真留句はこう言った

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真留句はこう言った コロナ以前-25 真留句の序説 Ante coronam

すべての人のための

しかし

だれのためでもない

ブログ

 

 

真留句の序説

 

 真留句は35歳にして、それまでに会社で働いて貯めたお金を抱えて田舎に籠もった。

そこで彼は質素倹約生活を送り己の孤独と貧乏生活を楽しみ、10年の間なんとか生活していた。だがついに、彼の現金は底をつき始めた。ある日彼は、もはや紙幣のなくなった財布のうちの硬貨を見つめると、硬貨に、すなわちお金にこう語りかけた。

「おん身、人の創りし偉大なる創造物よ!人の身の誰もが恋焦がれる創造物よ。しかし、もしおん身が、商品と交換できないとしたなら、誰もがおん身と持ち物の交換を拒否するとしたなら、おん身の偉大さとはいったい何であろう!

 見よ!私の財産は底をつき始めた。しかし、私の知恵は、認識は、財の減りと共に、さながら蒔きすぎて密になり過ぎたそば畑の花のように頭の中を満たし、あふれ出ようとしている。私には、おん身を求めて差し伸べられる手の如くに、認識を求めて差し伸べられる手が必要なのだ。 

 私は人間のうちの富裕者が再びおのれの貧しさを、そして私の如くに貧乏人たちが再びおのれの富を喜ぶまでに、惜しみなく贈り、分かち与えたい。

 それには、私は布教みたいことをせねばならない。さながらおん身を得んが為に托鉢をする修行僧の如くに。

 私はおん身と同じようにたくさんの人々の手を渡り歩かねばならない。

 されば、私を祝福せよ。どんな大きな幸福にもどんな不幸にも立ち会ってきたおん身、冷静沈着な眼よ!

  今まさに収穫されようとするそばの実を祝福せよ。それより前の時期、畑がそばの花で彩られる頃、飛び回る蜂さながらに、おん身の本質をあまねく運び伝えるようにと!

  見よ!この畑は再び土だけとなり、雑草だらけになるだろう。そして真留句はふたたび世人に戻ろうとするのだ。」

こうして真留句の田舎生活はピリオドを打った。

 

 

 真留句はただひとり田舎を出て、何人も彼に出会う者はなかった、否、車とは 何度も 、すれ違ったが生身の人とは出会わなかったのである。彼はかなりの日数を歩き、ついに街にたどり着いた。彼は歩くことと自転車をこぐことにかけては自信があったのだ。

 

そのうち、質素な身なりの老人が話しかけてきた。

「私はこの男に見覚えがある・・・・・お前は真留句ではないか?かなり以前、さながら浮浪者だか悟りを得た幼子さながらに山奥に向かっていったのを覚えている。そのような者が再び、この騒々しい都市にやってきて、いったいどうしたというのだ?」

 

「私はかつて会社に勤めてお金を貯めました。そして念願の田舎生活をするために退職して中山間地に移住したのです。しばらくは静かで時間と心にゆとりのある生活を楽しみました。しかし、ついに蓄えの貯金も底を突き始めました。

それに、数年経つと、山の生活も街における生活と同じくらいに騒々しく、心や時間にゆとりがなくなることに気がついたのです。」

 

「そんなことはなかろう、農村は静かで空気も水もきれいであろうに。眺望もいい。」

 

「はい、確かに。私の住んだ農村はそれはきれいな水田が広がっています。棚田なのです。夜は月もきれいで、蛙や虫や風が天上の音楽を奏でます。グールドもこの蛙や風の歌はきっと好むであろう、そのようなものです。

雑草のない、きれいな棚田というものは農家の努力の賜物です。しかし往々にして刈り払い機の騒音と、刈った雑草を燃やす煙の賜物であることも多いのです。

しかし我が隣人たちはセンスが良く、勤勉ながらも刈り払い機を使うべき時と、使うべきではない時とをわきまえています。

 

雨上がりの朝の何とも形容しがたい神秘的な朝。湿った空気はもはやエーテルと言った方がいいくらいで、そのような大気に包まれ、鳥のさえずる声が聞こえる朝。

 

 我が隣人たちは、そのようなかけがえのない時間や空間に草刈りをして、神の恵みを台無しにしてしまうような人はいません。

 しかし、野暮な誰かがうっかり勤勉に刈り払い機のエンジン音を立てて、そのような時間と空間を台無しにしてしまうことが稀にあるのです。そうすると感性ある我が隣人たちも諦めて、野暮な勤勉な者に続くことにして仕方なく勤勉にエンジンをかけるといった次第なのです。

そのような素晴らしい自然環境と隣人にも恵まれた私だったのですがお金がないばかりに、その土地を去らねばならなかったのです。

 

ところで田舎暮らしというのは単身者や核家族には大変なこともあるのです。

3世代の家族がいれば、私と同じ年頃の夫婦は会社勤めし、現役を退いた祖父世代が農業や地区役員を担い、祖母が家事をする。そのようにして中山間地の生活は成り立つのです。私のように単身者や核家族には時間や心のゆとりが足らないのです。会社勤め、農地の管理、家事、そして地区行事、これら34人がかりでする作業を、1~2人でせねばならないのです。時間や心のゆとりは、このような街のアパートに住んだ方がまだあります。田舎暮らしはいろいろとやることが多いのです。田舎の市営住宅がいいかも知れません。」

 

「あなたは、まだ過疎がそれほど進んでいるわけではなく、地区行事もさかんな地に移住してしまったのではないか?中途半端な土地ではなく、もっと過疎の進んだ土地ならば地区行事もそれほど単身者や核家族の生活の負担になるほどではなかったろうに。」

 

「あぁ、なんと察しのよい方だろう、このような街中にいて、それほどの推論をなさるとは。確かにあなとの言う通りだろう。ところで、世の中があなたのように目が利く人ばかりなら、市場も世界もこのようではなかったでしょう。商品が備える諸々の属性のうちで誰であっても目利きとなり判断できるのは値札に明示された価格くらいなものです、198円、といった類の。その他の商品の属性、とりわけ、その本質はホームズやあなたのような目利きにだって、常に正しい判断を下せるとは限らないのです。それ故、誰もが目利きになれる明示された価格という商品の属性が今日の資本主義社会においては他の属性から抜きん出るのです。そして少数の目利きにしか判断できない商品の本質という属性は脇に追いやられるのです。価格という属性、そしてもちろん安いという方向にすべての商品は牽引されるのです。かくして今日の市場には、安くて、品質はあからさまに落第点でなければそれで良しとされる商品があふれるのです。職人が経験と手間と魂をかけた高値商品は選挙で落選します。誰もが、わかり易いキャッチコピー、すなわち価格で投票先を決めるのです。

 かくして、【悪品は良品を駆逐する】といった次第で、現在、世の中、市場(しじょう)には悪品が幅を効かせているのです。」

 

「目利きと褒められるのは、この年をとった身にもうれしいことだ。だがしかし、残念ながら、あなたの話の後半は難しく、よくわからなかった。しかし、お金に関することだということはわかる。このような都市においてはお金がなくては生活できない。」

 

「田舎でもやはりお金は要ります。ある程度までは自給自足もできますが。」

「お金は信頼できる下僕だ。お金をいろんな商品に替えることで私は生活してゆける。お金は人と違って私を裏切らない。」

真「まさしく、そのお金のことなのです。私が再び街にやってきたのは。お金の姿が、本質をつかめたとは思えないのですが、私がわかったことをあなた方に伝えに参ったのです。」

「何を今さら。先ほど私が言ったように、お金は物と交換するためのもの。そして我々人間の忠実なる下僕なのだ。我々人間が創造した商品の交換をし易くする潤滑油なのだ。私は今は年金生活だがあなたくらいの年の頃は勤勉に働いてお金を錬金したもんだ。そうして汗水たらして働いたお金は使う時も慎重に考えて使うようになる。いい商品にしか錬金しない。楽して稼いだあぶく銭は往々にして、くだらんことに錬金をしてしまうものだ。」

 

「さよう、私もそのように感じます。」

真留句はそう言って合槌を打った。そして老人と笑みを交わして別れた。

 

 

それから、しばらく真留句は街を歩いてから公園のベンチに腰かけた。

そして独白した。

「何ということだろうか!かの勤勉だった定年退職者は都市にいて気がつかなかったのだ

。人が金(カネ)の下僕、奴隷となってしまったことを!。」

 

先ほどの老人は善良なる労働者にして消費者だったようだ。確かに彼の話の後半、楽して稼いだお金はくだらぬことに浪費してしまう、という部分は頷ける。しかし、前半の【金(カネ)は人の下僕なり】という部分にはひっかかる。わが師ゾロアスターは「神は死んだ」と言った。そして空席となった神の地位に就いたのは金(カネ)であったように思われる。中世、神がまだ壮健でありし頃は世界中が神を話題にしていたであろう。その如くに、今日、我々は金(カネ)について話題にしている。また、かつて音楽というものは神への捧げものあったのに、今日ではお金に捧げらる始末だ。

 

金(カネ)が神になったからには、人は金(カネ)の下僕、奴隷なのではないか?

人は神の下僕なのだから。

 

 少子高齢化の現代において人がこの世に生まれてくるのが望まれるのは、金(カネ)と経済活動を維持するためではないか?

 

 いつの間にか主従が逆転している。かつては、確かに金は人の下僕であったろう。しかし、このような主従関係、力関係は時間が経つごとに力が一方から他方に移行して、関係が逆転することが多いものだ。原初は商品を作る為に企業があった。しかし今日は企業を存続させるがために新しい商品が作られる始末だ(しかし需要は低い。需要を誘発することで販売するのだが。)。しかし金(カネ)が全知全能なる善良なもののようには、この真留句には思えない・・・。

 ここで思い切って師ゾロアスターの如くに「カネは死んだ。」と言ってもよいのだろうか?確かにそうかも知れない。

 

 山暮らしで幾つかのものを自給自足してみてわかったことがある。味噌や米や野菜は自分で育てた方が美味しい。というか本物である。市場に出回っているのは高いこだわり商品とはいえ所詮お金で買えるものは本物足り得ない。そのように感じれる部分もあった。

 

 しかし、私が山を降りたのは他ならぬこの金(カネ)が無くなったからではなかったのか?金は無力ではない、死んではいない。それどころか最盛期を迎えているのかも知れない。しかし、、金(カネ)もいずれは死ぬのではないだろうか?

だとすれば、どのような経緯を経て、どのような形で死を迎えるのだろう?

お金があっても物は買えない、そんなことが果たして近いうちに起こりうるのだろうか?」

 

真留句はこのように、言った。

 

 

(真留句の序説 おしまい )