真留句はこう言った コロナ以後7 月と700円 Post coronam
※ この記事は【真留句はこう言った コロナ以前-7 月と700円】と対をなしております。先にそちらご覧下さい。
※ 関連記事 【真留句はこう言った コロナ以前ー7 月と700円】
【真留句はこう言った コロナ以前ー15A 人生三分の計】
上記、両方を読んでから本記事を読むのが良さそう。
以下、本文;
夕刻。
コロナの後の秋、再び、真留句は友の下へ向かう。
山路は夕刻も美しかった。しかし、それでも真留句は夜の方が好きであったのだが。
街に近づく。今回は例の秋祭りの日を避けるために入念に計画を立てるつもりであった。しかしその必要は無かった。
聞けば、今年は中止となったらしい。コロナの影響で、である。
今回は街はひっそりとしていた。観光客どころか街の人にもほとんど会う事がない。しかし時折、車が通る。
人気(ひとけ)の少ない街。これが普段のこの街の姿なのだろう。
真留句が人通りのない町を歩いていると、どこからか、聞き覚えのある三味の音が聞こえてきた。
昨年の秋祭りで聞いた民謡である。三味は素朴な音色であった。何故だか、前に友の下を訪れた際、途中の山路、かの月の世界で聞いた虫のか細い旋律を思い出した。
真留句が歩くうちに音はだんだんと大きく聞こえるようになって来た。音の源に近づいているのである。
そのうち胡弓も加わる。
真留句は音の出ている建物の前で立ち止まった。
【東町公民館】とある。
真留句は眼を閉じて、この民謡に耳を澄ました。
三味と胡弓だけ。人の唄はつかない。今回は楽器のみの編成なのだろう。
この建物の前に佇むこと、どのくらいの時間であったであろうか。
1年前は、それほど心を曳かなかった民謡であったが、今のこの音は心を捉えるものがあった。
秋祭りが中止になっても、なお三味、胡弓、唄、そして踊りの稽古に励んでいるのであろうか。
各地の祭りのみならず、演奏会、演劇、舞台を始めとするいろんな芸術の分野がコロナで活動の中止を余儀なくされた。
しかし、真留句にとっては、観光客でごった返していた1年前よりも今の方が街の民謡に触れる事が出来たように思われた。
町を歩いていると、他の町内の公民館からも三味や胡弓の音が聞こえた。三味や胡弓に加えて唄も聞ける場合があった。逆に人の唄だけの時もあって興が乗った。
また1軒のみであったが民家から三味の音が出ていたのだが、これこそ我が意を得たり!という音であった。
これがこの街の日常だというなら、なかなか風雅な街である。だが不思議なものだ。俗な祭りのための日頃の稽古が俗を脱してるのだから。
そういえば、昨年の明くる朝に友から聞いたところによれば、街の踊り手や唄い手達は一晩、夜が明けるまで踊りつくし、唄いつくすとのこと。そこまでつき合う観光客も少なかろうし、そもそも踊り尽くした先には、疲れ果てたトランス状態で観客がいようがいまいが意に介さない境地に至っているのやも知れぬ。そう考えるなら、観衆の多寡にこだわっている私など、まだまだ修行が足らぬ。
真留句が公民館や三味の民家で長い寄り道をしたせいか、辺りは夜になっていた。
そして友の下を訪れる。またしてもクラシックの練習曲らしきピアノの音色が聞こえてきた。今もやはり不味い演奏で子供の練習のようであった。
1年前は割と耳を澄ましていたが、今回は早く、この演奏から逃れたい気持ちにかられたので、呼び鈴をすぐに鳴らした。
曲が区切りの良いところまで奏されると、音は止んだ。それから、しばらくしてから戸が開いた。
竜一「遠いところ、よくぞ、おいでになられました。中へお上がり下さい。」
真留句「お邪魔しますぞ。」
真留句は中へと案内された。
竜「今、お茶を淹れます、お待ちください。」
そう言って、竜一は部屋を出て行った。
キーボードの譜面台に開かれた楽譜の表紙をキーボードの裏に回って覗き込む。
バッハ クラヴィーア小曲集 とあった。
しばらくして竜一がお茶を持って来た。盆の上には湯呑が2つ、2つの深さのある器には、かき餅が盛られていた。
真留句と竜一はお茶を呑んだ。夜更けにつき、ほうじ茶のようである。美味しい茶であった。真留句はかき餅も食べた。
真「秋祭りは中止となったそうだが。」
竜「ええ、そのようですね。」
竜一はそう応えたが後が続かない。やっぱり竜一は秋祭りには関心が無いようである。
この友にとっては、例の秋祭りが開催されようが中止になろうが、そして現在のところ祭りの時だけで済んでいる観光地化が常のものとなったとしても、心をかき乱される事はないだろう。
真留句は、先刻、公民館の前で聞いた誰の為にでもなく奏されていた唄や踊り、民家で自分の慰みのために鳴らされていた三味が、観光客のために、あえて奏されるようになるのがこの街の【常】に変わってしまうならば、と考えるとゾッとするのだった。(まあ、たまにならば良いのだろうけれど。)
真「ピアノの方はいかがなものか?」
竜「相変わらずです。年ですし、なかなか身に付きませんし、練習時間も思うようにはとれません。日暮れて道遠し、というやつですね。」
コロナは友の芸術活動は妨害しなかったようである。そういえば、コロナ下になってから楽器(電子楽器含む)がよく売れているとの事。コロナは、おカネにならない芸術を嗜む愛好家に関してはその芸術活動を促進しているようだ。
芸術の行為者と観衆とが分かれておらず、一体であり同一人物であった時代。それは芸術が観衆にとって外からやって来るのではなく、内から生じて来るような時代でもあった。コロナは、そのような古き良き昔の形態へと人の世の芸術を押し戻しているようである。
そういえばコロナは1次産業のような贅沢ではない商品の生産活動も妨害しなかった。自ら行為する芸術というものもコロナは許容してくれてるようである。
真留句は、【コロナが妨害した事と、妨害しなかった事】、これをテーマに一度考えてみたらいいような気がしてきた。
ところで、あまりピアノについて問うと、そのうち竜一が腕前を披露しかねないので、あまり音楽の事は尋ねない方針にする事にした。折角、美味しい物をたくさん口に入れた後に、不味い物を口に入れるのは避けなくてはならぬ。それは口のみならず耳とて一緒である。
真「アルバイトの方はいかがなものか?」
竜「転職しました。今は警備員を、道路の交通誘導をやっています。【半Y半X】の事で1つ気がついた事があります。YとXのバランス、相補性についてです。
私は始め、Y=エクセルの入力のアルバイト、X=ピアノの練習、としていました。
しかし、ある時から心や身体の調子が優れず、不眠症に悩むようになりました。ピアノの練習も何やら身が入らず、うまく行きません。
ある日、車が故障して、買い物に歩いていく機会がありました。その日は久々に良く眠れました。その日は久々に良く歩きました。それまでは車に頼り切りでしたから。
身体を動かすといいのではないか、と思い歩く時間を増やしました。そうすると身体もメンタルも調子が良くなって、眠れるようにもなりました。ピアノの練習もはかどるような気がします。
そこで私は身体をあまり動かさないY=エクセルの入力のアルバイト、ではなく身体を動かすY=警備員の交通誘導のアルバイトに転職、代入し直した訳です。これはX=ピアノの練習とも相性が良いように思われます。
すなわちこれが教えることはXとY、どちらか一方が肉体労働ならば他方を頭脳労働にしてバランスを取るのが良い、という事です。
逆の考えで、Xで音楽をやる人がYも音楽とか、またXで農業、Yは林業、というケースもあると思います。XもYも自分の好きな事やあるいは好きな事に近い事。これも1つの手ですが生活全体のバランスで見ると、不眠(頭脳労働一辺倒の場合)や肉体疲労(肉体労働一辺倒の場合)になる可能性があります。
また、あなたが過渡戦略であって、理想のライフスタイルに持ってゆくための一時的な手段、通過点に過ぎない、とした【人生三分の計】や【半Y半X】ですが、これはこれで完成された有効性を持っています。Yにおける柔軟性においてです。
社会情勢は昨今、著しく変動します。コロナ以前もそうでしたが、特にコロナは社会を激変させました。
この時【半Y半X】における、生活費を得るためにしている労務Yは柔軟に変更が効きます。私が転職したようにYにしがみつく必要はありません。終身雇用を目指して1つのきちんとした会社、職にしがみつくような必要はないのです。
しかし、自分の核となる好きな事Xは変えずにその道を歩めます。
不易流行と言いますが、この【半Y半X】や【人生三分の計】においては、Yは流行、社会情勢によって柔軟に変化させ、Xは時勢に流されることなく不変なものとするのです。
また、自分の好きなXに関しては好きなように取り組めます。
仮に私が幼少の頃から音楽の英才教育を受けて、多大な努力をもってピアニストになったとします。
生活費は音楽で得られますから、余計なアルバイトをせずに済みます。アルバイトの時間の分、時間が浮く訳です。しかし、常に世論、世間受けなどといった、別の障害が現れるでしょう。
聴衆、否、観衆受けの良い、自分の好きでもない曲を、観衆受けのするように弾かねばならぬかも知れません。
そうです、他ならぬ音楽で生計を立てるが故に、その音楽がおカネの支配下に置かれてしまうのです。
この結果は、幼少の頃からの多大な努力を支払った割に、割に合わない、コスパが悪い、と言えるのかも知れません。
そう考えると、あなたの【半Y半X】は英才教育や多大な努力とは無縁に、そして、おカネ、世間の支配から逃れて、自分の好きな事に、好きな仕方で取り組む事が出来ます。
まあ、そういった自分の好きな事で生計を立てるような超一流の身になったことはありませんから実際のところは知る由もない訳ですが。自分の好きな事で社会に貢献する、貢献できる、社会から承認を受ける、それは感慨深く、一番良いのでしょう。
しかしそれは私にとっては、ついでのようなものです。社会の承認は得られずとも、先ず、何より己自身からの承認を得る事。これが何より大切にすべきことのように私には思われます。例え深い感慨が得られぬとしても。
いろいろ、申してきましたものの、【人生三分の計】や【半Y半X】はあなたが教えて下さった事であるから、私が今まで述べて来た事は、すでに全て知っておいでの事なのかも知れませんが。」
真「否、そんな事はない。さすがは元公務員だ。私にはそのような事はまったく考え及ばなかった事だよ。
発案者よりも使用者の方が良い使い手になるということは、よくある事だ。
ところで今日はもう遅いから休ませてもらえないだろうか。」
真留句はそのように言った。とにかく話が長引いて、竜一がキーボードの練習の成果を披露し出すのを阻止したかったのである。