガフロ2の音楽はロマサガ2ほど感情や心に訴える部分は無いのですが、先ほど書いた、同じ音形による作曲技法などで理性に訴える部分があって、聴いていて心地良い。このあたりが自分は好きなのかな、と思ったりもします。

 

  脱線から元に戻ります。

 

 このようにして私もオリンピックの開会式に私の人生でも大きなウェイトを持つゲーム音楽が使われたことで感慨深いものを感じたわけです。

 

 しかし、よくよく考えてみると、ナチス政権下のドイツにおいてワーグナーの楽劇を観たドイツ人も似たような感情を抱いたかも知れないな、と思いました。

 

 なお、日本はオリンピックをコロナ下で開催しましたが、仮にロシアが開催国だった場合、開催しなかったような気がしまし。

 プーチン大統領なら、きっぱり開催を拒否したのではないか、そんな気がします。プーチン大統領のことは断片的にしか知りませんが、独裁とか言われますが自国民をしっかり守るという信念があるような気がします。

 

 真留句といい、共産びいきみたいですが、あくまで、私は共産主義者ではありません、いちおう。

 

 かくの如く、音楽、それからストイックに鍛錬を重ねて来たスポーツ選手のパフォーマンスは感情に訴えるところあり、7月29日現在、世論も中止、反対派より肯定派が盛り返した感があります。

 

 しかし私は総合的にはやはり反対派です。

 

 良い事の中にも、悪い面はあるし、

 悪い事の中にも、良い面はある

 

 ある方の言葉です。

 

 オリンピックの良い面と、悪い面、両方を天秤にかけると、悪影響の方が多いと私は考えます。

 

 確かに開会式にゲーム音楽を使うアイディアや選曲の周到さは脱帽する部分あり、選手のパフォーマンスも感動的です。

 しかしコロナ影響の拡大によるコロナの死者、重症者、医療関係の方への負担、それから経済活動の機能不全の影響を考慮すると、負の面の方が大きいのではないか。

 

 オリンピックはハレであって、あくまで贅沢の一面があります。それと引き換えに日常、必要最低限の生活が脅かされるのは、妥当な判断とは思えません。

 

 スポーツ選手のストイックな鍛錬は真似できず、すごいことです。(一般人で過労とかも問題になっておりますのでスポーツ選手以上に過酷な生活をしてる庶民も多いと思います)が、スポーツ選手も一種の行き過ぎた分業社会によって生じた職業とするならば、やはり飲食業、観光業、職業芸術家に与えたのと同様、コロナは行き過ぎた分業システムに打撃を与える、という特徴を持つようです。

 

 職業芸術家、職業スポーツ選手、飲食業、観光業といった極度に分業化された職業で生計を立てることができるのは資本主義的経済システムがうまく機能しているという、我々にとってはごく当たり前に感じられたが、実は特殊な状況下のみなのかも知れません。

 

 コロナ下、温暖化状況下ではあたかも砂漠ではダイヤモンドを放棄し水を重んじるが如くに上記の考えを改めるべきなのかも知れません。

 

 経済成長真っ只中で行われた1964年の東京オリンピック、そして今回の東京オリンピック。1964年を曙光と呼ぶには遅いかも知れませんが2021年は黄昏、そんなイメージが沸き起こってきます。


 

真留句はこう言った 文章版4i 真留句断片 

真留句断片 

 

  この真留句断片は正式に文章版なり物語になる以前のアイディアの寄せ集めて記したものです。アイディアスケッチ、あるいはトピックスのようなものです。

 各テーマはアラビア数字でラベリングされて、新しい記事ほど番号が大きく、また上の方に書かれています。古い記事(テーマ)ほど、後の方に書いてあります。

 

目次;

 

9、コロナワクチン・・・科学技術による解決の特徴の見地から

 

8、温暖化問題とコロナ問題の相似性の考察  ※ 中途

 

7、新商品、新規製造物不要論

 

6、 ポスト・コロナ、あるいはクム・コロナの目指したらいいかも的な、大きな方向性

 

5、 農業という産業の特殊性・・・・農業は何故、労働の正当な対価を受け取りにくいのか?(=農業は何故、儲からないのか?)

 

4、 ライフスタイルを変える際の戦略

 

3、真留句の法則

 

2、 社会の病としてのコロナ

 

1、 目指すべき社会、理想の社会のバロメータ

 

 

〇 9、コロナワクチン・・・科学技術による解決の特徴の見地から

 

 概要

 私はコロナワクチンを接種しません。そのことについて書いてみます。ワクチンを打つべきか、打たないべきか、私は専門家ではないし、ある程度精密に判断できる医学、生物学といった科学的な知識、判断材料は持ち合わせておりません。故に以下は自分の人生観、哲学的見地による意見です。

 先ずファイザー社の社長自身やプーチン大統領はワクチンを接種しないとのこと。これは判断材料にしました。

 それに真留句文章版要約iの表の分類にはコロナワクチンは経済的事柄、資本主義的事柄の属しておりました。これも判断材料。

 

 あと他人に口出しすべきではないと思いますが、一般に若い人ほど(特に子供を産む前の方)接種しない方が良いだろうし、高齢の方ほど接種しても良いと考えます。

 

 何故、そう考えるのか。私は一般に

【科学の力による解決は、局所的解決をするが大域的副作用がある】

という特徴を持つ場合が多いと考えてます。

 それを信ずるならば、今後人生の余白が広く、人生の大域的部分の面積の広い若い人は副作用の観点から接種すべきではなく、すでに人生の広い部分を過ごして余白の少ない高齢の方は接種も妥当と考えます。

 以下、なぜそう考えるのか、詳しく書いてみます。

 

 農業の知見、体験からの物の見方

 

 先の概要において科学の力による解決の特徴、すなわち【科学の力による解決は、局所的解決をするが大域的副作用がある】を書きました。

 これは農業の体験や知識から得た考えです。コロナワクチンのことを考えると、農業での事例が頭に思い浮かびました。

 

事例1、農薬と害虫のイタチごっこ

 

 慣行農業においては化学肥料と農薬が用いられます。農薬は害虫や雑草を抑えます。

 しかし、そのうち農薬に耐性をもつ新手の、すなわち【新種】の害虫が現れます。

 そこでまた新たな農薬をメーカーは開発して行きます。

 新農薬は新種の害虫を駆除しますが、また別の新種が現れて・・・と延々とイタチごっこが続きます。そのうち農薬の毒性、不確定要素、副作用も高まったりして危険な時あります。

 ここまでお読み下さった方は私が何を言いたいかお気づきと思います。

 

農薬 ⇒ ワクチン

害虫 ⇒ コロナ

 

で読み替えると、判断材料になる訳です。

私の周りを見ると、農薬反対派はワクチン打たない場合多いです。農薬許容する人はコロナワクチンも許容する。私の周りにおいてはこの両者はけっこう正の相関関係が見られます。

 なお農薬が特に必要となるのは過剰に肥料(有機肥料、化学肥料問わず)を与えすぎたり、雑草を刈り過ぎたり、異常な環境(高温や異常気象)になった場合です。

 前2者は不自然なこととも言えます。収量を異常に上げようとかして化学肥料を投入するとか不自然なことをすると農薬を使う必要が出てくる。状況によっては作物を守るためには農薬に頼らざるを得ない場合もあります。

 しかし自然の摂理の範囲で自然に逆らわず作物を育てるうちは農薬を使う必要はありません。

 

 

事例2、ネオニコチノイド系農薬・・・・局所的解決と大域的副作用

 

 イネ、すなわちお米の害虫にカメムシというのがいます。この害虫がお米の汁を吸うと、お米に黒い斑点ができます。化学肥料を大量に使うとか、不自然なことをしない限り、被害を受けるお米は僅かか皆無(1%未満)で黒い斑点のお米を食べても害はありません。斑点無しにこだわるのは見栄えによるものなのでしょう。

 さてそのカメムシの防除にネオニコチノイド系農薬というのが日本では使われています。

 そのネオニコチノイド系農薬はミツバチを死滅させるとの説があり、それは正しそうです。

 ミツバチは野菜の受粉を助けます。

 キュウリ、スイカ、トマト、ピーマン、ソバ、カボチャ、ゴーヤ、ズッキーニなど他家受粉の野菜の実が稔るのを助けます。

 ミツバチがいなくなると、これらの野菜がみのりにくくなるのです。他にハエや蝶や風も受粉助けますが、虫と作物ごとの相性もあったりしてミツバチは重要です。

 

 イネはというと他家受粉ではなく自家受粉するのでミツバチや他の虫がいなくても稔ります。

 

このようにネオニコチノイド系農薬は確かにイネという局所的範囲では問題を解決しているのですが、他の野菜やミツバチや他のハチという大域的観点からは副作用を生じているのです。

 

もちろん、ネオニコチノイド系農薬も試験はしたと思いますが、イネとラットとかが被験者でミツバチとかは考慮されてなかったのでしょう。

 なおヨーロッパではネオニコチノイド系農薬は上記の理由のために使用禁止されております。日本では禁止されておりません。 

 

 私はこの事例から、科学の力による解決の特徴

【科学の力による解決は、局所的解決をするが大域的副作用がある】

が思い浮かびました。

 これは、他の現代の産業社会、効率重視のシステムのひずみが思わぬ形、温暖化や運動不足、睡眠不足、心の病、など大域的範囲で現れてのにもあてはまりそうです。

 

 こう考えると、人生の余白、即ち、大域的部分の面積、未知の部分が多い若い世代は副作用の起こりうる範囲が広いので打たない方が良い。

他方、大域的部分の少ない、副作用の範囲が限られている高齢者は打つ手もある、と私は思いました。

 

 以上、科学的議論のようで科学的議論ではありません。

 あくまで比喩というか類推ですので真偽は比喩の適用の妥当性がポイントとなります。ただ科学技術に普遍的に見られ易い特徴という事であれば適用が妥当になるかも、と思います。

 

 いちおう書いてみました。

 

 

 

〇 8、 温暖化問題とコロナ問題の相似性の考察   このテーマは現在未完の内容、作りかけの内容です。基本、読み飛ばして下さい。興味ある方は読まれてみて下さい。

 

 今回のテーマは社会問題としてのコロナ問題と温暖化問題の類似性、相似性について書いてみます。(以下、このテーマにおいて「社会問題」という言葉は温暖化問題とコロナ問題の2つを両方指す場合に使用します。)

 そして、さらに現在、より近接的、緊迫的に直面しているコロナ問題の社会の様子(例えば行政対応、人々の対応など)から将来、迎えるであろう温暖化問題が緊迫化してきた時(もう既に緊迫化?)の社会の様子を予想、憶測してみます。

 

 先ず少し脱線しますが私が小学生の頃は運動会や卒業式には予行練習がありました。

 本番の運動会や卒業式の日より前の別の日に予行練習する日がありました。

 社会問題としての【温暖化問題とコロナ問題の関係はちょうど、運動会や卒業式とそれらの予行練習の関係】にある、という見方も出来るのではないかと思います。

(温暖化問題⇔本番日  、  コロナ問題⇔予行練習日、という対応です。)

 

 コロナ問題は収束してなく、現在、その真っ只中です。温暖化問題も真っ只中ですが、現在、コロナ問題ほど大きなウェイトで我々の社会は温暖化問題を相手していません。

 コロナ問題で先行して得られる知見が温暖化問題の対策にも役立つのではないか、と考えております。

 

本論のサブテーマ

 

、温暖化問題とコロナ問題の類似点(あるいは共通点)と相違点

 

、温暖化問題とコロナ問題の対応物、対応関係および、それらを用いた憶測

 

、社会問題に対する対応策・・・ボトムアップ式とトップダウン

 

、考えられる幾つかのシナリオ

 

、コロナ問題という予防接種

 

 

、温暖化問題とコロナ問題の類似点(あるいは共通点)と相違点

 

 先ずは温暖化問題とコロナ問題の類似点と相違点を書いてみておく事にする。これにより類推、憶測が有効である部分とあまり役立たない部分の判断もし易くなるはず。

 

 ☆ 類似点、共通点

 社会問題対策が経済活動と基本的に相反する。

 社会問題の対策の際に行政、政府が行動や生活様式の制限、自粛を個人、企業に要請する形になる。(トップダウン型対策)

 

 社会問題がひどくなるほど、危機感が高まり対策が行われるようになる。

 

 ☆ 相違点

 対策行動をとらない場合のカウンターの傾向・・・コロナは罹患対策を個人が守らない場合、基本的に自身がコロナに罹患するという形で被害を受ける事になる。

 これは具体的にはノーマスク、飲酒を伴う会食、遠距離への移動などのペナルティが自分自身にはね返ってくる、という事である。

 

 他方、温暖化問題は問題対策を個人が守らない場合の被害は異常気象、食糧不足、居住環境の悪化などのペナルティは本人以外の人類全体にしっぺ返しが来る。律儀に温暖化問題対策の行動をとっていた個人にも被害は返って来る。

(蛇足になるが、以下RPGゲームの知識がある方向けの説明;

 これはRPGゲームで言えば、コロナ問題はモンスターへ攻撃した者にモンスターが直接カウンター攻撃で反撃するタイプ、

および、

温暖化問題はモンスターへの攻撃が広範囲魔法やブレスなどによる全体攻撃によるパーティ全体へのカウンターになるタイプ、という事ができる。)

 

 

 消失の仕方・・・・コロナなどの感染症はワクチンなり集団免疫なり、季節要因、気候要因で消失したら、短期的に収束する。

 新規感染者数が増えて、「これは大変だ」とみんな身構えて行動を慎めば、やがて感染者も病院でそれほど長期でない期間で回復する。

 すなわちコロナはその気になれば短期解決型なのである。

 

 ところが温暖化問題の方は、問題がすぐには消失しない。長期化、それもかなり長い間、続くことになる。一度、異常気象、温暖化が生じてしまえば、その影響は短期に軽減されることなく、長期的に軽減されることなく続くのである。

 異常気象が大変になって「これは大変だ」と思って、いろいろ手を打ってもそう簡単に短期に解消される訳ではない。

 

、温暖化問題とコロナ問題の対応物、対応関係

 

 科学技術による解決策

コロナワクチン ⇔ 新しい科学技術(再生可能エネルギーの技術、高性能バッテリーなど)

 

 コロナにおけるコロナワクチンという解決策、及び、温暖化問題において、再生可能エネルギーや高性能バッテリーによる解決策といった、科学技術による解決策に私は懐疑的である。確かに、まったく無効という訳ではないが、決定的解決策にはならないと考えている。

 これは農業における問題を農薬で解決しようとした場合と同様の事が起きるのではないか、と思う;即ち、科学技術による解決はまた別の問題が生じてしまい、イタチごっこ

なる、という事である。

 害虫駆除、防除のために農薬を使用した場合、短期的には害虫は駆除される。しかし、そのうちその農薬に耐性をもった別の害虫も現れる。また、別の農薬を開発して、また別の害虫が現れて・・・・の繰り返し、無限ループである。また農薬を撒く農作業してる人にも農薬は悪い影響を与えるし、食べ物としての農産物や土壌にも悪影響がある場合がある。

 他に稲の害虫のカメムシを防除するネオニコチノイド系の農薬は益虫であるミツバチを消失させてしまう。ミツバチは多く他家受粉で稔る多くの野菜(キュウリ、ナス、トマト、ソバ、ピーマン、スイカなど)の受粉を助ける。即ち、ネオニコチノイド系農薬でカメムシを防除してイネを守るのは(イネは自家受精するので稔る際にミツバチは不要)、他の野菜の生育を妨げることになるのである。

 このように科学技術による解決は局所的には解決しても大域的には別の問題を生じさせるのである。

 大自然が大域的、全体的なバランス、調和があるのに対して、人工の科学は局所的解決しか導けず、大域的バランスを乱す場合が多い。

 余談になるが筆者は農作業していて、最近、つくづく思う事がある。農作業は自然と人間の関係の縮図であると。

 肥料を撒きすぎたり、雑草を取り過ぎると、バランスがくずれて、作物に害虫がたかって大きな被害を受けることがある。もちろん、肥料少なく、雑草ある程度残しても、害虫はたかるが、許容範囲内である。肥料、雑草がバランス内であれば、害虫もまたバランス内となる。

 肥料を多くし、雑草を排除して、日光、養分を独り占めにして生産力を高める。これはろくな事が起こらないし、できた作物も大きいが中身の詰まっていない、本物とかけ離れた作物になる。

 社会も生産性のみを追求すると同様の問題が生じるように感ずる。

 

 

 生産活動に支障をきたす業種

 

観光業、飲食業 ⇔ 化石資源を使用する業種(化石資源を原材料に用いる業種)

 

 

マスク警察 ⇔ エコ警察 

 

、社会問題に対する対応策・・・ボトムアップ式とトップダウン

 

 温暖化問題にせよ、コロナ問題にせよ社会問題における対応策にはアプローチの仕方で2つに大別できる。

 

ボトムアップ式・・・・庶民、個人からの解決法 

 

 ボトムアップ式に人類各個人の意識が変わって行動も変われば、コロナも温暖化もどちらもあっさり解決に向かうという特徴がある。そしてこれは実際に行われれば、強力な解決法となる。

 ところがこの強力な解決法が発動されるのは、なかなか難しい。

 人類の意識が変わるか、あるいは社会問題の悪化がかなりひどくなって危機感が身近に感じられるようになってからである。

 

 トップダウン式・・・政府、行政が行う解決法

 

 社会問題の悪化が身近になってきた時に、一般市民から社会問題の対応が不味いと文句を言われることがある。

 

、考えられる幾つかのシナリオ

 

、コロナ問題という予防接種

 

 

 

 

 

〇 7、 新商品、新規製造物不要論          2021、6、8、

 

 テーマは、もはや新規製造物、新商品などは要らないのではないか、もっと言えば、作らない方が良いのではないか?という話です。

 

 始めに概要を書きます;

 

 人類は最近発明された原発、電気技術、自動車、インターネットなどなどが無くとも太古の昔から生きて来ました。ですから最近発明された商品や今後発明されるであろう商品は必ずしも【人の生活の為】に必要なわけではありません。

 確かに暮らしが便利になるだとか楽になるというプラスの面はあります。(ここで豊かになる、という言葉は敢えて入れない事にします。)

 他方、トラブル時の厄介さや環境負荷、気がつきにくい形での人への悪影響というマイナス面もあります。

 そしてプラス面とマイナス面を両方、考慮するならマイナスの方が大きいと私は考えます。

 刃物の例を書いてみます;石包丁  青銅の刃物  鉄器  鍛造鋼 

と時代が進むにつれ切れ味が良くなってきました。

 この江戸時代に到達した鍛造鋼で私は十分と考えます。これ以上はむしろ有害であると。

 この系列をさらに進めるとSFも混入しますがスターウォーズで登場するライトセーバーが出てくるでしょう;

 

石包丁  青銅の刃物  鉄器  鍛造鋼  ライトセーバー

 

 しかしここでライトセーバーを調理器具として使いたいと私は思いません。他の方もそうだと思います。

 ライトセーバー製の包丁は手元が狂うというトラブル時には指1本が切り離されてしまいます。

 鍛造鋼の包丁では切り傷で済みます。切れ味が悪い包丁ならもっと傷は浅いでしょう。

 ライトセーバーはマイナス面が大きく我々には鍛造鋼の包丁が丁度良いのだと思います。

 

 ところが現在の社会全体、経済社会ではこのライトセーバーを発明しようとするような事をやっているように思えてなりません。

 指が切断されてもスターウォーズのような科学技術があれば指を容易に再生できるだろう、という反論もありそうです。ちょうど映画で主人公がダースベイダーに切り落とされた手を再生するシーンがありました。

 しかし私はそもそも手の再生技術も不要で鍛造鋼で足るを知っていれば十分と思います。

 手の再生技術で反論するのは様々な科学技術のマイナス面をさらなる科学技術の進展で克服して行こうという考えの一例、象徴でもあるように見えます。

 私はこの事例に否定的です。

 

 このようなライトセーバーを追求する社会に違和感を私は感じます。そんな、おかしな事が止まないのは【人の生活の為】にライトセーバーを開発するのではなく、【経済成長のため、資本主義システム維持のため】だからなのでしょう。

 

 以上、概要が長くなりましたが以下、本論、もう少し詳しく書いてみます。

 

 本論のサブテーマ

 

、時間が流れ、資本主義が進展する時の商品の特徴

 

徳川吉宗と新規製造物禁止令と人口

 

、何故、新規製造物は必要なのか?

  

、オマケ 

 

 

 Ⅰ、時間が流れ資本主義が進展する時の商品の特徴

 

 過去から現在に向かって時間が進んで資本主義が進展するにつれ、過去には無かった便利な新商品が市場、世の中、社会に現れます。

 それら便利な商品は人々の暮らしを便利に、楽にしてくれます。

 しかし、商品や事物は両刃の剣の部分があって、正の側面と負の側面があります。具体的には包丁のような刃物は調理の際に便利な道具となる反面、人や生き物を殺傷する道具ともなり得ます。

 これは原発スマホ、ネット社会にもあてはまります。

 

 ただ現代的になればなるほど、負の側面が厄介になる傾向があります。

 特にトラブルの際には現代的な商品の方がトラブルの収拾の難易度が高まり、またトラブルの被害も大きくなります。具体例は原発スマホ、あと商品ではないですがいろんな社会システム(学校制度、生産様式、生活様式)などが思い浮かびます。社会システムも現代的な方がトラブルには脆弱。具体例はコロナ時の社会の生じる様々の問題を想起して見て下さい。

 

 また時間が経つにつれ、新商品に生産や消費のウェイトが置かれ、昔からあるような商品の生産にかけられる手間は疎かになって行きます。

 例えば、お米の生産は昔は手作業の比率が高く天日干しなど、まさに八十八の手間、たくさんの手間がかかりました。ところが今はトラクターやコンバインなどの機械化、化学肥料、農薬、機械乾燥などで手間を省き省力化してます。

 生産性は高くなっていますが質は昔のに比べ、とても落ちます。この辺りはなるべく昔の生産方式で生産されたお米、農産物、卵、衣服、家屋、道具などと、現代における一般的な生産方式の生産物を比較すると納得してもらえるはず。なお前者は市場にあまり流通していない。流通品でもなるべく昔の生産様式のを入手して実感できると思う。農産物なら許すなら自分で育ててみる、物の見方が変わるかも知れませんし、この文章に得心なされる度合い高まると思います。

 

 昔から存在する農産物、食糧、家屋、衣服などは人が生きる上でほぼ必要不可欠な商品と言えます。このような昔から存在する商品を今後は【構造的商品】と呼ぶことにします。

 それら農産物などは人の生活において、あたかも建築物における柱のような構造材のような役割を果たすからです。建築物にとって柱が不可欠なのと同様に人の生において農産物が必要不可欠というわけです。

 

 他方、人の生活を便利にする後発の、資本主義が進展してから登場する商品を【装飾的商品】と呼ぶことにします。

 具体例はスマホ、テレビ、パソコン、電話、自動掃除機、自動車などです。

 これは人の生において、建築物における装飾品、芸術性の高い彫刻の役割に対応すると考えることも出来そうだからです。

 

 さて時代が流れ、資本主義が進展するにつれ、構造的商品から装飾的商品に生産や消費のウェイトが置かれるようになります。そして構造的商品は機械化などの省力化という、見方によっては手抜きの生産方式になって行きます。

 また装飾的商品の生産や消費、そしてトラブルは構造的商品を犠牲にし、のみならず、人が生きる上で必要不可欠な空気、水、環境、そして気候すらも犠牲にする傾向があります。

 具体例は原発トラブルによる環境汚染、車やパソコン、スマホの生産消費は空気や水を汚染します。

 

 概して装飾的商品、即ち最近の製造物や今後、新規に登場する製造物はトラブルの際の厄介さや負の側面と正の側面(=役立ち度、重要性)を全体的に考えると【百害あって一利あり】的様相を帯びている、ということになります。

 

 そして時間が経つにつれ、資本主義が進展するにつれ

 

 構造的商品、水、空気、生活環境、気候 ⇒  装飾的商品

 

  

というトレードが行われているという見方が出来ます。時が進むにつれ左の構造的商品などを手放し、右の装飾的商品を手に入れている、というわけです。

 

 このトレード、取引の分が悪いことは言うまでもない事と思います。

 

 以上から今後は新規製造物は不要と私は考えます。

 

徳川吉宗と新規製造物禁止令と人口

 

 名君として名高い徳川吉宗享保の改革などで有名です。

 彼は【新規製造物禁止令】というものも行いました。ちょうど本記事のテーマです。それをトップダウン方式でやった事例があるという訳です。

 

 吉宗は以下のように考えたらしいです;

 

「世の中に人が生きる上で必要な商品は十分、出回って売り買いされている。これ以上新たに何か作れば、人々の身の丈を越えて買い求めるようになり、自ら金銭的(経済的?)に窮乏し、国の衰えとなる。」

 

私なんかは流石、吉宗、と思います。

 国の借金が増え、原発や化石資源を生産や消費に用いる新商品が温暖化問題を生じさせ、さらに資本主義や財政の行き詰まりに直面する現代や様々な先進国にあてはまる言葉のようにも思えます。

 時代や場所を越えた普遍的な慧眼を吉宗は持っていたと。

 

 しかし、この吉宗の政策に対して、現代の大勢を占める経済成長を信仰する多数派には以下のような批判があります;

 

 「この新規製造物禁止令で人口増加や経済が停滞した。農業に関係する土木工事や鉱山の開発が行われなくなり、人々の創造性も抑えられて経済が停滞した。

 江戸時代後半は人口がほとんど変わらなかった。(増加させることが出来なかった。)

 開国とともに人口は増加し各種土木工事、鉱山開発が行われるようになり経済も進展した。」

 

 確かに経済成長への信仰心の篤い方にはもっともな意見と思います。

 

 ただ、人口増加は環境破壊や食糧不足を引き起こします。

 

他方、現在の日本に見られるように人口減少、少子化は労働力や世代間の負担の格差、しわ寄せなどこれまた様々な問題を引き起こしています。

 

 そう考えると人口がほぼ定常、あるいは多少の変動、波があっても長い目で見るとほぼ定常、であることが現在、目指すべき姿なのではないか、と私は考えます。

 

 江戸時代後半の町人、農民は新規製造物禁止令のもとでも、したたかにやり過ごしてその文化を開花させたのだと思います。

 今日、世界中のアーティストに影響を与え続けている葛飾北斎が活躍し、手打ちそばの技術が大きく進歩し、町人文化が大きく花開いたのは江戸時代後半です。

 

 またこの記事の一番始めのテーマ【1目指すべき社会、理想の社会のバロメータ

】において理想的な社会の指標を考察しましたが(このページの一番、下に書いてあります。)そこに新たな指標として【人口がほぼ定常】というも付け加えれる可能性があります。

 そう考えると江戸時代の暮らしの幾つかの特徴はやはり参考にすべきなのかも知れません。(もちろん封建制や医療レベルまでは見習う必要はないですが。現代の民主制や医療レベルなど、現代の長所は採用する。現代と江戸時代の長所を取り、短所を捨てる、と出来れば良いのですが。)

 

 現代において【新規製造物禁止令】を実行したり、消費者レベルで新規製造物商品に対して不買運動することは、けっこう有効なのではないでしょうか?

 

 

、何故、新規製造物は必要なのか?

 

 何故、不要な度を越したライトセーバーを開発し商品化するような事態が現実には起きているのか?

人々の暮らしを豊かにするのではなく、却って有害ですらあるのに。

 それは経済成長、資本主義システムの維持が目的なのだと思います。

 新規製造物が市場に現れなくなれば経済は停滞し、経済成長しなくなります。

 経済成長無しでは資本主義システムは維持できなくなるという話を聞いたことがあります。(経済成長は資本主義システムの本源的特徴らしいです。)

 かくして始めは人々の暮らしを豊かにするために登場した資本主義システムですが、いつの間にやら主従は逆転し、現在は資本主義システム維持のために人々の生活は犠牲になっております。

 

 解決策は決定版は私も模索中です。とりあえず解決策の1要素として我々個人ができるボトムアップ式のものとして【消費、即ち買い物という行動をよく考えてする】、というのがあります。

 

 消費、買い物については詳しくは別の記事【真留句以外1 買い物という名の投票】に書いてあります。 

 

 

 Ⅳ、オマケ   構造的事物     装飾的事物   について

 

 本テーマ7のⅠにおいて、時間の流れとともに 構造的商品   装飾的商品 にウェイトが移行する現象に言及しました。ここではオマケで私が思い浮かぶ、いくつかの例を書いてみます。

 

(イ)、建築物・・・・・これは昔の方が構造がしっかりしていて、後の時代になるほど彫刻などの装飾が美しくなって行きます。

 

(ロ)、ゲーム・・・・私は10代の頃はファミコンなどのゲームにハマってました。

 最近のゲームは昔のゲームに比べグラフィックも良く、ストーリーも重厚です。しかしゲームの本質は昔の方が優れていたように思えます。というかストーリーやグラフィックが貧弱であったからゲームの本質的部分が際立っていたのかも知れません。

 具体例でRPGドラゴンクエスト(以下DQ)、ファイナルファンタジー(以下FF)を挙げてみます。

 私はDQにせよFFにせよ1~3の初期シリーズが好きです。私の年齢的、世代的(ゲーム適齢期に出会った作品、ということ)なものもあるのかも知れませんが。

 グラフィックやストーリーはシリーズ中~後期のものに比べ見劣りするかと思います。(※DQ1~3のロト3部作は大局的なストーリーは秀逸かも知れません。典型例はFF1~3とFF10の比較。FF10のグラフィック、ストーリーは秀逸(特にストーリー)で1~3とはくらべものになりません。しかし、DQFF1~3の頃、レベルアップした時や、高い金額の武器、防具といった装備品を購入した時の高揚感や新しい呪文、スペルを習得した時の感動はこの頃の方が大きく、このあたりこそRPGの面白さの本質だと私は思うのです。

 後期のはストーリーやグラフィック、新システムなどの装飾的部分にRPGの構造が埋没してしまっている部分があるような。

 そしてRPGでかなり構造にウェイトがあったのは今、思えば初期のウィザードリィではないか、と思います。現代的視点から見るとRPGの構造がむき出しにされていてRPGの名作と思えます。ストーリーに重厚性はありません。ストーリー;魔除けが盗まれた取り戻してくれ。あっさりしたものです。今のRPGならこのようなイベントは全体の中の何十分の1かの部分的なサブイベントに過ぎません。それが初代ウィザードリィでは全てでした。

 最近のカラフルで重厚なゲームで育った若い世代からすると物足りないというか、単純過ぎるというか、RPGの骨格(骸骨)を見るような感じがしてつまらない、と感じるかも知れません。

 しかしウィザードリィ1~3も私がとてもハマったゲームです。様々なゲームにおけるレアアイテム入手において初期ウィザードリィの3種の神器(むらまさ、せいなるよろい、しゅりけん)を入手した時の感動を越える経験はありません。(FF3でオニオンソード、ゲットした時はこれに匹敵しましたが。)

 

(ハ)、ある種の宗教・・・・宗教においてもある種の宗教においては、時代が後になるにつれ構造、本質から離れる部分があるかも知れません。(というか後期の分派に見られる場合がありそう。)

 宗教の創始者の教えは深淵で難解なイメージがあります。

 しかし創始者の言葉、教えというのは案外、シンプルかつ実践的、具体的というケースもあるように思えます。

 後世の弟子、信者が創始者の教えを深淵、難解、難易度を高め、神秘的、抽象的、深く解釈するなど、のケースもあるように思われます。

 その動機は真摯な救道心の場合もあれば、同じ宗派の派閥争いや、他の宗教との競争においては深淵で神秘的で難易度が高そうな方が有利、あるいは布教の際に有利、という場合もありそうです。

 とはいえ創始から後の時代に付け加えられた教義、すべてが装飾的ではなく、重要であったり有益なケースも多々あると思います。

 

 ところで、私は内的な宗教の神秘体験や深淵な経験はありません。ですから、以上はあくまで【外から】見た宗教の一側面の見解に過ぎません。

 

(ニ)、クラシック音楽・・・・私はクラシック音楽が好きです。

クラシック音楽は時系列で

 

バロック古典派ロマン派近現代

 

と区分されます。バッハはバロック時代末期の作曲家ですが、【楽譜(音符)に無駄がない】

と聞いたことがあります。音符に無駄がないとは、即ち、無駄な音がない、ということなのでしょう。

 対してロマン派の音楽は美しく装飾的なイメージの曲が多いです。演奏も見栄えがするイメージありますし曲もきらびやかです。

 

 バッハの曲はある1つの同じ曲(例えば、フーガの技法)がピアノで演奏されたり、チェンバロで演奏されたり、オルガンの場合もあれば、弦楽四重奏で演奏されたりすることがあります。あるいは、別の弦楽のための独奏曲がギターやサクソフォン(あるいは別の弦楽器)で演奏される時もあります。どの楽器の演奏も曲を損ないません。特定の楽器を指定しない。これは曲の構造、音楽の構造がしっかりとしている、ということになろうかと思います。

 他方、ロマン派の曲は特定の楽器を想定している場合が多いです。ある特定の楽器の魅力を引き出す曲、特定の音色の魅力を引き出す曲といえそうです。あまり詳しくないのですがショパンやリストのピアノ曲などがあてはまるのではないでしょうか。(あまりそういう曲のの他の楽器による演奏、編曲というのを聞いたことが無いです。)

 

 ここまで書いてきまして、

 

バッハ ⇔ ウィザードリィ、(あるいは初期のDQFF

ショパン、リスト ⇔ DQ,FF 10前後  

 

というイメージの比較が出来ないこともないと思いました。

 

(ホ)、当ブログもだんだん構造的から装飾的に向かいつつあるのかも。とはいえ、写真もカラー文字もなく、文字のサイズも一定ですので、いちおう硬派といいますか、まだまだ構造的ブログであると、ある意味では言えるのかも。

 

以上、構造的に好意的で装飾的に批判的な印象を抱かせる文章であったかと思います。しかし本文の場合はさておき、オマケに関してはあくまで特徴なり、好みに関することなので優劣があるわけではないです。誤解されませんことを。

 

〇6、ポスト・コロナ、あるいはクム・コロナの目指したらいいかも的な、大きな方向性

2021、6月以前

 

、分散、ローカル、小規模

 

 分散・・・各地域で

 小規模・・・個人経営、自営業を主体としたお店、あるいは小規模な集団営業

 ローカル・・・各地域で生活圏、経済圏が成立する。

 

、ヴァーチャルはグローバルに、リアルはローカルに

(=情報はグローバルに、現物はローカルに)

 

 こうするとコロナ拡大抑制にもなる。また過剰資本主義が原因の種々の弊害が解決される。弊害というのは、自然破壊、南北格差、国境を越えた搾取、労働問題、貧富の問題などである。

 

 またこの【ヴァーチャルはグローバルに、リアルはローカルに】の理念を具現化するものとして【デジタル地域通貨】がある。

 これは従来の地域通貨に比べ効率、使い勝手がおそらく良さそうで地産地消を促し、上記Ⅰで述べた【ローカル・・・各地域で生活圏、経済圏が成立する】を実現するのに役立ちそうである。

 

 

DIY率アップ

 

 会社でフルタイムで働き、お金を稼いで分業システムとその中核を担うお金に依存し過ぎることは、国の大きな借金、病的な経済状況、さらにコロナの下でその度合いが大きくなっている現在においてはもはや得策とは言えないのではないだろうか?

 分業システムとお金をまったく否定するのも効率が悪いが、現在ある程度距離を取る事が有効であると思われる。

 分業システムから距離を置くこと、依存し過ぎないようにすることはDIY率アップ(自給自足を目指すなど)、複業によって行われる。

 なおDIYは都市部より田舎、地方の方が位置的、場所的、地形的に有利である。

 

、少しずつ現体制から移行する

 

 急な脱経済、脱資本主義システムのライフスタイルへの移行は社会的混乱が生ずるであろう。

 そこで個人、地域、会社、社会、自治体、都道府県、国、あらゆる組織のレベルで少しずつ脱資本主義、脱現体制として上記1~4のライフスタイル、システムに移行する。

 個人に関しては、この記事の別のトピック【〇Ⅳ ライフスタイルを変える際の戦略】もご参照のこと。

 

 以上の行動方針の主語は個人であっても良いし、家族、地域、市町村、都道府県、国、国の連合、いずれでも良いので各レベル、規模で上記の方針を目指して行動すれば良いと思う。

 

 

〇5、 農業という産業の特殊性・・・・農業は何故、労働の正当な対価を受け取りにくいのか?(=農業は何故、儲からないのか?)

 

 真留句はこう言った コロナ以前ー15A 人生三分の計 において真留句が「農業の特殊性をいつか別の機会にお話しする事になるでしょう。」と話していましたが、なかなかその機会が無いのでこの場で書く事にします。

 農業の特殊性というのは農業の生産する商品、すなわち農産物が不当に価格が安い事です。その大きな理由は2つあります。

 1つ目は【政治的な理由】、それから2つ目は【経済的理由、あるいは資本主義的な理由】です。

 以下、少し詳しく紹介します;

 

、政治的な理由

 

 古今東西、あらゆる政府の大きな役割は、国民の安全と食の保証です。

 後者の食の保証は食糧の安価供給によって実現されます。

 それ故、古今東西あらゆる政府は農産物の価格を安価にすることを目指してきました。

 さもなく、食糧が高価になった場合は国民の不満は高まり、一揆米騒動、暴動が生じます。

 それで食の保証の観点から、農産物が不当に安くなってしまうのはある程度仕方のないことのようにも思えます。このお蔭で我々庶民は安価に農産物、食糧を入手出来るわけです。ここ意味で農産物、食糧を購入することはお得な買い物をしているわけです。商品の実質の価格より安く買えるのだから。

 政府は生産者、農業者に対するこの不当な安さを補って補填するために農業に対しては各種助成金補助金を出しています。

 

 ところで政府は攻めの農業、儲かる農業を掲げてるわけですが、これと農産物の安価政策は相性が良くありません。矛盾してるとも言えます。

 薄利多売大量生産というのが1つ大きな解決策になります。実際、政府は農業の大規模化を政策としてるようです。しかし質と量は相容れませんから、食糧、農産物の質は落ちて行きます。

 

 以上、政治的理由で農産物価格が安くなるのは仕方のない面もあった。しかし次の第2の理由である資本主義的理由によってさらに農産物が安くなることは行き過ぎた安さを引き起こし、大きな弊害をもたらすと考えられる。 

 

、経済的、資本主義的理由

 

 労働者の賃金、給料は労働者の生活費によって規定されます。資本家は労働者の生活費が安価になれば、もっと給料を引き下げる事が可能となります。労働者は睡眠や食事によって労働力を回復させねばなりません。(経済学用語では【労働力の再生産】と言います。) 

 そのための費用が生活費です。 

 必需品である食糧、農産物は生活費の決定に大きなウェイトを持ちます。

 資本家は食糧、農産物が安価であるほど労働者の賃金をカットできて資本として手元に残せるのです。そして、その手元に残った資本は経済成長の源となります。

 このように農産物が安くある事は経済界からの要求でもあるのです。

 

  以上、政治的理由、資本主義的理由という、大きな影響力を持つ分野から農産物は安価である圧力をかけられています。平飼い卵や無肥料無農薬の野菜などは例外で影響を受けないと思われるかも知れませんが私は影響を受けると思います。他の流通商品が安ければ、やはり特別な栽培方法、生産方法で生産した商品も安い方に牽引されざるを得ないからです。

 こうしてみると、農業は必需品である農産物を生産してるのに、ひどく不利な産業であると私は感じます。

 コロナで飲食店や観光業、職業芸術が被害を受けてますが、農業は自然災害、天災の脅威に常にさらされてきました。しかも、他の産業が使用する化石燃料→CO2増加温暖化異常気象の害を農業は特に大きく被ります。

 コロナという災害が飲食業などに与える打撃をずっと農業はさらされ続けてきたわけです。(ただし、共済、保険というもので気象災害などの経済的被害はある程度、保証してもらってきたが。)

 

 もちろん価格には需要と供給の関係、生産量の関係が大きく影響を与えますが、それは他の商品、産業についっても言えます。ここで紹介したのは農業独特の事情です。

 

 

 

〇4、 ライフスタイルを変える際の戦略

 

 日頃の生活習慣などは【文章版3i 真留句リスト】に挙げた。日頃の買い物などはライフスタイルの中で枝葉的性格のような物もそこでは多く掲載した。(枝葉を軽視する訳ではない、むしろ重要である。幹は葉による光合成をエネルギー源とする。)

 他方、ここではライフスタイルのうちで大きな幹となる事柄の変更を考察する。(もちろん、あくまで1つの方法、一例として)

 

 まずは、転職や労働時間の短縮を職場に願い出て、自分の自由になる時間を確保する。

過渡戦略 半YX である。

 

ここで半YX

 

X・・・ 好きな仕事、趣味、  使命的な事業、   魂、心が欲する行動

 

Y・・・嫌々でも良いので生活費を得る為に会社勤めする仕事、アルバイト。この会社勤めの仕事は精神的、肉体的エネルギー、そして時間を消耗し過ぎない仕事にすること。エネルギーはXの注ぐようにする。収入は最低限の生活費を得れれば十分。単身なら家賃を除いて1カ月あたり4万~7万円、家族であっても10万円あれば良いと思う。あとはなるべくDIY(代表的なのは自炊。あとは家屋、配管などの簡単な修繕などを想定されたい)などで節約する。

 

である。

 

 

この半YX戦略の長所・・・

 商才や運、才能、特別な努力は不要で実行、生計を成立させる事ができる。たぶんほとんどの人が実行可能なライフスタイルと思う。

 Xの分野も生計の主なり足しになれば言う事はないが、この際Xはダメもと、一切お金にならない、収入的には宝くじみたいなものと思っておけば良い。Yで最小限の生活費を確保してXで、やりがい、働きがいを得ることにする。

 Xは例えば絵画を選択するなら、自分の趣味として絵画を描くのみでも十分である。しかし私はお金になるかならないかはどうでも良いから社会に何らかの形で絵画を公開、というよりは送り出す、といった方が良いだろうか、そういう風にするのをお勧めする。

 自宅に飾って客人の見てもらう機会を作るのも良いし、お気に入りの飲食店に継続的なり一時的にでも置いてもらうのでも良い。あなたのXの分野が社会の一部分(たった1人であったとしてもだいぶ違う。ゼロと1は大きく異なるのである。)で認められる事は大きい意味を持つ。生きがいや魂の充実という点において。

 

 不労所得で働かずに生活して行けるというのは一見、楽で理想的のように見えるが、必ずしもそうは言えない気がする。今度は退屈、倦怠、無気力、いきがい、やりがいの喪失という名の新たな敵が出現するであろう。

 

 自分の特技、好きな事物、労働、趣味に費やす時間を作ることは幸せなことである。

もし、それが他人の生活、社会に役立つ、貢献することになるならば、さらに幸福な事である。他人、社会にとっても、そして己自身にとっても。

 

 

 なお以下の田舎移住に関する部分は私自身の個人的経験によるところ大きいのであくまで参考程度に。この方面に関心のある方は他の方の事例などで統計を取られるのも良いと思われる。お尋ねしたい事あるお方はお気軽にコメント欄にお書きになられてみて下さい。

 

 Ⅰ、田舎に住む、移住する

 

 生活の中でDIY率を高めるにあたり、住んでいる場所が田舎である事は都市に住む場合に比べ圧倒的に有利である。農業により食糧の自給もある程度できるし、冬を乗り越える為や調理に必要な燃料も薪という形で入手できる。しかもカーボンフリーである。灯油やガスのような化石資源ではない。温暖化への寄与は殆どない。グローバル社会への依存度を減らし、自分の生活圏、経済圏のサークルをかなり狭く閉じさせることを可能にできる。(ローカル化)

 移住も大きな変更なので、誰しも実行可能なわけではないが、検討するといいかも知れない。

 

、田舎移住を行政に相談する時は

 

 行政に相談に行った際には割と温かく協力的に迎えられる事だろう。過疎に悩む田舎に移住してくれるのは、いろんな人、社会にとって有難い事である。

 特に、家族、夫婦、あるいはカップルの方が単身者よりも交渉の際には上手く行きやすい。それは行政相談のみならず空き家の家主との交渉など全般について言える事である。            

 地域の人口を増やす子供の移住なり将来的に生まれる子供は過疎に悩む地域にとって、有難い。

 また単身者に比べ、カップル、家族、夫婦の方が信頼性、信用性が高いのである。単身者はいわゆる【どこの馬の骨かわからない】と思われることもある、ということ。

 話を行政への相談に戻そう。単身者であっても、まずは温かく協力的に会話、相談は進み、話は盛り上がるかも知れない。田舎の過疎、人口問題、担い手問題は行政が取り組む課題であるから単身者であっても移住者は有難いのである。

しかし、移住者希望者が、ライフスタイルの核を半YXにして

 

「アルバイトで最低限の生活費を稼いで、無農薬無肥料で野菜を育てて、たくさん稼がなくてもいいから自給自足みたいな生活を目指します。」 

 

といったような話題が出ると急に、行政の担当者との会話は暗雲が立ち込め、それまでとは一変して非協力的になってしまう場合が多い。

 

 行政はある程度、税金を納めてくれる人、あるいは将来的に税金を納めてくれる人に対してでないと力を貸してはくれないのである。

 

 それで 半YX + 田舎移住 を【目指す】際は行政の力は借りないことになる。

 

 それ故、行政に相談する際は、将来的には年収500万~1000万円で大きな税金を納める事のできるプランを用意して行こう。なお、初年度年収:アルバイト50万~120万円 + X で20万円 といったなるべく現実性を帯びたプランにする事も大切。

 

 

、 田舎の住居・・・賃貸か買取か。

 

 まずは賃貸がおすすめである。数年たっても気に入ってるなら買えば良い。

 田舎の空き家と作づけしてない田畑は持ち主にとっては負債、重荷となっている場合もある。また家屋と田畑があるばかりに現在は都市部に住んでいるに地区の会費などを納め続ける事になるケースも多い。

 よって空き家と田畑を借りてくれる人は貸す人にとっては管理人と思えるくらいに、有難い存在になるケースもある。ただし借家人がきちんとしている場合に限るが。

 そうなると家賃は1月あたり5000円~2万円が妥当と思う。5000円~1万円あたりで良いと思う。あるいは維持管理料=家賃とみなせもできるので、家賃0円もあり得る。借りる人、貸す人、双方にとってwin-winの賃貸料になることが望ましい。双方とも、あまり欲張るのは良くない。

 

 またできれば水道以外の飲み水の水源もあると良い。水は重要である。

 井戸を想像される場合が多いだろうが私の知人では井戸のケースはあまりいなくて、山の湧き水のケースが多い。また井戸には一般に井戸という言葉で想像される縦穴式のもの以外にも横穴式のもある。これは湧き水に近いような気がする。

 

 公営住宅市営住宅、町営住宅など)も有効である。家賃は収入に応じてである。田舎の公営住宅は収入低いならば1月あたり1万円台、2万円台で都市の4~7万円台あるいはそれ以上の設備の物件になる場合がある。

 

 いざ、買取へ・・・持ち主にとって、家屋と田畑が負債、重荷になっているならば、あまり欲張って高値で売るのはいかがなものか?と思う。あまり足元は見ず安からず、高からず、双方に納得のいく価格になるのがいい。どちらかが大きく得をする、あるいは損をする、そういう事にならないように。その引き金となる当事者になることのないように精進されたい。邪な考えで一時的に得をしたように見えても、あとから大きな損をすることになるだろう。

 もちろん、買い取った場合、移住が失敗であったと思うようになった時には逆に物件が維持管理が必要な負債に化けてしまう可能性もある。無料でもいいから誰かに住んでもらって維持管理してもらいたい、ということになる可能性もある。

 そういう事もあるのだから家主との交渉の際には家主の視点に立つことも有効である。しかし足元を見過ぎてはいけない。あくまでwin-winを目指そう。

 

、地区行事、役員・・・けっこう頻繁にあって時間を要する。

 

 一人暮らしで多忙な方は注意を要する。

 地区行事は参加が任意の場合が多いので重要度の高い農作業系の共同作業などは参加することにして、枝葉的なものは適宜、時間的に厳しい場合は不参加にするとか調整されたい。そういうのが好きなら参加するに越したことはない。

 地区行事は何とかなるとしても地区役員が当たった場合はなかなか大変である。新参者には周ってこないケースも多いが例外もある。そういうのが好きな方は問題ない。

 特に一人暮らしで【人生三分の計】という兵力分散の愚を犯している方は家事も入れて兵力を基本4つ(家事+アルバイト+農業+X)に分散しているはずであるが、地区役員を入れるとに5つに分散する事になる。これは1日1食すら食べる暇がなくなる可能性もある。過労死の可能性もあるので地区役員の当たった年度は農業なりXなりをお休みして乗り切る事になる。(家事と収入になるアルバイトは省けないだろう。)

 

、周囲の田畑はきれいか?・・・草ぼうぼうの田畑が周囲にある場合。他方、草がきれいに刈られている田畑が周囲にある場合。後者は朝早くから草刈り機のエンジン音が目覚まし時計となって案外、都会以上に騒々しいというケースもある。他方前者の場合は基本静寂であろう。作づけもされていないからトラクターやコンバインのエンジン音が鳴る事も滅多にないだろう。このあたりのこともあってまずは賃貸がおすすめである。

 

 生活同盟

 

 基本戦略は脱分業システム、DIY率アップだが、さすがに限界もあって効率が悪い。

 そこで知人、友人が有機農業、無農薬栽培、自然栽培、自然農、平飼い畜産などをやっていたら、積極的にそういった生産物を購入するようにする。

 知らない人がそういう事をしていても、それらを購入していく。そのうち知人、友人、仲間になるかも知れない。

 逆に自分が何か農産物、大工作業、事務作業、音楽、絵画、芸術、教育、などなど何か他人に貢献できることがあったら仲間うちに貢献して行こう。

 これはお金を介してでも、お金ではなく信頼、信用にもとづくものでも良い。

 

 そういった生きる上、生活するうえで必要なこと、ものを交換、贈与、享受する仲間、同盟をつくって、だんだん小規模から大きくして行く。

 基本、ローカル、近距離が基本だが、一概には言えない。

 こともの(事物)が現物系ならローカル、こともの(事物)が情報系ならばグローバルでも良いだろう。

 

 現在は昔に比べIT技術の発達で情報、連絡のやり取りが容易である。これは現代のメリットである。

 生活同盟、あるいは生活共同体の中での情報、連絡のやり取りもやり易い。

 

 

〇3、 真留句の法則

 

 真留句の第1法則・・・いろんな事柄は現代的であるほど平時は効率的であるが、災害トラブルには脆弱である。他方、事柄が原始的なほど平時は効率は悪いが災害トラブルには強い。あるいは原始的なほど災害トラブルは起きにくい。

 

例1、木を伐採する際、現代的なチェーンソーと、原始的なノコギリの比較。

 ノコギリ、チェーンソーともに滅多な事では壊れないが、チェーンソーが壊れると厄介である。程度にも寄るがなかなか修理は難しい。この事例は典型的で一般に効率の良い現代的なシステムの方が複雑なのでトラブルの際の修復も複雑、困難になり易いのである。

 

例2、大雪の際には、最も昔の形態は熊のような冬眠に近い生活であったので出勤する必要もなければ道路を除雪車で大掛かりに除雪する必要もない。

 ひと昔前なら個人経営、自営業が多く、自己判断で大雪のため休業の決定を自己判断、自己決定できた。また従業員も近所、地域の人であるケースが多かったから通勤も近距離で済んだ。(昔になるほど生活圏、経済圏が狭く閉じていた。)

 他方、現代は大雪でも出勤せざるを得ない場合がある。現代、資本主義社会は網の目のように繋がったしがらみ社会でもあるから、誰かが抜けると、ある会社が休業になると、社会全体が機能しなくなる可能性がる。故に休みにくく災害級の大雪の中でも出勤せざるを得ない場合があり、またそれが渋滞などの2次災害を生ずる場合がある。

 

例3、江戸時代のライフスタイルの方が、コロナには対応し易いだろう。(鎖国、経済システムなどの社会システムについて。科学技術、医療知識などが同じであって単に社会システム、ライフスタイルが江戸時代的であったなら。)

 

例4、鳥インフルエンザの影響下では現代的な集合密集大規模な養鶏場は不利である。他方、前時代的に一家に1~数羽、鶏を飼っている状況の方が鳥インフルエンザも蔓延しづらく、かつ対応も容易である。

 

 

 真留句の第2法則・・・災害トラブルが生じた場合は、いろんな事柄について現代的手段が放棄されざるを得ず、替わりに原始的な手段が採用される。

 

 真留句の第2法則の系・・・・災害トラブルの対処には原始的な方法、昔の方法がトラブル解決の手段として有効な場合がある。

 

例1、先の大雪の例。バスに乗っていた人が大雪の渋滞、まったく進まなくなった際に途中下車して原始的な移動手段である徒歩に移行する事がある。

 

 

例2、コロナ下でのいろんな対応策

 

 外食が減り自炊が増えた。自炊は外食に比べ前時代的行動である。

 コロナ下、企業が複業を推進し始めた。複業は資本主義的、時代的に原始的な形態である。他方、専業、分業は現代的な形態である。

 

例3、真留句の主張は以下である;コロナや過剰資本主義がもたらす今日の災害的トラブルの下では一般にいろんな事柄、ライフスタイルを昔のもの、昔の形態を参考にしてトラブル対応すれば良い。

 

 

〇2、社会の病としてのコロナ

 

 コロナは人間個人が罹患する病であると同時に社会が罹患する病とも言える。

 コロナ対応には社会システムの修正、方向性の変更が必要な気がする。

 それは人間個人に置き換えるならば、あたかも温室育ちでひ弱に育ったもやしっ子が体質を改善し頑健な心身に変わるために、昔の日本人のライフスタイルや資本主義が進み過ぎてない、途上国の人々のライフスタイルを真似るのが類似例になるかも知れない。

 病にかかりづらく、そして病にかかったとしても、重症にならずに回復する体質へと自己を鍛えるのである。

 

 同様に社会システムや我々個人の生活も全体として(個々の例外はあろうが、大数として、また個人の生活のうちの割合として)、真留句が述べているような【昔の頑健なライフスタイル、社会システム】をある程度、真似る、参考にする、取り入れると良いと思う。

 

 

〇1、 目指すべき社会、理想の社会のバロメータ

 

 現在、生産者 < 消費者 、即ち消費者優位である。「お客様は神様」という言葉がこの事を象徴している。これはきっとバランスを欠いた状態なのだろう。

 

 目指すべき社会、理想の社会においてまだ生産者と消費者の区別があるとすれば、その目指すべき社会が実現した折にはきっと生産者と消費者が対等となるようなバランスになっていることだろう。

 

消費者優位である理由;

 

、商品がバランスを欠いて溢れているため。(但し、商品の質は悪い)これは資本主義が効率良く商品を大量生産できるからこうなる。

、お金が力を持ちすぎている。分業が進み過ぎた故に、生活する際に他者、社会に依存する割合が高くなった。社会との取引はお金を通じてなされる。お金が無いと生きて行けないのである。

、購買活動は選挙における投票の如き性格を有するが故に生産者(=お店側)は投票者たる消費者(=お客さん)に下手(したて)に出ざるを得ない部分がある。

 

それゆえ、この消費者優位のアンバランスの是正は

 

、良質の商品を多過ぎない適度な量で生産する事。(手作りの良質商品はそもそも大量生産できない。)そして良質の商品が大量生産の魂の抜けた商品よりも選らばれるようになる事。

DIY力を高め、分業への依存性を減らし、独立性を高める。それはまたお金からの独立性が高まる事も意味する。

 

によって行われる。

 

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ブログ案内

 

〇 【真留句はこう言った】は河流 真留句 (カワル マルク)の物語です。

 

* 当ブログはseesaaブログにもほぼ同じ内容、文章があります。はてなブログseesaaブログも、どちらも無料版でブログ書いています。seesaaブログの方が無料版の記事のカテゴリー分類の見通しが良く、記事の分類が整理されていて、記事を探し易いと思います。それ故、seesaaブログのをお読みになった方が良いかも知れません。

「真留句はこう言った」で検索お願い致します。

 

〇 【真留句はこう言った】は【解説版】と本編の【物語版】に分けられています。

 

 

〇 おすすめ記事

 

 解説版ならば、

 

【要約 真留句はこう言った 解説版1

 

 これはこのブログ全体の幹、中核をなす考えが書いてあります。まさに要点です。

 

 物語版ならば、以下のいずれか

 

【真留句はこう言った コロナ以後3 そば処 あるまんど Post coronam

【真留句はこう言った コロナ以前ー15A 人生三分の計 Ante coronam

【真留句はこう言った コロナ以前ー7 コロナ以前 月と700円 Ante coronam

 

なお、文章版をより好むタイプの方と、物語版をより好む方がいらっしゃるようです。

ご自分の好みに応じて上記のいずれかをお読み下されば幸いです。あまりこの手の事前説明を読むのを好まれない方は、これ以上、この事前説明を読むのを止めて上記のおすすめ記事のいずれかを読んでみて下さい。

 また、専門用語や難しい言葉はなるべく用いないようにしてるつもりですが、やはりところどころに専門用語や難しい単語が出てくるかも知れません。しかし、比率としては専門用語は少ないので文脈から意味が判別できるか、あるいは判別できない場合は、その意味の解らない単語は無視すれば良いです。それでも文章の大意は理解できるので大きな障害にはなりません。

 

さて再び、長い説明に戻ります;

 

 さらに【物語版】はコロナ以前とコロナ以後に分けられていて、【コロナ以前ー7】、【コロナ以後5】のように整数(実数)でラベリングされてます。負の数はコロナ以前、正の数はコロナ以後となります。

 1つ1つのお話はある程度独立していて他の話を読まなくても読める内容になってます。しかし、物語の内容によっては深い繋がり、関連のある話もあります。特にコロナ以前とコロナ以後で同一人物が登場する場合、それらの物語は関連がある場合が多いです。

 

 

 

〇 時系列

 

 なお時間の順序もあまり気にせず読めます。物語の中の時間順序はいちおう、【コロナ以前ー7】、【コロナ以後5】のように数字で示されてます。数字が小さい方がより過去で、大きいと後の話になります。

【コロナ以後】に関しては数字が大きい方がより未来の出来事です。

他方、【コロナ以前】に関してはー7(マイナス7)などのようにマイナスつきの負の整数が書かれてますのでマイナスの後の数字が大きいほど、より過去の出来事となります。

 

例; 【コロナ以後3 そば処あるまんど】と【コロナ以後5 熊の冬眠】では【コロナ以後5 熊の冬眠】の方が後の出来事です。

 

 【コロナ以前ー15 人生三分の計】と【コロナ以前ー3 整理整頓】では【コロナ以前ー3 整理整頓】の方が後の出来事です。

 

〇 解説版について

 

 手っ取り早く、コロナ対応や温暖化抑制、持続可能のための具体的な行動を知りたい方は【真留句リスト 真留句はこう言った 解説版3】と、買い物、労働の指針が書いてある【真留句のことば 真留句はこう言った 解説版5】をお読み下さい。

 

 要約 真留句はこう言った 解説版1・・・・要約が書いてあります。だいたいの概要が書いてあります。

これを読むと【真留句リスト 解説版3】や買い物、労働の指針が書いてある【真留句のことば 解説版5】の行動が何故、有効なのか、の大雑把な理由も分かります。 ブログとしては長いですが、本に比べると短く、読むのも楽だと自分では思っております。

 

 

 真留句リスト 解説版3・・・・これは、【要約 解説版1】では書ききれなかった、なるべくたくさんのコロナ対応や温暖化抑制、持続可能のための具体的な行動を網羅的にリストの形で書いたつもりです。【真留句のことば 解説版5】も内容は重複しますが、よろしければ合わせてどうぞ。

 

 文章版4i 断片・・・・これは、物語や正式に文章版になる前の考えが書いてあります。アイディアスケッチ、2軍、予備的意味が強いです。しかし大切な考えが書いてある場合もあります。

 

 【真留句のことば 真留句はこう言った 解説版5】・・・・真留句が語った、買い物、労働といった経済活動における消費活動、生産活動における指針が書いてあります。

 もし、釈迦やキリストが現代を目の当たりにするならば、経済活動、消費活動(≒買い物)、生産活動(≒働くこと)に関しても何らかの言及をするはずだと思います。

 この記事では、それに近い内容をなるべく再現する事を目指します。

 これも読み易い記事だと思います。

 

 

〇 河流 真留句 (カワル マルク) プロフィール

 

40代の日本人、男性、

 アルバイトで得る僅かな収入で常に経済的にギリギリの生活を送っているため、【経済界のサバイバー】の異名を持つ。また万年フリーターなので【フリータム】あるいは【フリーダム】と呼ばれることもある。

 また、名前から共産主義者であると勘違いされることもあるが、彼は共産主義者ではない。

 しかし、現在、人類が抱える問題の元凶は「行き過ぎた資本主義」にあると思っている。行き過ぎた資本主義のバランス、調和、均衡をとるには、どうすれば良いのか、解決の道を探す旅に出る。

 解決の現実的な方法が見つからないまま年月は流れる。

 原発事故が起きても、異常気象がひどくなっても、経済活動は、その歩みを止める事は無かったのである。

 しかし、コロナで、その歩みを緩める事になる。

 

好きな音楽;対位法的な音楽

その理由はフーガを聴いている間は現実逃避できるから、とのこと。

 

あとベートーヴェンピアノソナタ17番、2831番も好きらしい。

 

好きなゲーム;

 

(初代)ゼルダの伝説スーパーマリオブラザーズ 

> ドラクエ3、FF3(どういう訳か3が好きらしい。)、サガフロ

> ドラクエ1、FF1ロマサガ2、サガ1、サガ2

> ドラクエ2、FF2 、ロマサガ1、アンリミッテドサガ

> ドラクエ4、5、FF

> FF4、5

 

の順で好きらしい。数字が大きいのはやらなくなった。

ウィザードリィ、ヴァーチャファイター(晶を使ってたが、強力な投げ技は習得できず、肘と背中に頼る)、スト2も好きだったらしい。

サガシリーズ全般が好き。(ゲームボーイロマサガサガフロンティア、アンリミテッド)

 

特技:あらゆる楽器を演奏することができる。但し、曲目はジョン・ケージ4分33秒に限る。

 

好きな食べ物;カレー、チャーハン、餃子、ラーメン、コロッケ、猪汁、熊汁、漁師鍋、チャイ

 

 

 

〇 文章の手直しについて

 

 物語、文章はけっこう荒削りなまま載せてます。後になってから、けっこう手直し、微調整(≒改訂)すること多いです。その際、編集という形ではなく、一度削除してから、新たに再投稿する、という形でやってるからです。

 

  筆者も真留句同様にボンビーで自宅のパソコンにインターネット環境なく、オフライン作業してます。パソコンで文章作成  スマホにコピー  スマホでアップロード

という苦肉の策で投稿してます。

 手直しもパソコンでやってますので「編集」ではなく、「削除再掲載」という形で手直しすることになります。

 

  また、特に読者登録して下さってる方には、同じ題名の記事の新規アップロード通知が何度も届いて紛らわしいかと思います。ご面倒おかけします、すみませんがよろしくお願い致します。

 

 

 

真留句のことば 真留句はこう言った 解説版5

真留句のことば 未完成版

 

 

〇 買い物(≒消費)の部 

 

 1.なるべく近くで作られた商品を、なるべく近くのお店で買うこと。

 

※ 近場の商店で購入できる物(例えば本など)を大手ネット通販で購入するのは避けたい。しかし近場で入手不可能なものは順次、遠方から入手せざるを得ない。

 また反資本主義的商品、即ち手作り品や無農薬栽培の農産物、環境負荷の低い商品といったものは生産者の偶然近場に住んでいない限りは入手が困難なのでどんどんネット通販を利用すれば良いと思う。これはネット社会のプラスの側面である。

 なお今後、こういった例外事項みたいなのは毎回、筆者が気づくとは限らないので言及抜けしてる場合も多々ありそう。そんな時は適宜、都合の良いように例外の場合などを解釈する事を読者に委ねる。

 

 

2、買い物の際は衣料、農作物、家屋、魚、狩猟、林業、畜産など一次産業の商品にお金をかける。

 

 

3、半Z半X・・・Zは2の1次産業的業、Xは1の自分の魂が命ずる業。

この半Z半Xにおいて他人のXを購入すること。(もしその商品が必要であって、他と商品と選択において競合する事があった場合)

 

  1. 4.made in Japanを買おう

 

  1. 5.長年、地域の生活を支えてきた地元のお店で買い物しよう

 

  1. 6.自分が働きたいと思うようなお店で買い物する事。自分が働く側にとても立てないような労働環境のお店では買い物しないこと。→ブラック企業の商品やサービスはボイコット、不買運動しよう。現代風に言えば、そう翻訳できるかも知れない。

 

  1. 7.どのようにして楽にカネ儲けをしようか、などと考えている暇があるならば、その時間と努力を商品の本質を見抜く眼を磨く事に費やすこと。生産者が商品にかけた手間と時間と努力を的確に判断できる眼を養うこと。

 

8、生産者が心を込めて、生きがいを持って生産している商品を買うこと。その商品は汝を幸福にし、また汝も生き甲斐をもって働ける仕事を持つことになろう。

 

10、買い物の際に適正な価格で購入する者は、働いた際にも労働の適正な対価を得られるようになる。

買い物の際に適正な価格で購入しない者は、働いた際にも労働の適正な対価を得る事が出来ない。

 

  1. 11.価格のみに心を捉われてしまわないこと

 

  1. 12.思慮なく貪欲な消費者の口は、労働者たる自らの尾を喰いつくしてしまう。

   ウロボロスの如くに

 

  1. 13.資本(主義)の貪欲な略奪運動のエネルギー源は、消費者のより安くて、より便利な商品を、より便利なお店で買おうとする個々人の欲望の集まりである。

(※ 資本の略奪・・・自然環境、資源、人間性の略奪を指す。)

 

  1. 14.ネット通販や量販店に比べ豊富ではないし、便利でもない。安くもない。

   それでも近所、地域の個人営業、自営業の小規模なお店で買い物せよ。

   それらのお店は十分、豊富であるし便利で適正な価格ではないか。それを不便で品揃えが少なく高いなどと言う者は、いくら食べてもまだ足りないと言って、飽く事なく食べ続け身体を悪くしてしまう者を笑う事は出来ない。 

 

 

 

 

〇 働く(≒生産)の部 

 

  1. 1.自分の魂が命ずる事に時間を費やすこと。

 

  1. 2.衣料、農作物、家屋、魚、狩猟、林業、畜産など一次産業を複業にする。

 

  1. 3.半Z半X・・・Zは2の1次産業的業、Xは1の自分の魂が命ずる業。

この半Z半Xにおいて自分のXを尊重し、また他人のXをも尊重すること。

 

  1. 4.機械はあまり使わず手作業しよう

 

  1. 5.手間を惜しまないこと。機械に頼り過ぎないこと。機械、効率に頼ることはある程度まで。行き過ぎに注意せよ。

 

  1. 6.自営業者達よ、汝らの商品は問題がない。大規模なお店、量販店、チェーン店を見習う必要などない。

 しかし、自営業者の何割かは接客、サービスにおいて量販店、チェーン店の接客、サービスを参考にすると良いであろう。もしお客に逃げられたくないのならば。

 

  1. 7.買った人を真に幸せにする商品を生産する者は、その労働を通して自らを幸せにする。

 

  1. 8.まだ技術が未熟で経験の浅い職人、生産者は、気持ちだけは一生懸命に生産活動に励むこと。その生産活動がもたらす商品は消費者も悪い気はしないだろう。

 ベテランの職人、生産者は慣れに油断することなきよう。経験が傲慢の気持ちを作るならば、その生産活動がもたらす商品は技術が十分であったとしても、一生懸命に生産された初心者の商品よりも嫌われる。

 

 

〇 その他

 

  1. 1.汗とともに、体の老廃物と、心の老廃物は外に出る。

汗をかかずにいるならば、やがて体の老廃物はたまって、体の病を引き起こし、

やがて心の老廃物はたまって、心の病を引き起こす。

 

 例:体の病 ⇒  アトピー性皮膚炎、アレルギー症状、成人病、各種病のリスク(心筋梗塞、ガンなど)

    心の病 ⇒  精神病、うつ病など