真留句はこう言った

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真留句はこう言った コロナ以前 -19 燃える水 Ante coronam

            真留句はこう言った   コロナ以前-19   Ante coronam

 

                 燃える水

 

 

 

 耳障りなトラクターのエンジン音が真留句を夢の世界から現実へと引き戻した。

 

 だが、ちょうど、真留句が夢の世界から現実の世界に戻されたその時、彼は1つの考えを夢の世界から持ち帰ったのだった。

 そして独りで生きる者が屡々やることだが、己自身に話始めるのだった。

 

「燃える水よ、私はかねてからお前が為す大きな悪事-----天変地異(=異常気象)を知っていた。

 

 だが先刻の夢の世界で私は、さらなるお前の悪事を知ってしまったのだ。

 

 私は2つの夢の世界を旅行した。

 

1つ目の夢では私は左官職人になっていた。無心に手を動かして鏝(こて)で白壁を塗っていたものだ。

 

そして2つ目の夢では私は木こりになっていた。これまた無心に腕を動かして、鋸(ノコギリ)で丸太を切っている最中であった。

 

 現実の世界における惨めな仕事ではなく、どちらの夢の世界でも私は自分の仕事を愛していたし、職人としての生き方に誇りを持っていたのだ。

 

 現実の世界での仕事は身体も動かさなくても良く楽だ。

 だがそのため運動不足とストレスコントロールのために、別にスポーツジムに通ったり、ジョギングなどをすることになる。

 また、それだけでもメンタルの疲れがとれないならばマインドフルネスに取り組むこととなる。

 私は現実世界の仕事の際の人間関係によるストレスを緩和するために最近はマインドフルネスなるものに取り組んでいる。がなかなか、雑念が追い払えない。

 

 だが私が昨晩、経験した夢の世界ではスポーツジムもジョギングも、そしてマインドフルネスも不要であった。

 

 無心に手を動かして鏝(こて)で白壁を塗っていた瞬間、そして、無心に一生懸命に鋸(ノコ)を挽いていた瞬間、これらの瞬間こそ、私が現実世界で経験した1番深いマインドフルネスよりもさらに深いものであった。しかも容易にそのマインドフルネスの深いレベルに到達する事が出来た。ついでに職人としての技術、経験値も向上した。

 

 さあ、お前、燃ゆる水よ!

 お前はさながら、砂漠で喉の渇きで苦しむ人を欺くように、【効率】という利得でもって我々、資本主義世界に生きる人類を欺こうというのか?

 

 果たしてお前がもたらしたものは【効率】であったか?

 

 確かにチェーンソーを使えば木は早く切れる。効率的だろう、手鋸で切るよりは。

 

 しかし我々チェーンソーで木を切った後、【わざわざ】運動するためにスポーツジムに行ったり、わざわざジョギングせねばならぬ。

そしてマインドフルネスなるものすら必要となる場合がある。

 

 私のいた夢の世界の職人の間ではマインドフルネスなるものは意識され得なかったものっであろう。あたかも空気の如くに。

 

 総じて大切なものは意識され難し!

 

 燃ゆる水よ、お前は職人、人類からマインドフルネスの瞬間を奪ってしまった、

 さながら、お前が燃える際、周りの空気を奪うが如くに。

 

 そして人々の労働から誇りをも奪い取ってしまう。

 

 お前が悪であることは私には、自明なことなのだ。

 

 先刻、私を夢の世界から引き離したお前の奏でる楽音は醜い音なのだから。」

 

真留句がそう言い終えた時には、もうトラクターは黙ってその音を立てなくなっていた、聴衆のブーイングを浴びて演奏を止めてしまった奏者のようであった。 

 

 あたりには蛙の声に満ちていた。そして時折、鳥のさえずりが鳴る。

 

「この刻こそ私が愛する刻」

 

真留句はそのように言った。

 

 

 

1、 趣味や特別な目的意識があるなどで筋トレ、ジョギングされてる場合、あるいは瞑想めいたものとしてマインドフルネスに取り組んでいる場合はこの限りではありません。

 あくまで、近現代的労働環境における運動不足の補填やストレスコントロールの為のジョギングやマインドフルネスを本文では想定してます。

 

2、 化石資源を指標とする真留句の判定法

 (昔のライフスタイルの度合い、塩加減の判定法)

 

 化石資源と資本主義、経済成長は密接な関係にありますが、以下の考察をしてみます;

 

 筆者は昔のライフスタイルを推奨しております。しかしあまりにも原始的なライフスタイルも不便です。

 石包丁だとかの縄文時代の道具まで遡る必要はないと思います。かといって現代の化石資源や原子力を動力とするライフスタイルは行き過ぎていてバランスを欠くように感じられます。

 ちょうどいいバランスのとれたライフスタイルとは、どのようなものか?

 

 1つの考えは化石資源など外部動力を利用せずに、人間の自らの心臓という動力機関で作業、仕事をする、というものです。

 そのうえで道具に最大の効率を求める。

 

 具体的には江戸時代の頃でしょうか。例えば刀に象徴される刃物。江戸時代の鎌や包丁のレベルはとても高かいものだったのではないかと思います。

 それらの素晴らしい道具を使って、自らの心臓を動力として、手、腕、身体を動かして作業する、生活する。

 この時に真の意味で【効率】、【幸福度】、【生き甲斐】が大きくなるのではないか、と思います。

 

 化石資源を使わずに生活するうちは人の営みも自然の一部であって美しいものと思います。

 ところが化石資源を使うと、そのエンジン音の耳障りな音に象徴されるように自然から乖離してしまうように思えます。

 

(実は江戸時代の刃物は今と比べると質が良かったらしいのですが、1000年以上前の鉄は質がもっと良いらしいです。江戸時代の鉄すら見劣りしてしまう。昔の製法になるほど非効率的で手間がかかって、生産性や生産スピードは遅いのですが質は良いようです。)

 

真留句はこう言った コロナ以前-7 月と700円

 真留句はこう言った コロナ以前ー7   月と700円  

 

 この記事は【真留句はこう言った コロナ以後7 月と700円】と対をなしておりますので、この記事を読了後は、よろしければ、そちらもご覧下さい。

 

 関連記事 【真留句はこう言った コロナ以後7  月と700円】

       【真留句はこう言った コロナ以前ー15A 人生三分の計】   

              特に後者を読了なされてから本記事をお読み下さい。

 

 

以下、本文;

 

 夜。

 

真留句は弟子であり、また友でもある者の家を訪ねるために山路にある農道を独り歩いていた。

 

無論、辺りに真留句の他には人は無かった。

 

 しかし天空には満月に近い月があった。収穫をずっと前に終えた田畑や農道といった辺り一面は緑掛かったモノトーン(単色)と静寂に覆われていた。

 時折、虫の、か細く小さな音のモノフォニー(単旋律)が聞こゆるのみである。それとて長くは続かず、休符の方が長かった。

 

 その青緑の単色の世界は地球上というよりは月の世界と言っていいものだった。

 

そして真留句は昼間の多色のきらびやかな世界よりも、この月の単色の世界を愛していた。

 

真留句はこのような時間、瞬間を人生で最も愛していた。

 

 真留句はふと、月の住人は人の中では自分だけなのだろうか?と考えた。

山の農道の下方には民家もたくさんあり、普通の道路も通っている。しかし夜分につき人はほとんど家の中である。

 また外にいる者も歩く者はなく自動車に乗っていることだろう。田舎の山間部の移動というのはまず徒歩に頼るという事はありえないのだから。しかし車では、この月の支配する世界の住人にはなれない。

 

 山間部の夜道をわざわざ歩く偏狂な者は他にはないようだ。

 

 真留句はこう考えていたが、これ以上考える事は俗な事と思って止めることにした。

折角、月の世界の住人になれたのに、これ以上この方面を考え続けるならば再び地上の住人に戻ってしまう気がしたのである。

 

 次に、今の刻を詩にする事を試みた。が、詩なぞ学んだ事もないし、作った事もない。興の赴くままである。

 

 10分くらいしたら一句出来た。

 

 

独歩山路裏

 

月照天地

 

辺覆緑単色

 

但聞虫単音

 

 

そのまんまである。果たして、規則に合致するのか、詩として成り立っているのか、わからない。まあ、自分のために作った詩であるし、どうでも良かろう。

 

真留句はここで考えるのを止めて、無心に歩いた。

 

真留句は再び月の住人になったのである。

 

 

 真留句が山を抜け街に近づくと、今度は三味や胡弓の音や唄が聞こえて来た。

 街に辿り着く。

 街に入ると急に人の数が多くなった。

 

 どうやら街では年に一度の秋祭りが行われているようであった。

 

 町の人が唄い、奏し、踊っているようだが、周りの多くの観客に遮られて見ることが出来ない。

 観光客らしき人が多そうである。そういえば街はずれの道路には、たくさんの車が路駐していた。そして、それらの車のプレートの都道府県名は多岐に渡っていた。

 有名な祭りなのであろう。

 踊りは町の道を練り歩いて行われていた。

 

 

 三味や胡弓の音、唄は聞こえるが観光客に遮られて踊り手の姿を見ることが出来ない。

 

 聞こゆる胡弓は哀愁漂う響きなれど、その音と、いろとりどりの洋服を着た大勢の観客が1つの場所に同居する様に真留句は違和感を覚えた。ミスマッチな感じがしたのであった。

 

 真留句は踊りを見ることを諦め、弟子であり友である者の下に向かうために街を抜けようとした・・・・が、道には観光客が溢れていて、町の道を進むことすらままならぬ。

 辺りは汗と熱気と人込みに包まれていた。

 

 

 涼しい山路では汗をかくことがなかった真留句だが、街に来てから、汗をかいた。

 真留句はなんとか苦労して町はずれの友の下に辿り着いた。長い山路でもくたびれることのなかった真留句であったが、街に着いてから、一気に疲れてしまった。

 友の居宅の場所を人に尋ねることについては秋祭りのおかげで夜間ながら苦労せずに済んだ。

 

 友の居宅の前に行くと、楽音が聞こえてきた。三味や胡弓ではなくピアノの音色だった。

 民謡ではなくクラシックか何かの練習曲のようであった。

先ほどまでの人込みと熱気あふれる民謡の世界とは、ここは別世界のような気がした。

 しかし、ピアノの音は楽音としては、とても不味いものであった。習いたての子供がピアノの練習をしているかのようにも聞こえた。

 しかし友は確か独り身のはずで、子はいなかったはずである。

 とはいえ、真留句は練習中の下手な音楽を聴くのはそれほど嫌では無かった。むしろ好きな方かも知れぬ。

 国際コンクールか何やらで入賞やら優勝した若手音楽家の演奏会に行った事がある。確かに技術、テクニックは素晴らしかった。しかし、何やら、楽音と演奏が曲芸のように観えてしまって、一向におもしろくなかった。

 

 子供のピアノのお稽古の音を聞いている方が、よっぽどいいように思われた。

 

 真留句はしばらくこのピアノの稽古の音に耳を澄ましていた。練習はなかなか終わらないようである。やはり下手くそであった。旋律が途切れ途切れになる度に真留句も心の中で「がんばれ、がんばれ」と声援を送った。そのうち、そのぎこちない楽音に何故か没入してしまっていた。

 

 先ほど出た汗もいつの間にやら乾いてきた。

 

 この練習が永遠に長く続くかのように思われて、真留句は意を決して、呼び鈴を鳴らした。

 

呼び鈴を鳴らした途端に、旋律がもつれて音は止んだ。それから、しばらくしてから戸が開いた。

 

竜一「遠いところ、よくぞ、おいでになられました。中へお上がり下さい。」

真留句「お邪魔しますぞ。」

 

真留句は中へと案内された。

 

竜「今、お茶を淹れます、お待ちください。」

そう言って、竜一は部屋を出て行った。

 

 案内された部屋の中にはキーボードがあった。真留句が鍵盤を押すと、軽いタッチであった。安い部類のものだろう。機能ボタンもあまりないシンプルなキーボードである。先ほどのピアノの音はこのキーボードのものなのだろう。譜面台に開かれた楽譜の表紙をキーボードの裏に回って覗き込む。

 

 バイエルとあった。

 

 しばらくして竜一がお茶を持って来た。盆の上には湯呑が2つ、2つの皿それぞれに練羊羹がまた2つずつ置かれていた。

 真留句と竜一はお茶を呑んだ。夜更けではあるが玉露のようである。美味しい茶であった。真留句は甘いものが苦手だから羊羹には手をつけなかったが青磁の皿に置かれた練羊羹は美しく見えた。

 

真「町は祭りのようだが。」

竜「ええ、そのようですね。」

 

竜一はそう応えたが後が続かない。どうやら竜一は秋祭りには関心が無いようである。

 

真「先ほどのピアノはあなたが弾いてらしたのか?」

竜「ええ。この家には私しかおりません。」

 

 先ほどの不味い演奏の主はどうやら、友であったらしい。真留句は「あまり、上手ではないようだが・・・」というような事を口に出そうとした。しかし、その寸前で止めた。自分が山路の農道で作った一句の下手くそな詩の事がちょうどその時、頭に浮かんだからである。

 

 自分の下手をさし置いて他人の下手を言う事は出来ない。

 

 それに真留句にとって詩はまったく経験も無く、今日が詩の世界の第1日目である。この目の前の友も音楽入門者とはいえ、日毎にある程度の時間を、ある程度の年月をキーボードの稽古に費やして来たのであろう。バイエルの教本は60番の譜面が開かれていた。

 そして先ほどの句が自分の為だけに考えたのと同様に友とて、自分の為だけに奏しているのだろう。先ほどの稽古からはそのような印象を受けた。

 

 それに彼はみたところ真留句より年は上の50歳過ぎのようである。そういった大人の男が子供の稽古ような楽音を紡ぎ出すというのは、それはそれで貴重な事なのかも知れない。

 そしてピアノ入門のスタートとも言えるバイエルに50歳も過ぎたところで取り組んでいるという事自体、ある程度珍しいことのように思われた。

 

 玉露のカフェインが効いてきたのか、そのうち竜一の方から話し出した;

 

竜「あなたの庵に閑次や長三とともに訪れるまで私は公務員をしておりました。これといって取り組んでいる事もなかったのですがクラシック音楽を聴くのは好きでした。

 しかし、ちょうどあの頃、今まで楽譜という物を読んだことが無かったのですが、何となく好きな曲(それはバッハの平均律のフーガ)の楽譜を買ってしまいました。いったい、私が好きで聴いているこの曲の楽譜とはいったいどんなものなのだろう?と思った訳なのです。その時は楽器を弾くことになろうとは思ってはいませんでした。

 しかし、楽譜を見ても、私は音が想像できない(=視唱できない)ので、楽器を買う事にしました。ちょうど手頃な価格でネット通販でキーボードを入手出来ましたので。(あなたにもっと早く会っていれば、ネット通販ではなく地域の楽器店で購入した事でしょう。)

 そうこうしているうちに、私は自分の好きな曲、バッハの変ロ短調のフーガを生きているうちに弾く事が夢といいますか、人生の目標となってしまいました。

 あなたの庵で授けられた2つの策【人生三分の計】と【半YX】ですが、私は農業はやりたい訳ではないですから【半YX】を採用しました。独り身ですし公務員も止めて労働時間の少ないアルバイトに転職しました。

 私は公務員をしていれば、婚活にも有利だと思い仕事を続けて来ました。仕事にやりがいを感ずる時も時折ありましたが、根本的に心に届くものではありませんでした。そして、なかなか婚活もうまく行かず、そしてまた50歳も過ぎ、自分の人生というものを考え始めた時、音楽が私の心を捉えたのです。あなたの庵での話と婚活の不調というのもあり、私はもう結婚をあきらめ、音楽の道に進むことにしたのです。

即ち【半YX】においてY=エクセル入力のアルバイト、X=音楽を代入したのです。」

 

真「アコースティックピアノではなく電子キーボードなのですね。」

竜「ええ、アップライトピアノくらいならば買えない事もないし、この家には置く場所もあります。しかし、音量の問題でご近所に迷惑かも知れませんから。それでキーボードにしました。安価でしたし調律も不要で手間がかかりませんから。」

 

 確かに竜一の家は先の祭りの街中とは異なり新興住宅街といった風で幾件もの家が密集して建っていた。

 

竜「キーボードの性能は日進月歩との事ですが、本物がなりを潜め、本物を擬したものが幅を利かすのが咋近のようです。」

真「確かに・・・・それは楽器のみならず野菜といった食べ物も同じかも知れん。」

竜「そうですね、そして、それらを口にする我々、人間の生の営み全体もそう言えるのかも知れませんね。」

真「・・・・・・・」

しばらく沈黙が続いた。それからまた真留句が問いかけた;

 

真「少し前、そば屋さんをしているあなたの友人の下を訪れた際に、彼は【アルバイトにはできることなら行きたくはないですし、お店が経済的に軌道に乗って、アルバイトを止めて、そば屋さんだけで生活するのが夢です。しかし、それは奇跡でも起こらない限り無理である】と言っておりました。あなたも、音楽でお金を稼げるようになって、アルバイトを止めることを目指しているのですか?」

 

真留句はこのように竜一に尋ねた。というのは、竜一が音楽で飯を食って行くのはとても難しいように思われたからである。それは、かの辺鄙な場所で閑古鳥系そば屋を営む、彼の友人がそば屋さんで生計を成り立たせるより、さらに難しい事だろう。

 

竜「いいえ。まず、音楽がお金にはならない事は覚悟してます。才能ある幼い者が音楽の道を歩み始め、日毎に数時間、千日の稽古と万日の鍛錬をもってもなお、音楽で飯を食うのは容易ならざる事なのは知っています。

 あなたの【半YX】は何も新しい事ではなく、芸人などが売れない時分にY=アルバイト、X=漫才、を代入して以前より実践している事なのです。

 彼らはいずれXで、すなわち漫才で飯が食えるゆになって、アルバイトなどせずに済む事を目指します。そして、幾人かはそれを実現します。

 私の場合は無理でしょう。私は一生【半YX】のままでしょう。

 しかし私にとってそんな事はどうでも良い事なのです。

 重要なのは生きているうちにバッハのフーガに辿り着けるか、どうか、ただそれだけなのです。

 この歳になって楽器を始め、果たしてそれが可能なものなのか・・・・。

 リストやショパンラフマニノフの難曲が難しいのは世でよく取り上げられますがバッハとて容易ではないと聞きます。バッハのフーガをきちんと弾くことは、リストやショパンのきらびやかな高速のパッセージ、オクターブを越える跳躍のある難曲に劣らず難しいそうなのです。」

 

 この男の話した事は音楽や芸術が所詮、遊び事に過ぎず、魂の救済とは無縁なるものと考える者にとっては、理解し難い事であろう。

 

 この男にとってはバッハのフーガを奏する事こそが、人生の目的であり、魂の救済にすらなってしまったようなのである。

 

 が、真留句はその後にけっこう現実的な話をしたのだった;

 

真「私は【人生三分の計】と【半YX】をあくまで過渡的戦略の策として、お話しました。即ち、あくまでアルバイトやYといった、嫌々ながら現金収入を得るという分野は最後には消滅させて、半農半Xのような理想状態に持って行くための、あくまで手段なのです。

 ですが、私の策の私の想定した使い方など、確かに、どうでも良い事なのかも知れません。人の役に立つならば、それで十分です。

【真留句の言ったことなどに、何ほどの事があろう!】

まさにそういう事なのです。」

 

真留句はそのように言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真留句はこう言った コロナ以前-15A 人生三分の計(前半) Ante coronam

真留句はこのように言った。        人生三分の計       ante coronam

 

 

 

竜一と閑次と長三の3人は原発事故のような人災、温暖化による異常気象の大きな自然災

害(否、これも自然災害というよりは人災といえるのではないか?)を目の当たりにして、このままではいけないと思った。

 

自分達が普通に生きて会社に勤め、買い物をして消費して、自家用車で移動するというだけで、知らず知らずのうちに経済活動に参加して、化石燃料を使い、温暖化、環境破壊に一票を投じていることになるのだ。

 

しかしだからといって、どうすればいいのか見当もつかずにいた。

 

噂では真留句という隠遁者ならば、そういった方面に通じてるかも知れない、とのことだった。

 

三人は早速、真留句の住む山の庵に向かうこととした。

 

冬も近い秋深まる山の中を3人は行く。3人は真留句の庵に着いた。

 

真留句の友であり下僕であるムカデが3人を迎えた。ムカデは畑の作物の害虫を獲って食べるので、家庭菜園をする者にとってはいい友なのだ。

 

「真留句は今、旅に出ていてここにはおりません。しかしそう長くはない旅でしょうから1ヶ月くらいのちには戻るでしょう。」

ムカデは言った。

 

3人は庵を後にし帰ることにした。

 

しばらく月日が経ってから、3人は再び真留句の庵に向かった。冬が始まり道中には小雪が舞う。

3人は再び真留句の庵に着いた。今度はカマキリが迎えてくれた。 カマキリもやはり畑の作物の害虫を獲って食べるので、家庭菜園をする者にとってはいい友なのだ。

 

「真留句は今日も留守です。今日は生活費を稼ぐためにアルバイトの夜勤に行ってます。」

3人は再び真留句の庵を後にし帰ることにした。

 

それからまた月日が経ってから3人は真留句の庵に向かった。今回で3度目となる。冬も深まり、この日は吹雪であったが3人の熱い情熱を冷ますことはできない。

 

3人が真留句の庵に三度目に着いた時にはムカデもカマキリも彼らを迎えた。

「真留句は今日はいますが、今、瞑想の最中です。彼は瞑想の邪魔をされるのをひどく嫌います。」

そこで3人は真留句の瞑想が終わるのを待つことにした。

 

待っている時に文武両道でヨガにも通じている閑次が口を開いた。

「真留句というのはかなりの修行者だろう。瞑想も長いはず。数時間は覚悟した方がいいぞ。」

 

しかし3分くらいで真留句は現れた。後で知ったところでは彼の瞑想は1回20分程度らしい。30分の間違いではないのか?と思う方もいるかも知れないが20分なのである、20分=1/3時間と表示すれば納得してもらえるだろう。

 

真留句はムカデとカマキリを伴って現れた。

「あなた方のことはここにいる我が友から聞いております。今までに難路を何度も足を運んでくださったこと、そして今日はお待たせして申し訳ありません。ムカデとカマキリよ、次回から、このような場合は瞑想を止めさせて客人が来られたことを教えてくれ。」

しかし{次回}ということはこれ以降なく、今回が最初で最後のケースであった、真留句は続けた。

「あなた方がお話になりたいことのだいたいのことはムカデから聞いております。」

真留句はそう言って、時計型薪ストーブのある部屋に友と3人の客人を案内した。欧風のゴージャスな薪ストーブではなく日本の昔ながらの農家にあるような素朴なストーブである。真留句とムカデとカマキリと竜一と閑次と長三はストーブを円卓のように囲んで座った。

 真留句は水を鍋に入れストーブの火にかけた。そこに茶葉を入れ煮出して、それから何やらよくわからないスパイスを入れた。それから牛乳を入れた。最後に黒砂糖のかたまりを入れて、チャイを淹れたのだった。チャイが出来上がると真留句は皆にそれを振舞った。

 

6人は淹れ立ての熱い茶淹を飲んだ。ウーム、なかなかうまい。

 

閑次は言った。

「昨今の異常気象を見るにつけ、このままの生活ではいけないと思いました。半農半Xは、かなりいい生き方だと思います。しかし結論から言うと厳しいです。私はX=そば屋さん、を代入しました。しかし飲食店というのは見た目以上に大変です。準備に時間も手間もかかるのにそれほど収入にならないです。農業も機械を使わず、手作業でやると時間がかかります。採れた作物、それは市場に類を見ないくらいに素晴らしいもので、とてもお金には替え難いのですが。はっきりいって経済的に厳しく、私にとっては両立は困難、生活を継続、維持できません。」

 

真留句はしばらく沈黙していた。何か考えているようだ。そしてしばらくしてから口を開いた。

 

「結論から言うなら、半分、すなわち1/2ではなく三分、すなわち1/3(三分の一)としてはどうだろう?

 

すなわち

 

[ 1/3会社勤め、1/3農業、1/3X ]

 

としてはどうだろう。Xというのは半農半Xの時と同様にあなた方の魂の命ずる仕事、任務、やりたい仕事、使命だ。

 

確かに半農半Xは素晴らしいライフスタイルだ。しかしあなたが言うように誰もが実行、継続、維持できるわけではない。実行できる手腕を持つ者にとっては素晴らしいライフスタイルとなろう。

 

{会社勤め}といのは今日の資本主義社会の中で絶大な強制力を持っている。サラリーマンとして生きるという潮流に抗うことは難しい。我々の家計を成立させるための1番安全な方法は労働力商品として企業に勤め、給料を得るという形でお金を得ることだ。このまま放っておくなら我々の大多数の人生のだいたいの時間は企業で労働者として働く時間に席巻、征服されてしまうでしょう。

 しかし、企業に勤める生き方は環境問題や、自分の人生の生きがい、やりたいこと、といった観点からは望ましくない部分が多い。また労働の正当な対価が昨今は得られにくくなっています。

働いても働いても、時間やお金に余裕ができないのは我々の時間や労働、エネルギーがお金を通して、見えざる存在に吸い上げられているからなのです、利子という厄介な黒幕がいるのです。

そこで、この会社勤めの人生における割合や時間を減らし、他の農業とXで支えることでバランスをとるのです。ちょうど鼎が3本の足で支えられるように、あなた方の人生と家族も3つの分野で支えるのです。

 

会社勤めの割合が減れば、だいたい収入も減ります。しかし、支出もライフスタイルに応じて減ってバランスがとれるでしょう、あなた方は消費、購買という行動をもっと見つめなおすことになるでしょう。

 

次の1/3、農業について話します。農業は生きていくうえで必需品である食べ物を生産します。別の機会に話すことになると思うのですが食料を生産する農業は政治的にも資本主義においても特殊な特徴をもつ産業です。

農は食べ物をつくり、食べ物は我々の心や身体を作ります。すなわち、農とは我々自身をつくる行為でもあるのです。

 

最後の1/3Xについて話します。先の農とこのXは資本主義社会において軽視され、踏みにじられてしまう分野です。Xはあなたの望むこと、魂の命ずるままに従えばよろしいでしょう。

 

農業というのはお金にはなりませんから、そのうちにXで生活費を稼げるようになるといいです。自分のXを尊重し、そしてまた他人のXも尊重するようにすると良いでしょう。

 

そうして農業とXの時間が充実し、増大することで、あなたの中の企業に勤める部分が減少し弱くなるでしょう。そのような過渡段階を経て半農半Xの状態に持ってゆくのです。

 

この1/3戦略はエネルギーが分散してしまうという欠点があります。あまり多方面に手を出すのは得策ではありません。可能ならば、実現できるのならば、やはり半農半Xが理想なんです。

 

なお【人生三分の計】が実行し難いようでしたら別に

【半YX】(※注1)

という策もあります。

Yにはとにかく、生活費を稼げることを代入します。企業に勤めるのでもいいですし、自営業でもかまいません。さてここでYが自分のやりたいことなら半YXである必要はなく、

Yだけで生きればよいです。しかしYが、生活費を稼ぐためにやむを得ずやっていることならば、別にXもやります。Xはやはり、あなた方の魂の命ずる仕事、任務、やりたい仕事、使命を代入する。」

 

真留句はこのように言った。

 

 

注1、このお話に出て来た【半YX】と文章版i要約に出てくる【半ZX】は言葉は似ていますが異なる意味を持ちます;

 

X・・・ 好きな仕事、趣味、  使命的な事業、   魂、心が欲する行動

 

Z・・・ 衣食住に関わる必需品を生産する仕事、1次産業的な業。

     具体的には家庭菜園、農業、林業、漁師、猟師、畜産業、衣服作成、大工、

      鍛冶屋さん、配管工、瓦職人など

 

Y・・・嫌々でも良いので生活費を得る為に会社勤めする仕事、アルバイト。この会社勤めの仕事は精神的、肉体的エネルギー、そして時間を消耗し過ぎない仕事にすること。エネルギーはXの注ぐようにする。収入は最低限の生活費を得れれば十分。あとはなるべくDIY(代表的なのは自炊。あとは家屋、配管などの簡単な修繕などを想定されたい)などで節約する。

 

【半ZX】は真留句が1つの理想と考えるライフスタイルである。(※ 文章版i要約の第2章参照)

 他方【半YX】や【人生三分の計】はその理想的な【半ZX】に持って行くための過渡戦略、中途段階のライフスタイルである。しかし、この半YXは不安定、変化の激しい時世においては有効なライフスタイルである。その柔軟性故に。総合格闘技柔術で言うところのガードポジションのようなスタイルと言える気もする。

 

真留句はこう言った コロナ以後9 お米、ネズミ、コロナ感染者数 Post coronam

真留句はこう言った コロナ以後9 

 お米、ネズミ、コロナ感染者

 

冬、生鮮食品が長持ちするこの季節はコロナが長持ちする季節でもある。

 

真留句の友であり弟子であるムカデが真留句に問いかけた。

 

ムカデっち「我が友、真留句よ、君に尋ねたい事がある。私の知りあいの蟻がこのような事を言っていたのだ;『コロナの感染者数は人口比で見ると僅かなパーセントであり、死亡者数も交通事故による死傷者数や自殺者数に比べると少ない。だから人間たちはコロナを恐れ過ぎているのではないか、もっと楽観視しても良いのではないか』と。

私自身はコロナに対して油断すべきではないし世論もだいたいはそんな雰囲気なように見受けられます。しかしアリっちの言う事にも一理あるように思われます。

それで、少なからぬ人々が飲み会にも行けば、圏外を越える移動もするのも無理のない事のように思えます。

 コロナ対策で経済活動を制限して、その影響による生活困窮による死亡者、それから人々の生活への支障という事を秤にかければ、秤は経済活動制限による害の方が重いというジャッジを下すかも知れないと。

そこでこの事に関する、君の見解を聞かせて欲しいのだ。」

 

真留句は答えた;

真「私はコロナを甘く見るべきではないと考えている。その理由はいくつかある。1つはコロナがまだ未知の部分が多いのもである事。

また罹患後の後遺症も軽視できない。

だが私が一番、ポイントだと思うのはその感染者数の増加の仕方、振る舞いにあるのだ。

感染者の人数というのは、もし手洗いやマスク、コロナ3密を意識するとか、罹患者の隔離いうことをせずに普通に生活するならば、指数関数的増加、即ち、ネズミ算なり利子つきの借金なり、噂の広まり方ような増え方をするのだ。

これは急激な増加の仕方をする。油断できない。

あるエピソードを話そう。

 

昔、ある殿様が手柄を立てた家臣にどのような褒美が良いか尋ねた。家臣が応えて言うには『将棋盤のマス目に1日目はお米1粒、2日目は2マス目に2粒、3日目には3マス目に4粒、4日目には4マス目に8粒・・・・という風に81日目まで倍々にお米を下さい』

と言った。殿様は『そんなもので良いのか、欲のないやつじゃのう』と言った。

ところが数日後、別の家来が言うには『大変です、81マス目までのすべてのお米はこの国の全てのお米をかき集めても足りません』と言った。

 

私には、コロナの感染者数の人口比の少なさや、死亡者の交通事故死や自殺者数との比較で少ないという考えは、ちょうどこの殿様が、はじめの10日あたりまでの16粒なり256粒が大した数でないと考えているのと同様に私は思う。

故に私もコロナを甘く見るべきではないと考えるのだ。

ちなみに、32日目、32マス目には40億粒を越える。

 

なおこの倍々の比率というか利子率2はコロナについては現実には変動する。気候や人種の免疫の体質、人の位置、配置、それから人の心構え、意識の持ちようなどでだ。しかし、要因は多すぎて私には網羅的には列挙できない。

利子率に影響を与える要因のうち気候やウィルスの性質といったものをコントロールするのは難しい。人がコントロールできるのは人為的要因のみだ。経済活動、飲み会に行く、行かない、生活のスタイル、そして意識、心構え。

特に意識と心構えこそは、人為的要因で利子率を下げる行動のスタート地点、出発点になる。

 

だから、政府やメディアは時として過剰なり、意図的とも思えるほどコロナの害をアピールし注意を喚起してるのだろう。」

 

真留句はこう言った。

 

ムカデっち「今度、アリっちに会ったらそう言ってみるよ。」

 

ムカデはそう言った。

 

 真留句はこう言った コロナ以前-20 真留句、世界の中心でiを叫ぶ

で32日目にお米が40億なり50億になる事の計算も書く予定です。数学に興味ある方はそちらもどうぞ。

真留句はこう言った コロナ以前-20 真留句、世界の中心でiを叫ぶ Ante coronam

真留句はこう言った コロナ以前 -20

 

世界の中心でiを叫ぶ真留句

 

 この記事の内容の理解には数学に関する予備知識が必要です。

必要なのは、あくまで知識です。数学的思考力、知力、推論、計算力などは不要です。

必要なのは三角関数と指数関数のグラフの概形、振る舞いの知識と、オイラーの公式と呼ばれるシンプルな公式です。幾分、本文の後に補足説明しました。

 

以下、本文

 

「今、世界に、我々に最も必要なものはi ではないか!

 

 人類へのi

 世界へのi

 生きとし生けるものへのi

 草木へのi

 動物へのi

 地球へのi

 己自身へのi

 妻へのi

 夫へのi

 両親へのi

 子供、子孫へのi

 七代後世の者達へのi

 友へのi

 同僚へのi

 商品へのi

 サービスへのi

 労働へのi

  made in own country へのi

 平和へのi

  同志へのi

 

 iは上と下、高さと低さ、優劣、順序、比較、成功と失敗、もろもろの価値評価を超越し   てしまう。(注1)

 

 iこそは破壊と破滅をもたらす指数関数exp(t)

持続可能、調和と循環、大いなる円環(corona)、巡り巡りたる永遠回帰を表し、また万物をも生成する三角関数cos(t)sin(t)に変えるのだ、

即ち、オイラーの公式(注2)

 

exp(it)=cos(t)+i sin(t)

 

のようにして!」

 

 

真留句はこのように世界の中心でiを叫んだのだった・・・・・が、急に思い出したかのようにつけ加えた;

 

「しかし溺iはかえってマイナスであることをお忘れ召されるな!

  i×i = -1 

  なのだから !

 

 

 

 

補足

 

注1、虚数ii×i=-1)が登場する実数を拡張した複素数の世界では順序は存在しません。より正確には順序を定義できません。例えば2つの数字2+i-5+3iの大小の比較は出来ません。どちらが大きくてどちらが小さいかということは意味が無いこと、決める事が出来ない事です。

 

 これは大小関係、順序が存在した(正確には定義できる)実数の世界とは異なる性質です。実数の世界では35ならば、3<5のように大小関係、順序が存在します。

 

注2、※ e^texp(t)と書いたりもしますので、この記事ではそうしてます。

 

 指数関数exp(t)tの増大とともに急激に増大する性質を持ちます。

大雑把には、ねずみ算の増え方、複利計算の利子つき借金などのような増大を表します。

またコロナの感染者数のもこれに近い性質を持ちます。単位時間あたりの増大数が現在の数に比例する、といった事象を表します。(注3)

 グラフは前述の他に、地球上の人類の人口なり、化石燃料の使用量なり、GDPのように急激な増え方をするグラフをイメージすれば良いような気がします。

 

他方、三角関数cos(t)sin(t)のグラフは波のような概形です。

sin(t)ならば、まず山がきて、山の頂上で最大値1となります。次に谷がきて最小値-1を谷底でとります。それから、また山が来て、それから谷・・・・と波みたいになって同じ形を繰り返します。1と-1の間を永遠に行き来します。

 

 

そして、指数関数と三角関数を結びつける公式

 

exp(it)=cos(t)+i sin(t)

 

オイラーの公式と言います。

 

この記事のテーマは、

【破滅や破壊を表す指数関数exp(t)ti()をくっつけてitで置き換えるとexp(it) = cos(t) + i sin(t) となって調和や自然界における健全さを表す三角関数cos(t) 、sin(t) に変わる】

というものでした。

 

 

注3、以下は本編のテーマには関係のない、おまけです。数学に興味のある方向けの注。(数学に興味ある人はすでに知ってる場合も多そうですから、存在意義が問われる部分もありますが、書きたいから、いちおう書いてみます)計算とかも書いてます。

 

 数式を用いて【単位時間あたりの増大数が現在の数に比例する事象】が指数関数で表されることを説明したいと思います;

時刻tにおける、ねずみの数なり借金の金額なりをN(t)と書いて、【単位時間あたりの増大数が現在の数に比例する、といった事象】を数式で書くと

 

dN(t)/dt = βN(t)

 

となります。βは比例定数といいますか、定数で借金の場合なら利率のようなものを表します。

 

この方程式の解は (4に解法)

 

N(t) = Aexp(βt)

 

と、指数関数になります。A積分定数です。

A=1β=ln2の時はN(t) = 2^t

となってねずみ算の増え方、

 

A=10万、β = ln1.2 の時はN() = 10×(1.2)^t

となって、利息20%で10万円の借金をした場合の借金の額を表します。

 

 

 ln は自然対数。即ちe = 2.71828・・・・を底とする対数 log

 

4、方程式の解き方 

 

dN(t)/dt = βN(t)

 

両辺にdtをかけてN(t)で割って

 

dN(t)/N(t) = βdt

 

両辺を積分して

 

ln N(t) = βt + C   ※ ここで C 積分定数

 

両辺の指数(exp)をとれば

 

exp(ln N(t)) = exp(βt + C) 

 

左辺は指数exp と対数lnの定義によって、あるいは互いに逆関数の関係にある事から

 

左辺=exp(ln N(t)) = N(t)

 

右辺において積分定数 exp(C) = A と書き直すと

 

右辺== exp(βt + C) = exp(C)×exp(βt) = Aexp(βt)

 

以上から N(t) = Aexp(βt)

 

 真留句はこう言った コロナ以後9

ネズミ、お米、コロナ

 

との関連で倍々になって行くネズミの増え方、お米の増え方、コロナ感染者の増え方が32単位時間経過後に50億に近くなる事の計算。

 

 

今回はコロナ感染者がはじめに1人、1時間後には2人、2時間後には4人、3時間後には8人・・・・と1時間毎に2倍になって行くケースを考えてみます。

50億人に近くなるのはいつでしょう?

 

これは高校数学の対数の分野の身近な演習問題にもなると思います。

 

 

t時間後に50億人に達するとして、

2^t=50億=50×10^8=5×10^9

 

こういう桁が大きい計算をする時は対数が役立ちます。10を底とする常用対数をlogと書くことにして先の方程式の両辺の対数logをとれば

左辺=log(2^t)=tlog2

右辺=log(×10^9)

log+log(10^9)=log5+9log10=log5+9log(2×5)=log5+9(log2 + log5)=10log5 + 9log2

 

よって

tlog2=10log5 + 9log2

 

両辺をlog2で割って

 

t=9+10(log5/log2)

 

ここで常用対数表の値を見て log2=0.3010 、 log5=0.699 を代入すれば、

 

t9+10×0.699/0.3010)≒9+23.232.232

 

よって32時間後、2日目にはだいたい50億に近い人数になります。(検算したら42億人くらいでした)

真留句はこう言った コロナ以後7 月と700円 Post coronam

 この記事は【真留句はこう言った コロナ以前-7 月と700円】と対をなしております。先にそちらご覧下さい。

 

 関連記事 【真留句はこう言った コロナ以前ー7  月と700円】

       【真留句はこう言った コロナ以前ー15A 人生三分の計】  

        上記、両方を読んでから本記事を読むのが良さそう。 

 

 

以下、本文;

 

夕刻。

 

コロナの後の秋、再び、真留句は友の下へ向かう。

 

山路は夕刻も美しかった。しかし、それでも真留句は夜の方が好きであったのだが。

 

街に近づく。今回は例の秋祭りの日を避けるために入念に計画を立てるつもりであった。しかしその必要は無かった。

 聞けば、今年は中止となったらしい。コロナの影響で、である。

 

 今回は街はひっそりとしていた。観光客どころか街の人にもほとんど会う事がない。しかし時折、車が通る。

 

 人気(ひとけ)の少ない街。これが普段のこの街の姿なのだろう。

 

 真留句が人通りのない町を歩いていると、どこからか、聞き覚えのある三味の音が聞こえてきた。

 昨年の秋祭りで聞いた民謡である。三味は素朴な音色であった。何故だか、前に友の下を訪れた際、途中の山路、かの月の世界で聞いた虫のか細い旋律を思い出した。

 真留句が歩くうちに音はだんだんと大きく聞こえるようになって来た。音の源に近づいているのである。

 そのうち胡弓も加わる。

 

 真留句は音の出ている建物の前で立ち止まった。

 

【東町公民館】とある。

 

 真留句は眼を閉じて、この民謡に耳を澄ました。

 三味と胡弓だけ。人の唄はつかない。今回は楽器のみの編成なのだろう。

 この建物の前に佇むこと、どのくらいの時間であったであろうか。

 

 1年前は、それほど心を曳かなかった民謡であったが、今のこの音は心を捉えるものがあった。

 

 秋祭りが中止になっても、なお三味、胡弓、唄、そして踊りの稽古に励んでいるのであろうか。

 

 各地の祭りのみならず、演奏会、演劇、舞台を始めとするいろんな芸術の分野がコロナで活動の中止を余儀なくされた。

 

 しかし、真留句にとっては、観光客でごった返していた1年前よりも今の方が街の民謡に触れる事が出来たように思われた。

 

 町を歩いていると、他の町内の公民館からも三味や胡弓の音が聞こえた。三味や胡弓に加えて唄も聞ける場合があった。逆に人の唄だけの時もあって興が乗った。

 また1軒のみであったが民家から三味の音が出ていたのだが、これこそ我が意を得たり!という音であった。

 

 これがこの街の日常だというなら、なかなか風雅な街である。だが不思議なものだ。俗な祭りのための日頃の稽古が俗を脱してるのだから。

 

 そういえば、昨年の明くる朝に友から聞いたところによれば、街の踊り手や唄い手達は一晩、夜が明けるまで踊りつくし、唄いつくすとのこと。そこまでつき合う観光客も少なかろうし、そもそも踊り尽くした先には、疲れ果てたトランス状態で観客がいようがいまいが意に介さない境地に至っているのやも知れぬ。そう考えるなら、観衆の多寡にこだわっている私など、まだまだ修行が足らぬ。

 

 真留句が公民館や三味の民家で長い寄り道をしたせいか、辺りは夜になっていた。

 

 そして友の下を訪れる。またしてもクラシックの練習曲らしきピアノの音色が聞こえてきた。今もやはり不味い演奏で子供の練習のようであった。

 1年前は割と耳を澄ましていたが、今回は早く、この演奏から逃れたい気持ちにかられたので、呼び鈴をすぐに鳴らした。

曲が区切りの良いところまで奏されると、音は止んだ。それから、しばらくしてから戸が開いた。

 

竜一「遠いところ、よくぞ、おいでになられました。中へお上がり下さい。」

真留句「お邪魔しますぞ。」

 

真留句は中へと案内された。

 

竜「今、お茶を淹れます、お待ちください。」

そう言って、竜一は部屋を出て行った。

 

 キーボードの譜面台に開かれた楽譜の表紙をキーボードの裏に回って覗き込む。

 

 バッハ クラヴィーア小曲集 とあった。

 

 しばらくして竜一がお茶を持って来た。盆の上には湯呑が2つ、2つの深さのある器には、かき餅が盛られていた。

 真留句と竜一はお茶を呑んだ。夜更けにつき、ほうじ茶のようである。美味しい茶であった。真留句はかき餅も食べた。

 

真「秋祭りは中止となったそうだが。」

竜「ええ、そのようですね。」

 

竜一はそう応えたが後が続かない。やっぱり竜一は秋祭りには関心が無いようである。

 

 この友にとっては、例の秋祭りが開催されようが中止になろうが、そして現在のところ祭りの時だけで済んでいる観光地化が常のものとなったとしても、心をかき乱される事はないだろう。

 真留句は、先刻、公民館の前で聞いた誰の為にでもなく奏されていた唄や踊り、民家で自分の慰みのために鳴らされていた三味が、観光客のために、あえて奏されるようになるのがこの街の【常】に変わってしまうならば、と考えるとゾッとするのだった。(まあ、たまにならば良いのだろうけれど。)

 

 

真「ピアノの方はいかがなものか?」

 

竜「相変わらずです。年ですし、なかなか身に付きませんし、練習時間も思うようにはとれません。日暮れて道遠し、というやつですね。」

 

 コロナは友の芸術活動は妨害しなかったようである。そういえば、コロナ下になってから楽器(電子楽器含む)がよく売れているとの事。コロナは、おカネにならない芸術を嗜む愛好家に関してはその芸術活動を促進しているようだ。

 芸術の行為者と観衆とが分かれておらず、一体であり同一人物であった時代。それは芸術が観衆にとって外からやって来るのではなく、内から生じて来るような時代でもあった。コロナは、そのような古き良き昔の形態へと人の世の芸術を押し戻しているようである。

 そういえばコロナは1次産業のような贅沢ではない商品の生産活動も妨害しなかった。自ら行為する芸術というものもコロナは許容してくれてるようである。

 真留句は、【コロナが妨害した事と、妨害しなかった事】、これをテーマに一度考えてみたらいいような気がしてきた。

 

 ところで、あまりピアノについて問うと、そのうち竜一が腕前を披露しかねないので、あまり音楽の事は尋ねない方針にする事にした。折角、美味しい物をたくさん口に入れた後に、不味い物を口に入れるのは避けなくてはならぬ。それは口のみならず耳とて一緒である。

 

真「アルバイトの方はいかがなものか?」

竜「転職しました。今は警備員を、道路の交通誘導をやっています。【半YX】の事で1つ気がついた事があります。YXのバランス、相補性についてです。

私は始め、Y=エクセルの入力のアルバイト、X=ピアノの練習、としていました。

 しかし、ある時から心や身体の調子が優れず、不眠症に悩むようになりました。ピアノの練習も何やら身が入らず、うまく行きません。

 ある日、車が故障して、買い物に歩いていく機会がありました。その日は久々に良く眠れました。その日は久々に良く歩きました。それまでは車に頼り切りでしたから。

 身体を動かすといいのではないか、と思い歩く時間を増やしました。そうすると身体もメンタルも調子が良くなって、眠れるようにもなりました。ピアノの練習もはかどるような気がします。

 そこで私は身体をあまり動かさないY=エクセルの入力のアルバイト、ではなく身体を動かすY=警備員の交通誘導のアルバイトに転職、代入し直した訳です。これはX=ピアノの練習とも相性が良いように思われます。

 すなわちこれが教えることはXY、どちらか一方が肉体労働ならば他方を頭脳労働にしてバランスを取るのが良い、という事です。

 逆の考えで、Xで音楽をやる人がYも音楽とか、またXで農業、Y林業、というケースもあると思います。XYも自分の好きな事やあるいは好きな事に近い事。これも1つの手ですが生活全体のバランスで見ると、不眠(頭脳労働一辺倒の場合)や肉体疲労(肉体労働一辺倒の場合)になる可能性があります。

 

 また、あなたが過渡戦略であって、理想のライフスタイルに持ってゆくための一時的な手段、通過点に過ぎない、とした【人生三分の計】や【半YX】ですが、これはこれで完成された有効性を持っています。Yにおける柔軟性においてです。

 社会情勢は昨今、著しく変動します。コロナ以前もそうでしたが、特にコロナは社会を激変させました。

 この時【半YX】における、生活費を得るためにしている労務Yは柔軟に変更が効きます。私が転職したようにYにしがみつく必要はありません。終身雇用を目指して1つのきちんとした会社、職にしがみつくような必要はないのです。

 しかし、自分の核となる好きな事Xは変えずにその道を歩めます。

 不易流行と言いますが、この【半YX】や【人生三分の計】においては、Yは流行、社会情勢によって柔軟に変化させ、Xは時勢に流されることなく不変なものとするのです。

 

 また、自分の好きなXに関しては好きなように取り組めます。

 仮に私が幼少の頃から音楽の英才教育を受けて、多大な努力をもってピアニストになったとします。

 生活費は音楽で得られますから、余計なアルバイトをせずに済みます。アルバイトの時間の分、時間が浮く訳です。しかし、常に世論、世間受けなどといった、別の障害が現れるでしょう。

 聴衆、否、観衆受けの良い、自分の好きでもない曲を、観衆受けのするように弾かねばならぬかも知れません。

 そうです、他ならぬ音楽で生計を立てるが故に、その音楽がおカネの支配下に置かれてしまうのです。

 この結果は、幼少の頃からの多大な努力を支払った割に、割に合わない、コスパが悪い、と言えるのかも知れません。

 そう考えると、あなたの【半YX】は英才教育や多大な努力とは無縁に、そして、おカネ、世間の支配から逃れて、自分の好きな事に、好きな仕方で取り組む事が出来ます。

 まあ、そういった自分の好きな事で生計を立てるような超一流の身になったことはありませんから実際のところは知る由もない訳ですが。自分の好きな事で社会に貢献する、貢献できる、社会から承認を受ける、それは感慨深く、一番良いのでしょう。

 しかしそれは私にとっては、ついでのようなものです。社会の承認は得られずとも、先ず、何より己自身からの承認を得る事。これが何より大切にすべきことのように私には思われます。例え深い感慨が得られぬとしても。

 

 いろいろ、申してきましたものの、【人生三分の計】や【半YX】はあなたが教えて下さった事であるから、私が今まで述べて来た事は、すでに全て知っておいでの事なのかも知れませんが。」

 

真「否、そんな事はない。さすがは元公務員だ。私にはそのような事はまったく考え及ばなかった事だよ。         

 発案者よりも使用者の方が良い使い手になるということは、よくある事だ。

ところで今日はもう遅いから休ませてもらえないだろうか。」

 

真留句はそのように言った。とにかく話が長引いて、竜一がキーボードの練習の成果を披露し出すのを阻止したかったのである。

 

真留句以外1 買い物という名の投票 ver.2.2

  最近、選挙があった。
選挙の際には投票が行われるが、もっと影響力があって見落としがちな投票がある。

それは買い物というか、お金を使うことである。

結論からいえば、我々の購買行動は、一種の投票であって、お店の生き残りを決定して、社会に影響を与えていくことになる。

例えば、昔から地域にあったA書店と、最近進出してきた、大手チェーン店のB書店という本屋さんが近くにあったとしよう。
そこであなたは、「今日の料理ビギナーズ」というNHKのテキストというか本を買うことにする。
A
店でもB店でも「今日の料理ビギナーズ」は扱っている。
A
店で買っても、B店で買っても、同じ本が手に入る。
買う人にとっては、どこで買っても同じに見える。

短絡的には品揃えの豊富だったり、店内の装飾があざやかなB店を選択してしまう人が多いだろう。
情に厚い人や地元贔屓(びいき)の人はA店を選ぶかも知れないが。

その結果、A店は店じまいしてB店が生き残ることになる。

こういうことの積み重ねが今の街を形作ることになる。

昔ながらの個人経営、家族経営の店は減り、大手チェーン店、スーパーマーケット、コンビ二ばかりが街に残る。
安いし、見た目もいいし便利だし、文句はない気もする。

しかし、息苦しい世の中だとは思わないだろうか?
そういう所で、従業員が働き甲斐をもって、生き生きと働けるだろうか?

短絡的に買い物をする人々は、将来的に自分や子孫の首を絞めていることになる気がする。
我々の買い物という投票の結果が生き残るお店を選ぶ。
日本や近代的な資本主義が発達した国は治安もいいし、食うには困らないが、閉塞的な気もする。
現代の日本に息苦しさを感じるが、それは、我々の買い物(=お金による投票)の結果である。

打開するには、買い物は投票である、という自覚を持つことが第一歩。
そして第2には、実際に買い物の際には気をつけること。長期的な視点を持つこと。
単に買った物、買う物を意識するだけでなく、店を選らんだ、と、店側も意識すること。

この店では働きたくない、という店では買わない方がいい。そんな店で買い物すると、そんな店が残って、そんな働き方しか世の中に残らなくなるからである。

店のサービスがいいと感じても、それが従業員にひどい負担となって、自分が従業員の立場にとても立てないときは、悪いサービスだとみなす叡智が必要だ。
異論もあろうが、「自分が嫌な事は他人にもさせない」というゴールデンルールはだいたいあてはまってほしい。

選挙の投票と同じで一人一人の行動は影響力は少ないけれど、積み重なることで、自分の環境にモロに響いてくる。

 

 追記1;

 

 筆者はかつてヤフーブログで【緑の木】というブログやってました。今回の記事の本文と真留句のコロナ以前のうちの幾つかの話はその時に書いたものです。

 本文は10年以上前の記事です。(追記は現在のです。)

 

 筆者の地域では十数年前に、大手書店が開店して、地元の永年地域の文化を支えて来た書店が閉店しました。

 現在、今度は大手書店がネット通販に押されてます。十数年前と立場が入れ替わって弱肉強食、あるいは流行り廃りといったものを感じます。

 この、弱肉強食の系列は果てしなく続くのかも知れません。

 しかし筆者は、この順序は直線ではなく円環を描くと考えてます;

 トランプの最強のカード、ジョーカーや2に打ち勝つのは弱い3のカードです。

 トランプやじゃんけんのように、この弱肉強食、適店存続の順序は、円環で閉じると思ってます。

 現代はまさにジョーカー、2と3の勝ち負け法則の特異点の時代かもと思います。

 

 最近は、ネット通販しない個性的な古本屋が当地域で頑張ってます。

 

 

追記2、おカネの流れ

 

 我々の買い物はお金の流れを作ります。まずは買ったお店に。それから銀行かも知れませんし、その店主が別のお店で買い物して、そのお店に流れるのかも知れません。

 資産運用のために軍需産業に投資しているような銀行や企業にお金が流れた場合、そのおカネは戦争に使われることになります。貧しい紛争地域の人々を殺したり、大けがさせることにつながります。

 

 おカネの流れは一種のエネルギーの流れです。そのエネルギーの流れは、我々の周りの社会、企業、環境、労働環境を形作ります。(もちろん物理学や化学で用いられる意味でのエネルギーではありません。)

 

 先に戦争に自分のお金が流れてお金が悪さをする可能性を書きました。その可能性を考えるならば、おカネはローカルにやり取りされるのが無難なようです。

 地産地消です。お金がグローバルに洩れて悪さをすることもない。銀行もローカル重視の銀行に預けるのがいいでしょう。

 

例; ある町で服屋さんが、魚屋さんで魚を買う。魚屋さんは大工にお店の修繕をお願いする。大工は服屋さんで服を買う。

 

 このような感じで地域や仲間内でお金が循環するのが理想な気がします。

 

 

追記3、先にお金はローカルに、地域でやり取りされるのが望ましいと書きました。

もう1つ別のローカルを書きます。

 それはなるべく自分の身体に近いところにお金をかけて行く、ということです。

1番自分にローカルなのは自分の身体と心。本は心の糧といいますから、食べ物と本に先ず、お金をかけると良いかも知れません。

 2番目に自分に近いのは衣服。ファストファッションではなく多少高価でも、人の手間がきちんとかかった服がベストでしょう。(用途にも寄るが)

 3番目に自分に近いのは家。そもそも住宅は高価です。さらに割高ですが寿命の長い家屋ならば、子や孫、その先の代まで住めて住宅ローンを支払う必要がなくなります。光熱費も安い場合があります、きちんと設計された家は。

 昔の構造のしっかりしたリフォームすれば何代も住める中古の家の方が、寿命の短い最近の住宅より良いかも知れません。

 自分から離れた存在である車や不動産、株式、不労所得用のマンションなどには、この見方からはお金をかけない方がいいようです。(人それぞれですが。)

 

 追記4、買い物という投票における【囚人のジレンマ

 

 この【買い物は投票】という見方は「囚人のジレンマ」の構造を持っています。

 

 囚人のジレンマに関して詳しくない方は、【囚人のジレンマ】の言葉をクリックすると、説明が出てくるようなので参照なさって下さい。個々人の合理的な選択の結果が全体(=集団、社会)としては損な結果を導く、という現象です。

 

 消費活動(=購買活動)の際には損得を考えて、安価、便利なお店を選びます。その利己的、合理的選択、投票の集合体は、生き残る企業を決定します。

 我々は基本的にその生き残った企業のみが働き口となります。生産活動の際に(=働く際に)低賃金、ひどい労働、仕事内容を嘆く方も多いと思いますが、それは我々の買い物(=消費活動)という投票が決めていることなのです。あたかも選挙投票で政策が決まるのと似てます。

 みんなが、幸福に働けるような買い物をすれば良いのですが(=囚人のジレンマにおける協調行動)、買い物の際に得をしようとして(=囚人のジレンマにおける非協調行動)、結果、働く際には不幸な状態になってます。

 

そして自分だけが適正価格の職人さんなり、自営業のお店で買い物しても(自営業者は大手に比べ、利益少なくてもこちらが買う時には高い価格をつけざるを得ないし、職人さんの適正価格は大手や普通に流通してるものより高いですから)馬鹿を見るだけ(注1)で、世の中の労働環境は良くなりません。みんながそういう買い物をしたら、きっとみんな、自分らしい働き方ができるはずですが・・・・実現は難しそうです。

 とはいえ一方的に馬鹿を見るわけではなく、仮に世の中の労働環境が良くならないにしても、きちんとした職人さんや自営業者の商品、サービスは価格に見合って、あるいは価格以上に人々を幸せにすると思います。

 職人さんや自営業者の効率が悪かろうが、生産性が低かろうが、かけた手間と時間は裏切らないと思います。

 

 

 なお、【みんなが幸福に働ける買い物をする】、というのは、半農半Xにおけるような、使命的な仕事X、好きという気持ちや、やりがいを持って取り組める仕事Xをしてる人の商品、サービスを購入するということです。

 【真留句はこう言った コロナ以前ー6A 人生三分の計】において真留句が【自分のXを尊重し、そしてまた他人のXも尊重するようにすると良いでしょう。】という言葉を語っています。

 

 Xに取り組んでる人の商品やサービスが自分にとって必要なものならば、購入するのも良いかも知れません。

 

注1;この状況は場合によっては劇場版「νガンダム 逆襲のシャア」においてアクシズの落下を食い止めようと始めに単機でアクシズを押し戻そうとしたνガンダムの姿を彷彿とさせるものかも知れません。劇場版では途中から連邦、ネオジオン、両方のモビルスーツも次々とアクシズ落下を押し戻そうとして、ついにアクシズは押し戻され地球への落下を防ぎました。こちらの世界では果たして、そのような奇跡は起こりうるのでしょうか。

 

〇 囚人のジレンマの説明補足・・・説明に不可欠なマトリクス(表)は【囚人のジレンマ】をクリックして参照なさって下さい。

 ちょっと説明の補足をします;さて、強盗になったつもりで、黙秘(=協調行動)するのが合理的なのか自白(=非協調行動)をとるのが合理的なのか考えてみます。

 相手の出方が不確定なので、場合分けして考えます。

 

  1. a. 相手が黙秘した場合

 

こちらも黙秘すれば懲役10年の刑、

他方、こちらが自白すれば、即釈放。

 

よって相手が黙秘した場合、自白した方がお得というか合理的と言えます。

 

  1. b. 相手が自白した場合

 

こちらが黙秘すれば死刑、(単機アクシズを押し戻そうとしたνガンダム状態?)

他方、こちらが自白すれば懲役30年の刑。

 

よって相手が自白した場合もこちらは自白するのがお得、合理的です。

 

【c】 さて、相手がどう出ようと自白するのが合理的なようです。

 ところで相手はどう考えるでしょうか?表の刑罰や条件は自分と相手でまったく同じ、対称的です。よって立場を替えて考えるならば相手も自白するのが合理的なわけです。

 

 この自分と相手、2人とも自白するという、それぞれの合理的な選択の結果は両者に懲役30年の刑罰をもたらします。

 

 しかし、表を良く見るならば、お互いに黙秘(=協調行動)する、という2人の個人としては愚かな選択の結果はお互いに10年の懲役という刑罰をもたらします。

 全体を考慮に入れると損な結果を自白(=非協調行動)はもたらしてるわけです。

 

 個々人が合理的、利益を追求すると、全体として損する現象があるようです。