真留句はこう言った

河流 真留句 (カワル マルク) の物語 ・・・初めて当ブログにお越しの方は【真留句はこう言った 0(ゼロ) ブログ案内】からお読みになる事をおすすめします。

脱資本主義的ライフスタイルの戦争抑止効果について 解説版7 真留句はこう言った

 当ブログのカテゴリー「解説版 真留句はこう言った」内の別記事「要約 真留句はこう言った 解説版1」において「脱資本主義のライフスタイル」≒「昔のライフスタイル」が温暖化問題やコロナ問題に代表される現代的な問題のうちの多くに対して、有効な解決策の1つになることを述べました。そのことが当ブログ全体を通してのテーマでもありました。

 

 今回の記事では「脱資本主義のライフスタイル」が温暖化対策やコロナ対応に対して有効であるのみならずに、戦争抑止にも有効である、ということを書きたいと思います。より正確には、脱資本主義のライフスタイルを採用するような人々が多いような社会では、戦争がかなりの程度、抑止されるだろう、ということについて書きたいと思います。それがこの度の記事のテーマです。

 

 また、仕方なく戦争にならざるを得ない場合、人類は今後、どのように戦争を行うべきか、という事の1つの案も「昔のライフスタイル」の観点から書いてみたいと思います。

 

 ※ 「脱資本主義のライフスタイル」≒「昔のライフスタイル」は当ブログ全体通してのテーマです。この記事においても「脱資本主義のライフスタイル」という言葉がキーワードとして登場します。この記事を読むには、それが何を意味するか知っておく必要があります。詳しくは、カテゴリー「解説版 真留句はこう言った」内の記事「要約 真留句はこう言った 解説版1」をお読み下さい。(「要約 真留句はこう言った 解説版1」も長い記事ですが、記事の始め~1章あたりまでを読めば十分です。2章以降は読む必要はありません、当記事を読むにあたっては。)

 

 なお、その記事を読むのを省略する場合は「脱資本主義のライフスタイル」というのの大雑把なイメージは「昔のライフスタイル」と思えばだいたい大丈夫です。当ブログでは「脱資本主義のライフスタイル」という言葉の指し示すところは「昔のライフスタイル」のようなもの、としています。
 即ち
「脱資本主義のライフスタイル」≒「昔のライフスタイル」
な訳です。ですから「脱資本主義のライフスタイル」という言葉は「昔のライフスタイル」という言葉に置き換えればイメージや意味はつかめると思います。「脱資本主義のライフスタイル」というのは農業など一次産業に重きを置いて、高いDIY率(自給自足率)を目指し、小規模で狭い経済圏を成立させること(≒地産地消)を目指します。江戸時代の日本の経済構造などをイメージされると良いかも知れません。君主制までは採用しなくても良いと思いますが、幕藩体制など地方分権などもある程度、イケてるのではないでしょうか。

 

※ 筆者は戦争に詳しい訳ではないです。それでこの記事に書いてあることは「思いて学ばざれば即ち危うし」的な間違い、見当違い、抜けてる視点が多々あると思います。本来ならば、文献や本などで戦争に関する知識や見識を得てから、記事を書くべきなのかも知れません。しかし、それには時間や精神力などコストが掛かります。読者の方には、筆者の怠慢を大目に見て、誤りを判断されたり、あるいは足りない観点を適宜、補完される事を望みます。しかし、この記事において、幾分、部分的にでも役に立つ事柄や知見、視点を提供できるならば幸いです。

 

目次


0章、概要


1章、脱資本主義のライフスタイル(昔のライフスタイル)の戦争抑止効果


2章、仕方なく戦争が避けられない場合、人類は今後いかなる形で戦争すべきか


3章、あとがき


                          0章、概要

 

 当記事の1章では脱資本主義のライフスタイルの戦争抑止効果について説明します。
戦争が生じる原因は幾つかあります。私の思い浮かぶ範囲で以下のようなケース;


〇 食糧不足や肥沃な農地を求めての侵略。
〇 資源や利益を得る為の帝国主義や資本主義的な侵略
〇 東西陣営の対立など、共産主義と資本主義の思想上や価値観の対立

 

 脱資本主義のライフスタイルは上記のようなことが原因で起こる戦争を抑制する力があると私は考えます。それは、脱資本主義のライフスタイルの特徴である、地産地消や高いDIY率、近場の小規模な経済圏で経済が成立すること、過度な競争をしない、などの帰結です。

 

 2章では仕方なく戦争が避けられない時には如何なる形で戦争すれば良いかについて説明します。なるべく原始的な方法、昔の戦争スタイル、即ち徒手空拳や剣、槍、弓矢などで戦争をする、というのが私の案です。核兵器どころか、銃火器も禁止です。

 

 1章と2章がこの記事のメインとなります。以下、各章で詳しく書いてゆきます。

 

1章、脱資本主義のライフスタイル(昔のライフスタイル)の戦争抑止効果

 

 戦争はいろんな原因で起きます。食糧や肥沃な農地を求めてであったり、資源や利益を求めてであったり。また異なる思想や信仰の対立であったり。それには共産主義と資本主義の思想上の対立であったり、異なる宗教の対立があります。


 これらのうち、宗教による対立以外に対して脱資本主義のライフスタイルは戦争抑止効果があると思いますので以下、個別に見てゆこうと思います。

 

〇 食糧など生存に関わる事柄に起因する戦争の抑止
 
 昔のライフスタイルの特徴として地産地消や高い自給率があります。それらは戦争抑止に寄与します。
 今後、温暖化が進めば、食糧や水の不足、農耕可能地帯の減少など生存に必要不可欠な物資が不足することが考えられます。それが、近代では減少傾向であった食糧や農地をめぐる戦争を引き起こす可能性あると思います。古代における戦争の主因はそのような食糧や農地を求めてのようです。第2次世界大戦以降は宗教戦争や、東西陣営の対立など異なる思想、主義、信仰といった精神的なものが原因となる戦争が主(メイン)というイメージが私にはあります。しかし、温暖化が進んで機能する農地が減少すれば、第2次世界大戦以前の食糧、農地、油田やガスなどの資源埋蔵地をめぐる戦争が再び勃発する可能性あるように思えます。


 今後も従来通り、資本主義社会の維持を目指して、科学技術と経済成長の進展を目指せば、温暖化も進み食糧難が引き起こされ、戦争の動機が増えると思います。それ故、行き過ぎた資本主義社会であるよりは、社会全体が脱資本主義のライフスタイルを採用している方が戦争が抑止されると私は思います。

 

〇 帝国主義や経済成長、資本主義的事情による戦争の抑止

 

 第二次世界大戦以前は帝国主義の時代ということで、先進国は国益や富、財を求めて、海外に進出し世界各地に植民地を作ろうとしました。それは国民の生活を足るものにするに留まらず、過剰な利益を求めることが動機にあったと思います。また、足るを知るで留まっていては、他の競争相手に敗れ、凋落してしまうということで否応なしに、諸外国との植民地拡大争いにお互いに巻き込まれてしまう部分もあったろうと思います。

 

 資本主義というのは競争と拡大を伴うものです。競争というのは経済競争、企業間の競争、商店や飲食店やコンビニなどの競争などです。拡大というのは経済成長、商圏の拡大、企業における収益の拡大、商店(飲食店や菓子店など)の支店出店などの商業規模の拡大などのことです。


 こういった資本主義社会における商店、企業の競争と拡大というミクロな現象はバスの通奏低音のような役割を演じて、資本主義による戦争というマクロな現象の遠因になるような気がしてなりません。(※ このように、資本主義なり共産主義のあるミクロな性質が通奏低音のようにして、他のマクロな性質に影響を及ぼすというか、ミクロな性質がマクロな性質として顕れてしまう気がします。それは別記事「資本主義と共産主義に関するいくつかの考察 真留句断片11」において考察しようと思います。)

 

 経済成長や経済競争といった資本主義的経済の方向性を求めるのではなく、地産地消と高い自給率を主にして広義の経済(即ち人々の生活を可能とする経済)を目標とし足るを知る経済を目指すならば、他国への侵略は不要となると思います。経済成長や経済競争を渇望すれば、それは他国への侵略を引き起こさざるを得なくなると思います。なるべく各国で自給体制を目指し、自給が無理ならば貿易でカバーする。むしろ自営業者、あるいは生産者としては、国の領土や商圏が拡大しない方が資本主義的競争相手も現れずに安心できる面があると思います。結局のところ資本主義的商業競争はマクロな形で国家や陣営間の争い→戦争を引き起こす原因、元凶かも知れない、などと私は思います。

 

 脱資本主義のライフスタイルは地産地消や高い自給率など足るを知る経済を目指しますので、その手の侵略とは無縁になると憶測します。

 

 日本ならば石油資源に頼るのではなく、木材、薪などの森林資源をエネルギーとして利用するのが良いと思います。(木は太陽光エネルギーを蓄えます。ある意味、天然の太陽光パネル+バッテリーとも見なせる訳です。。薪を燃やして解放されるエネルギーで暖をとったり調理できます。しかし、薪の解放エネルギーを変換して人が電気製品を動かす為に利用できる形まで十分な電力を発電するのは厳しい気がします、第一感)


〇 東西陣営の対立、即ち共産主義と資本主義の思想上の相違による戦争の抑止

 

 戦争は異なる思想や信仰、価値観の間の対立によって生じます。即ち精神的な、あるいは人の心が原因で戦争が起きる訳です。そのうちの1つとして資本主義陣営と共産主義陣営の対立があります。第2次世界大戦以降は冷戦など資本主義陣営と共産主義陣営の対立があります。東西陣営の対立とも言われます。

 

 脱資本主義のライフスタイルはその手の戦争も抑止できると思います。というのは「解説版1 要約 真留句はこう言った」で説明したように「地域分散小規模経済圏が成立する中でエシカルな資本主義経済が行われる」のと、「分散した小規模な地域で行われる小さな共産主義経済(小規模な共産主義)」は実質、その制度の下で生活する人々にとってほとんど同じような生活形態、経済形態であり、それこそが「脱資本主義のライフスタイル」における経済だからである。


 即ち「脱資本主義のライフスタイル」は資本主義的な性質と共産主義的な性質を両方、持っているので、資本主義と共産主義という異なる主義の争いは解消される可能性があります。(しかし、骨肉の争い、近親の争いはさらに酷い、という可能性もありますが。)

 

 共産主義はもともと資本主義へのアンチテーゼとして考案されました。「脱資本主義のライフスタイル」も行き過ぎた資本主義へのアンチテーゼとしての案の1つです。故に共産主義の信仰者から見て「脱資本主義のライフスタイル」は文句はあまりないはずです。
 
 また「脱資本主義のライフスタイル」はいちおう私有財産制のもとで行われることを想定してますので資本主義体制下の国民からも文句はないはずです。「脱資本主義のライフスタイル」が採用されると都合が悪いのは富裕層や大企業など、現行の行き過ぎた資本主義社会で大きな富や利益など既得権益を得ている人々でしょう。


 脱資本主義のライフスタイルへの移行は戦争や革命によって政府の方針を転換させるという形で行われるものではありません。国民に制度を押し付けるトップダウン式な方式で脱資本主義のライフスタイルを人々に強制するものではありません。

 

 そうではなく人々が自らの意思で採用する形で脱資本主義のライフスタイルは実現され、拡がるものと私は考えております。即ち、それは草の根的な拡大であり、庶民が脱資本主義のライフスタイルを採用することでボトムアップ式に拡がるものと思います。それは庶民の生産活動(働き方)や消費活動(買い物、購買活動)といった経済活動を通じてなされます。特に後者の消費活動に関しては、庶民がエシカルな消費を行う必要があります(エシカルな消費=倫理的な消費)。これが脱資本主義のライフスタイルと従来の行き過ぎた資本主義的ライフスタイルの大きな相違点となります。

 

 資本主義体制下の経済部門において消費活動、即ち買い物は、あたかも選挙における投票のような性質を持ちます。買い物を通じて消費者は単に商品を得るに留まらず、買った商品の生産者なり企業、商店への支持もしていることになります。買い物を通じて多くの投票を得た企業は残り、投票を得る事が出来なかった企業は廃業します。あたかも、多くの投票を得た人が当選し、票を集めることができなかった人は落選する、といった感じにです。そのような買い物という投票活動を通じて企業のあり方を消費者は是認していることになります。そのようにして企業の存続が決定され、社会における経済部門が形作られます。そしてそれは社会における経済部門のみならず社会のあり方の大半をも決定するようにも私には思えます。即ち、資本主義体制下の経済部門は絶えず、消費者の購買行動という投票によってあり方が決定、あるいは是認されている、とも見なせるわけです。

 

 脱資本主義のライフスタイルも上記のような消費活動による投票の結果、成立するので、その意味では資本主義体制下で実現され、また民主的でもあります。現行の行き過ぎた資本主義体制下とは別の方向に買い物というか投票せねばなりませんが。

 

(脱資本主義のライフスタイルを後押しする具体的な買い物の仕方については当ブログのカテゴリー「解説版」内の別記事「真留句のことば 解説版5」や「真留句リスト 解説版3」をご参照ください。)
 
 ソ連などで資本主義(王政?)から共産主義への移行がトップダウン式に、暴力的に行われた過去の出来事を枯れ草を炎で燃やし一瞬にして枯れ草から炎(光)や熱の形で大きなエネルギー解放する事柄に比すならば、行き過ぎた資本主義から脱資本主義のライフスタイルへの移行は庶民の買い物による投票や働き方を通じた静かなる革命であり、枯れ草が微生物の働きで緩慢に分解されながら徐々に発熱し土壌を豊かにする様に比すことが出来るかも知れない。

 このように、行き過ぎた資本主義から脱資本主義のライフスタイルへの移行は暴力的な戦争ではなく、買い物による投票といった選挙戦のような民主的、庶民的な平和な投票による戦いによって実現されると私は想定している。しかし、これは現在の日本において、新党や共産党、あるいは過去にあった緑の会議が政権を握るのと同じような難易度があるように私は思う。しかし、これからの状況や国民次第では実現もありえる、否、実現されなくてはならない。

 

 また、上記の説明から行き過ぎた資本主義→脱資本主義のライフスタイルへの移行は、資本主義→共産主義への移行の際のような暴力や戦争は伴わないことも分かる。(生産手段や企業を政府が強制的に没収、国有化することはない。)


〇 脱資本主義のライフスタイルでは抑止できないタイプの戦争の例・・・宗教戦争など

 

 多くの人々が脱資本主義のライフスタイルを採用することで様々な原因で生じる戦争のうち、ある程度のタイプは抑止できるのではないか、ということを今まで論じてきた。
 しかし、脱資本主義のライフスタイルでは抑止できないタイプの戦争もある。
 それは宗教戦争である。即ち、信仰を異にする人々の間の対立である。
 宗教はある意味、商品のやり取りや生活といった経済などを超越した事柄である。それもあり脱資本主義のライフスタイルの守備の範囲外の事柄でもある。
 私が範にすべきと思う江戸時代の日本という太平の世においても島原の乱という宗教の乱が生じている。やはり、宗教戦争は難しい部分があると思う。 
 また一神教はその厳格さから、どうしても争いが生じ易い性質があるように私は思う。
 
 以下、やや宗教戦争からは脱線する。戦争抑止における一神教の問題点の為の補題である。

 争いを避けるのに大切な一要素として多様性の尊重がある。人々は多様なので、お互いに相手の立場に想いをめぐらせ、お互いを尊重し合えば、かなりの程度、争いは無くなると私は思う。
 戦争が生じる1つの原因として分離、独立戦争がある。これは、体制側、大勢を占める側が少数派への配慮が足りず、とか、少数派を蔑ろにし、ならば、ということで、少数派が体制側についていけないので独立を目指すから生じるのだと私は思う。ここにおいて、余裕のある大勢の側が少数派に対して配慮すべきで、既に苦しい立場にある少数派に我慢を強いたり、場合によっては、さらに少数派にとってマイナスになる政策を取ることすらあるように思う。多数派が少数派や弱い立場の身になって多様性の観点に立ちならば、少数派に配慮したり寛容になるならば、皆がまあまあ生き易い世になり、戦争もかなりの程度、抑止されるだろう。


 脱線が長くなってしまったが、宗教戦争の話題に戻る。一神教というのは、その性質上、多様性を認めない部分がある。私の神以外は、認めないからである。一神教においては神の多様性は認めないのである。(あるいは同一の神を信仰してすら、過去における最後の救世主が誰であったか、ということの多様性を認めないことによる、見解の相違もある。)戦争抑止においてキーワードとなる多様性。この多様性と唯一の神は両立しない。これが宗教戦争の抑止が難しい点の1つであるように私は思う。

 
〇 1章の終わりに

 

 今後の世界平和を考える上で、江戸時代の徳川幕府による統治の仕方を参考にしたり、研究したりする手もあると思いました。江戸時代の経済やライフスタイルは、現代の我々、世界全体の人々の今後、とるべきライフスタイルとして参考になると私は思っています。太平の世であった江戸時代のライフスタイルの延長はそのまま、世界を戦争を減らす効果もあるのかも知れません。統治機構も流石に幕藩体制そのままというのは不味いと思いますがエッセンスや構造を研究すれば世界平和の役に立つのかも知れません。

 

    2章、仕方なく戦争が避けられない場合、人類は今後いかなる形で戦争すべきか
 
  異なる国なり勢力の間でトラブルや意見の不一致が生じた場合、外交、話し合いで解決できれば、それに越したことはない。しかし、どうしても話し合いで妥協点が見つからないとなれば、仕方ないことだが戦争にならざるを得ない。
   
 現在のところ核兵器は別格の威力があり、破壊力が大きいということで、かなりの程度、使用が規制というか禁止されている。しかし、私はさらに規制の範囲を拡張してミサイル、戦車や戦闘機などの兵器、銃火器、弓矢などの飛び道具、金属製の刀剣、槍や盾をも規制するのも1つの案のように思う。徒手空拳で戦争するのである。即ち、戦争も「昔のライフスタイル」で行うのが「脱資本主義のライフスタイル」である。馬鹿げていると感じる読者が大半とは思うが私はかなりの程度、本気である。以下、詳しく書いてゆくことにする。
 
 「脱資本主義のライフスタイル」として江戸時代の日本をお手本とすれば良いのではないか?ということは当ブログでは事ある毎に書いてきたことである。
 江戸時代の前の戦国時代におけるある戦争のエピソードから戦争の仕方についてヒントを得る事が出来る。

 

 それは川中島の合戦である。戦国時代屈指の大名である上杉謙信武田信玄が相争った戦いである。両者はライバルでもある。川中島の合戦はなかなか決着がつかず、5回ほども行われたそうである。即ち第五次川中島の合戦まで行われたそうである。そして双方ともに多くの兵士や有能な武将を失うなど被害も甚大であったそうである。

 

 そこで最後は被害を少なくする為に両軍ともにそれぞれ1名の代表選士を選び相撲だか組み討ちだかで勝敗を決めたらしい。(組み討ちは、相撲と異なり倒れても負けではない。現代風に言えば、何でもありのバーリ・トード、総合格闘技のようなもの。しかも短刀を握ってである。短刀が真剣ならば、相手を殺せば、短刀が木刀ならば、有効打を入れれば勝ち、だと思う。)

 

 しかし、最後の代表選士による相撲は実は後世、江戸時代の創作で実話ではないそうである。川中島の合戦なり関ケ原の合戦なりで国を二分するような数多くの犠牲者が出る出来事を経験した後世の人々が、大規模化する戦争のあり方を憂い、犠牲者を少なくする為の願いやアイディアをこの創作のエピソードに込めたのかも知れない。もし、そうならば、現在、核兵器の恐怖や犠牲の多いウクライナにおける戦争と同時代に生きる我々は、その願いから、戦争の害を抑える何らかのアイディアを得る事が出来るかも知れない。

 

 先ず、私が思うのは1対1だと負けた方の代表選士に責任が重くのしかかるので、複数名の団体戦にすれば、責任が分散できて良いような気がする。柔道や剣道の団体戦のような感じである。
 あるいは、平和の祭典オリンピックを利用して、相争う、当該国のメダル数や成績ごとに加点して合計点を比べることで戦争の勝敗を決める手もあると思う。この方向性には、いろいろアレンジや改良があると思う。


 川中島の合戦の相撲エピソードが江戸時代の創作ということで、やはり、江戸時代の日本を参考にすることで現代の問題点の解決策のヒントが得られる気がする。

 

 川中島の合戦のエピソードから着想を得た、代表選士制による戦争の案は以上である。
 
 以下は冒頭でも書いた兵器の制限について述べることにする。現在、核兵器の使用は社会通念として規制がかかっているが、ミサイルや戦車、戦闘機などに関しては規制は無さそうである。しかし、もっと戦争において規制を強めれば良いと私は思う。
 以下は規制のレベルである。レベルが高くなるほど規制が厳しくなる。
 
レベル1、核兵器使用禁止
レベル2、ミサイル、破壊力の大きい爆弾、潜水艦、戦闘機、戦艦、戦闘機、戦車の禁止
レベル3、大砲、砲弾の禁止
レベル4、銃火器の禁止
レベル5、弓矢など飛び道具の禁止
レベル6、金属製の刀剣、槍、盾などの禁止(ただし、鎌や鍬など農機具を武器とする事は特別に許される)

レベル7、木製兵器、木刀などの禁止=徒手空拳のみO.K.


現在、現実にはレベル1の規制が社会通念である。戦争においてレベル2は許容されている。ウクライナにおける戦争などはそうである。私はもっと規制を推し進めて、レベル6やレベル7の規制にすれば良いと思う。レベル6ならば木刀や木槍のみが許される。レベル7では徒手空拳しか許されない。
 


    3章、あとがき

 私がこのブログを始めたコロナ初期の頃において、人類の抱える大問題というのは温暖化問題、環境破壊と私は考えてました。そして、やや重大性のランクが落ちる問題として時事問題のコロナがあると思ってました。

 しかし最近、ウクライナで戦争が行われていることで、戦争ついて意識を向けざるを得ませんでした。ウクライナ戦争が生じる前のコロナ発生初期において、社会問題に対する「昔のライフスタイル」という処方箋をブログに書いて文章化した時も、戦争は重大性の高い大問題と思っておりました。しかし、その時は「昔のライフスタイル」という処方箋は戦争問題においては、まったく無力と思っておりました。そして私に戦争に関する知識や知見がないのもあり、「戦争」は当ブログの守備範囲外と思っておりました。


 しかし、最近、いろいろ戦争について考えざるを得ざるを得ませんでした。
 その時に「脱資本主義のライフスタイル」≒「昔のライフスタイル」という、環境問題を始めとする現代的な問題に対する処方箋は人類の今後の戦争問題の処方箋としても、ある程度の有効性があるかも知れない、と思うようになりました。


 そして、この記事を書いた、という次第です。
 
 現代における問題点、即ち、温暖化、気候変動は進み過ぎた科学技術の負の側面が表出したものと私は思います。それは、温暖化のみならず、戦争においても言えることと思います。そして温暖化に関しては行き過ぎた資本主義によるところがあると思いますが、もしかしたら行き過ぎた資本主義は戦争をも助長するものなのかも知れません。
 
 温暖化対策としての処方箋の1つが「脱資本主義のライフスタイル」あるいは「昔のライフスタイル」だとすれば、それは現代の戦争において被害が大きい、という問題点の1つの処方箋となるのかも知れません。

 温暖化や戦争を始めとする現代における問題点の多くは、進み過ぎた科学などが現代的であることこそが原因であると私は思います。故にその解決策の1つは「昔のライフスタイル」を参考にすることだと思います。(現代の技術のうち医療技術などは残して、負の部分を削ぎ落す。)

※ また、私の考えている「脱資本主義のライフスタイル」≒「昔のライフスタイル」以外にも「脱資本主義型社会」の案がいろいろ多様にあると思います。それらは、細かな差異はあっても概ね同じ方向性を向いていたり、共通する考えが多かったりする場合もあるかと思います。そういった「脱資本主義型社会」も概ね、今回の記事で書いたような戦争が抑止され易い性質を持つのではないか、と私は思います。

 温暖化問題と人類の戦争は、資本主義と科学技術の行き過ぎともに被害の度合いや危険性の増しつつあります。

 それらを抑止する為に我々は「脱資本主義型社会」を目指さねばならないと私は思います。

田舎に移住する際の注意点 書きかけ版 真留句断片10

このブログにおいて田舎への移住をところどころで推奨してます。
 しかし田舎に移住する際に気をつける点、注意した方が良いと思うことがあって、それらをこの記事では書いて行こうと思います。
 主に人間関係や昔ながらのしきたり、風習に関する事です。
 
 田舎への移住をして水や空気、緑など自然環境は気に入ったものの、田舎における人間関係や田舎の社会様式、田舎における生活様式とマッチできずに、また別の土地へと引っ越しするケースをしばしば耳にします。それでこの記事では田舎への移住について注意換気と言いますか、気をつけたらいいかも的な事を書こうと思います。
 
 一概には言えませんが、概して移住者の多い田舎の方が、移住者の少ない田舎に比べ多様な生き方や価値観、考え方が許容され易く、住み易い傾向があると思います。
 また、もう一つのポイントとして、お試し移住をお勧めします。イキナリ、空家などの物件を買ったり、新築したりして定住するのはお勧めしません。肌に合わなかったら変更が効く状態でスタートするのが良いと思います。即ち、肌に合わなかったら、また別の地域に移住できる体制でスタートするのが良いと思います。
 先ずは賃貸など変更が可能な状態で移住するとか、お祭りなど地域のイベントに参加して地域の人々や移住者や雰囲気を把握してから、様子を見て、実際に長く住めそう、馴染めそうならば、買取など永住を指向すれば良いと思います。
 
 以下、移住者である私自身の体験と、出版物やネットにあった情報、事例などに基づく知見から書いて行こうと思います。
 どうしても移住者視点、移住者の見方、バイアスがどうしても出てしまうかと思います。
 場合によっては田舎の風土や特性をディスるような印象を与える文章も書いてしまうかも知れません。
 
 しかし、見識のある方や思慮深い方は、そのような一方(今回の場合ならば移住者サイド)からの情報を鵜呑みにせずに適宜、情報発信者のバイアスを考慮し、より客観的な見方、情報の形を推測し、解釈を補正される事かと思います。即ち、他方(今回の場合は田舎に昔から住んでいる住人サイド)の主張や見解、言い分、
見方も推測、考慮し、視点を変えて想像する訳です。
 
 そのような見識ある方々は、また近年のウクライナ戦争においても同様に情報を解釈する際に情報の形を補正して解釈されている事と思います。
 即ち、西側に属する日本における、西側よりのメディアやネット空間の情報を、西側の見方として偏りが生じることを考慮し、多少なりとも中立、客観的な情報の形を推測し、情報の解釈を補正される事と思います。
 
  情報の持つ幾つかの機能のうち、「情報の受け手の意識を変容させる」という機能のウェイトが近年は大きくなる傾向があるかと思います。そんな近年においては、情報の解釈の補正というのは、情報の受け手にとって特に重要な態度と思います。なお情報の「意識を変容させる効果」というのの具体例は、商品の販促や種々の世論のコントロール(例えば戦争における)などがあるかと思います。
 
 「情報」の機能のうち私が先ず思い浮かべる機能は生存に有利になる情報、というものです。具体例は天候予測や獲物や食糧がよく採れる場所、危険な場所、毒になる食べ物などの情報です。昔は「情報」はそんな感じの意味や効果、機能として使用される場合が多かっただろうと思います。しかし、近年は前述のように「情報の受け手の意識を変容させる」目的で情報が使用される場合が多くなってる気がします。
 
 そんな事を書いてる、このブログ自体、幾分、「緑系(赤系?)に意識を変容させるというか誘導する情報」を提示してますが。
 
 「移住者サイドの視点の記事です」という注意書きのつもりがテーマ(田舎に移住するの際の注意点)から脱線してきてる気がしました。
 
 本題の田舎に移住する際の注意点に話題を戻さねばなりません。
 
 田舎にせよ都会にせよ、そして移住者にせよ、地元民にせよ、野暮な人もいれば粋な人もいると思います。
 
 先ずは私の個人的な体験ではなく、統計的と言いますか、一般的な傾向について書いてみようと思います。
 
 
 今回はとりあえず、ここまでです。まだ中途です。時間ある時に少しずつ、注意点について、つけ足して、この記事を書いて行きたいと思います。
 
 なお、なかなかこの記事の本質的な更新は、すぐにはしない見込みです。数週間〜数カ月単位の更新となるかも知れません。とりあえずここ数日の更新はない予定です。忘れた頃にまた、ご覧下されば幸いです。(忘れた頃に見る、という事が可能かどうか怪しいですが)
 
 
投稿日 2023年3月11日
最終改訂日 2023年5月21日

要約 真留句はこう言った 解説版1  ver.4

始めに  本ブログ全体のテーマと要約・・・

今後、目指したら良いかも的なライフスタイル、あるいは社会システムの1つの案 

【脱資本主義的ライフスタイル≒ポストコロナのライフスタイル≒昔のライフスタイル】

 

 かつては人類の生活に豊かさをもたらしてきた資本主義が現在、行き過ぎの様相を呈していて様々な問題を引き起こしている。その問題とは温暖化、異常気象、気候変動、環境問題、そしてまた、労働環境、生活環境の悪化、ストレス社会、少子化、学校及び職場におけるいじめ等である。それらは現在、人類の抱える主要問題である。それらの問題は現在、解決策の登場が望まれるものである。

 本ブログのテーマ、主題はその解決案の1つを提示する事にある。行き過ぎた資本主義の引き起こす様々な問題を解決、克服するライフスタイルを【脱資本主義のライフスタイル】と呼ぶ事にする。それは温暖化を抑制し、ストレス社会、生きづらさを軽減し、人々に生きがいをもたらし、幸福感を高めるようなライフスタイルである事が望まれる。今、【脱資本主義のライフスタイル】の登場が必要な局面であると私は考える。

 また別に時事問題としてコロナがある。コロナ対応に適したライフスタイルのことを【ポストコロナのライフスタイル】とこのブログでは呼ぶことにする。    

 

主張1、昔のライフスタイルを参考にして現代的ライフスタイルとバランス良く組み合わせたものは、脱資本主義のライフスタイルの1つになる。また、それはポストコロナのライフスタイルの1つにもなる。

 

この主張1が、このブログ「真留句はこう言った」の主要テーマとなる。 現代のライフスタイルに昔のライフスタイルを取り入れる事で生まれるライフスタイルが、脱資本主義のライフスタイルの1つの候補であると、主張1は言っているのである。

(脱資本主義のライフスタイルの候補は上記の1つに限る訳ではなく、いろいろ複数、考えられ得るはずである。即ち、当然の事ではあるが解決案は唯一つとは限らないだろう。しかし、以後、このブログにおいては、【脱資本主義のライフスタイル】という言葉の意味は主張1で提案した昔の生活様式を取り入れたライフスタイルという1つの候補のみを限定して表すことにする。即ちこのブログにおいては【脱資本主義のライフスタイル】という言葉は私の考える解決案を限定して指し示す事にする。)

 現代のライフスタイルの悪い点、欠点をそぎ落とし、昔のライフスタイルそのものや、その構造、骨格を参考にして現代のライフスタイルに取り入れるならば、脱資本主義のライフスタイルとなって、温暖化や、うつ病、いじめ問題、労働環境や生活環境の悪化の問題の解決に繋がり、人々の生きづらさの軽減にもなり、人々の幸福度も増すと私は思う。また、それはコロナ対応にも適したライフスタイルともなる。  

 ここで【昔のライフスタイル】からイメージされる、田舎で自給自足率が高い生活を送り、冬季は熊の冬眠の如くに引き籠って生活するというのは、直観的にコロナ対応に適したライフスタイルであるとある程度、同意して頂けることと思う。

【昔のライフスタイル】というのはまさしく万能な表現であって、ポストコロナや脱資本主義のライフスタイルの様々な特徴を一言で言い表している。【昔のライフスタイル】こそが私の考える【脱資本主義のライフスタイル】の大まかな方向性を与える指針、大きな幹となる。 

この要約の場でその中から、主要な太い枝となるもの五つ、①〜⑤まで挙げてみる事にする;

① 農業などの1次産業や大工、鍛冶職人など衣食住に関わる必需品系の産業に生産と消費のウェイトを置く。それは交換価値よりも使用価値を重視する事とも言える。しかもローカルに生産と消費をする(=地産地消)。しかし情報はインターネットなどでグローバルで良い。現物やリアルはなるべくローカルに(リアルはローカルに、ヴァーチャルはグローバルに。)

※ これは日常用語を用いれば、【買い物の際には衣食住に関わる商品やサービスにお金をかけて、仕事の際にはそのような衣食住に関わる事にウェイトを置く】という事になる。

② 生活の中でDIY率を高める。昔はDIY率が高かった。個人、地域、市町村、都道府県、国あらゆるスケールで生活に必要不可欠な事柄をなるべく自給できる体制にする。

DIYとはDo it yourselfの略。自分でする、自給、という事である。

③ 複業体制にする。

①の必要不可欠な仕事と、もう1つ、自分の好きな事、あるいは、自分の道、自分の使命といったような類の事業に取り組む。(半農半Xの拡張→半Z半X 、Z=①のような人々の生活に必要不可欠な部門、X=自分の好きな物事、自分の道、自分の使命的な仕事など) また規模は小さくする。自営業や少人数で仕事をする。大きくしない。

④ 地域に分散した小規模な経済圏が成立する事を目指す。また信頼できる仲間内で③において各自が生産した商品やサービスをお互いに交換し合う。物々交換でもいいし、貨幣を介してでも良い。買い物共同体(=経済共同体)みたいな感じです。共同体の仲間の生業も自分の生業と同様に運命共同体と思って守る。仲間の生業を脅かすようならば、外部には売らない、外部からは買わない。(=エシカルな消費と生産)

⑤ なるべく手業や人力で作業する。しかし適宜、外部動力(電力)も用いる。電力は、水力発電再生可能エネルギー発電、小規模地域分散型発電(例えば、小水力発電)。化石資源はできれば使用しない。しかし、食糧生産など最低限不可欠な分野などで化石資源に使用が必要な場合は優先順位をつけて使用する。経済競争の為の使用は身を滅ぼすであろう。

①~⑤の補足や説明は、本記事の本編にて後述する。 ①~⑤でもって、私の考える脱資本主義のライフスタイルの中核をなす柱はだいたい述べた事になる。

 

 次の問題として、実際に脱資本主義のライフスタイルが世の中に広まるのか、という問題がある。それについては見込みとしては厳しいかも知れないが、以下のようなシナリオに期待したい;

先ず、第一段階として、少数の精鋭、意識高い系、勇気のある人、志のある人々が脱資本主義のライフスタイルあるいは、そういった方向性のライフスタイルを採用する。先陣を切る、切り込みの精鋭部隊さながらに。確かに経済性の低いライフスタイル故に生活において生きづらい面、困難な面も多々ありそう。しかし、資本主義経済と、それがもたらす社会システムが機能不全に陥りつつある今日、むしろ、脱資本主義のライフスタイルを採用した人々の方が優位に立てる点、生き易い面も多いと思われる。そして、総合的には良い生活、充実した生活を送れる可能性がある。学校や職場におけるいじめ問題やコロナの感染問題、生きがい、労働環境、うつ病、過労、睡眠、長時間労働、労働の対価、時間の余裕などといった点においては現行の資本主義社会に合わせるよりは、脱資本主義のライフスタイルを採用した方が適切なのではないか。  

 第二段階では、現行の資本主義社会に合わせて生きる、いわゆる普通の生活を送る人々が第一段階で脱資本主義のライフスタイルに移行した人々の生活を見て、そちらの方が良いのではないか、と考えるようになり、脱資本主義のライフスタイルに移行する人々が増え始める。真似し始める、ということである。現行の資本主義社会における庶民の苦境は、自殺率、少子化、過労、未婚率、いじめ問題などに現れている。  

 確かに脱資本主義のライフスタイルで生きる人々が少数派のうちは、多くの人々が現行の行き過ぎた資本主義社会に異を唱え、脱資本主義のライフスタイル、あるいは別のライフスタイルに移行するとは思えない。

 しかし、人間というものは隣人や知人の幸不幸に敏感で、周囲と自分を比べ、そして、現在の苦境を軽減し、幸せそうに見える人々を判別し真似をする傾向はある。それ故、脱資本主義のライフスタイルが今の行き過ぎた資本主義に合わせるライフスタイルよりも格段に充実した生を送れるように傍目から見て感じられるならば、日和見的に脱資本主義的ライフスタイルに移行する可能性はある。

 また多くの場合、人は周りの多数の真似をする傾向が強い。

 これらの特徴から、脱資本主義のライフスタイルを採用する人数はねずみ算のように拡大する可能性がある。それはちょうどコロナの感染が拡大する様と通ずる部分があるかも知れない。拡大初期は至って少数派である。

 最近、Iターンなどで田舎に移住して無農薬農業に取り組んだり、電力や化石資源をなるべく使わない薪ストーブ生活を送る人々が増えてきているイメージがある。現行の行き過ぎた資本主義に違和感を感じてライフスタイルの転換を図ったのかも知れない。私には脱資本主義のライフスタイルの先陣を切る人々のように見える。現在は少数派なので、小さな火種である。しかし近年、この火種が段々と大きな炎となってきているイメージがある。この希望の炎がもっと多様に変容、進展しながら大きく拡がってゆく事を私は願う。

 以上が私の脱資本主義のライフスタイル拡大のシナリオである。

 江戸時代末期の日本人は今後のライフスタイル、社会システムのお手本を西洋資本主義に求めた。しかし逆に、江戸時代の日本のライフスタイル、社会システムは行き過ぎた資本主義システムの弊害が露わになる現代の世界のお手本、指針になるのではないか。その考えこそが昔のライフスタイルを参考にして、取り入れる、という事なのである。

  現在は現代的ライフスタイルに偏り過ぎて、バランスが崩れ、コロナ対応のみならず、人間の生活全体についても不味いライフスタイルになっていると思う。

 人間の成人病、心の病、温暖化(異常気象)、環境汚染、労働、賃金、少子化といった現代の主だった問題はまさしく現代特有の問題である。戦後間もない日本や戦前、昔にはこれらの問題は現在ほど幅を効かせてなかった。そこで、安直ながら処方箋として昔のライフスタイルを取り入れるならば、これらの問題も解消、軽減されるのではないか。

以上、要約の要約を述べた。

 

なお、この段階で【昔のライフスタイル】という大きな幹と上記①〜⑤という主要な枝を提示した。さらに末端の枝や葉に相当する、実践の為の日常のいろいろな具体的行動や身近な行動を知りたい方は別記事の【真留句リスト 真留句はこう言った 解説版3】や【真留句のことば 真留句はこう言った 文章版5i】をご参照のこと。葉に当たるものが書いてある。ここよりは具体的な行動、実践的な行動が書いてある。葉こそは光合成を行い、生きる為に必要な部分なので、やはり大切と思う。

 温暖化や生きづらい生活など、行き過ぎた資本主義の問題を改善してゆく具体的な行動、実践的な方法はたくさんあると思います。いろんな本を読んだり、他人との会話やブログからも得られたり、生活の中で自分で編み出したり。また別の方法として、昔の人々のライフスタイルや先住アメリカ人のライフスタイルなどに思いを馳せたり、あるいは参考にする事でヒントが出てきて、芋づる式に具体的な行動が発見できるかも知れません。

 

 

要約の本編 目次

1、始めに、の続き 

脱資本主義のライフスタイルの中核をなす主要な枝①~⑤の補足と説明

2、この要約の主張の根拠  

 2-1、コロナの社会的な特徴

 2-2、2つの相対するカテゴリー、

【反資本主義的なる事柄】 と 【資本主義的な事柄】

3、経済社会宗教の概念

4、まとめ

5、要約のおわりに 

 

1、始めに、の続き

ここでは脱資本主義のライフスタイルの中核をなす太い枝にあたる①~⑤の項目のやや詳しい説明と補足を行う

① 1次産業など衣食住に関わる仕事の重視+ローカルな生産と消費  

 1次産業は農林水産業などで、人が生きる上で必要不可欠な衣食住に関わる商品、サービスを生産する。  

 昔は現代よりも1次産業の生産、消費の割合が多かった。

 そこで次のようなことをすると、昔のライフスタイルへの歩み寄りとなる;

生産時 → 複業で1次産業をする。オーソドックスなのは農業。家庭菜園と書いた方が良いかも知れない。これは商売にならなくてもいい、自給用とかでも。 コロナ下でも労働可能、生産活動可能である事も大きい。誰しも実行できるわけでは無いが、可能ならば自分の生活に何らかの形で1次産業(特に農業)を組み込むことである。  

消費時(購入時) → 消費(=買い物)も衣食住、すなわち1次産業に関わるものを中心に購入する。労働自粛、失業、転職、短時間労働などで収入は減ることが多いと思われるが1次産業の商品、サービスは安価に済む場合が多い。また高価であるにしても、それに見合った生活の質の向上を購入者にもたらすであろう。

 では、消費時(購入時)において何を節約すると昔のライフスタイルへの歩み寄りになるか? 回答→住居(終身雇用をあてにした住宅ローンはしない、ということ、田舎の空き家など利用)、光熱(化石燃料を節約)、交通(税金という形でお金を吸いまくるマイカーを減らす)、通信、保健医療(昔のライフスタイルをとれば病院にあまり行かずに済むだろう)、教育(コスパが最近は低下)、教養娯楽(本当に自分が好きな物に限定する) この消費活動は低収入、低支出と相性が良い。

コロナ対応の有効性→コロナは1次産業の生産活動をあまり妨げなかった。例えば農業は自然にコロナ3密が回避される。他方、3次産業の飲食業、観光業、芸術の生産活動を困難なものにした。

 コロナが必需品を生産する1次産業の生産活動をあまり妨害しなかった事は注目すべき事柄であるように思われる。

 

● ローカル(地産地消)  

 昔になればなるほど、よりローカルに生産、消費活動が行れていた。 ローカルに生産、消費活動が行われるほどコロナは拡散しづらい。 また生産、消費活動がローカルに行われるならば、行き過ぎた資本主義が生み出す様々な弊害も改善されそうである。(労働や資源の搾取、働き甲斐、生きがいの問題など)

 

例;  野菜はなるべく自分に近いところで生産されたものを使うほど、昔のライフスタイルになる。一番近いところは自分で育てた野菜。いわゆるDIY、自給自足。買い物するなら自分の街、地域で生産された八百屋さん、直売所や朝市の野菜が最善。それが無理ならば、八百屋さん、スーパーで自分の都道府県産の野菜。それも無理なら国産の野菜。できれば輸入品は避ける。 自分で野菜を育てるのが難しい方もいるので、各人が自分にあったバランス(近⇔遠、あるいは昔⇔現代の)で野菜を入手する。

 コロナは標語的には 【ヴァーチャルはグローバルに、リアルはローカルに】 ※ 言い換えるならば、【情報はグローバルに、現物はローカルに】 ※ 英訳; 【Real may local,virtual may global.】 を人類に提案してるのではないだろうか。

 

② DIY(=自分ですること、自給自足)

 上記、ローカル(地産地消)の自分に近いところの極限は、自分の使う(消費する)商品やサービスの作成(生産)を自分ですること、即ちDIYである。

 このDIYは昔のライフスタイルのキーワードである。昔は現在に比べDIY比率が高かった。  身近な事では自炊も調理のDIYである。コロナで外食が減り、自炊する人が増えた。これは、人がコロナ対応すると自然にDIY、即ち昔のライフスタイルを取るという実例になる。  自分の生活の中で商品の作成やサービスをDIYする事柄が増えるほど昔のライフスタイルに近づくことになる。  

 逆に商品やサービスをお金の支払いで済ますほど現代的なライフスタイルに近づく。

 コロナで社会システム、経済システムが一部機能しなくなった。昔のライフスタイルをとってDIY比率が高いほど経済システムの混乱の害は受けにくい。(DIY比率が高いとは経済システム、分業システムからの独立性が高い=依存割合が低い、ということだから。ところでDIY的生活とはお金に頼らない生活、とも言える。金(ゴールド)の高騰はおカネの信用力が落ちていることを表している。金(ゴールド)を買うのも良いがDIY用の商品、サービスを購入してDIY力を高め、おカネにあまり頼らない生活を目指すのも1つの方法である。)

 また、労働自粛や勤務時間の短縮、失業、巣ごもりなどで収入(お金)は減るが、DIYする時間は増える。コロナとDIY(昔のライフスタイル)はこの点においても敵対関係ではなく親和性とも呼べるものがある。

 コロナ以前に長時間労働で得たお金で買っていた調理(=外食)などの商品、サービスを、コロナ以後に短時間労働と減った収入のもとで自炊(DIY)した時の方が人々の幸福度は高かったのではないか?と思う。

 またこのDIY、自給自足は今までは個人に対して述べている事であるが同時に地域、市町村、都道府県、国に対しても順次、拡張、移調して読み替えられたい。

 即ち、それぞれの圏内で食糧や衣食住に関わる生活の必需品をなるべく確保、生産できる体制を整えるのが望ましいと私は考える。輸入など外部依存はコロナ下では、なるべくあてにしないのが良いと思う。

 

③ 複業と、半Z半X

● 複業  複業はコロナ以前からある程度話題になってた。コロナ下では、さらに注目されるキーワードとなった。

 コロナは飲食業や観光業の生産活動を行えなくし、労働者を遊休状態にした時もあった。自治体によっては、このコロナ離職で職を失った人々に、人手不足の1次産業の仕事、農業、林業、漁業などの仕事を斡旋したりした。一次産業は屋外労働のケースが多く、三密を回避し易くコロナ対応には有利だったからである。

この事例は、例えば飲食店と農業の複業体制にしていれば、コロナ流行時に飲食業の生産活動が出来なくなっても、その時に農業の生産活動を行うことで完全な遊休状態を回避できる、という事を示唆している。即ち、複業体制にする事でコロナの影響で完全に生産活動が出来ない状態に陥らないようにリスク回避、リスク分散している、とも見做せる。

 また飲食業と農業の複業については次のような利点もある。それは、料理人が料理を追求すると、どうしても食材の質という問題と向き合う事になる。農業を複業にする事で良質の食材の調達や食材への知見が増すことで料理の道に進展をもたらす可能性もある。実際、料理を追求する姿勢の強いシェフはコロナとは無関係に自らが納得する食材の調達や知見を深める為に農業や家庭菜園に取り組み始めるというケースをしばしば耳にする。

 とはいえ、飲食業は長時間労働+立ち仕事で激務である。また農業も播種時期など作物の特性に合わせて時間に追われる作業になったり、農園の規模によっては大変な作業となる。それ故、飲食業と農業複業というのは時間的、体力的、精神的に両立の厳しい点もある。農業の規模を小さくしたり、飲食業の営業時間を短くしたりして実現を目指す事になるだろう。

 また、昔は複業のケースが多かった。宮大工を本業としつつも、自らの家族の最低限の食い扶持を自給する為の田畑を持って農業も行っていた。宮大工は寺社以外の一般家庭などの家屋の建造に携わる事は禁じられていたのもあり、社殿の改築、修築などの仕事がタイミング的に無い場合は宮大工の仕事は一切、行えない期間が生ずることもある。そんな時でも最低限度の生活を維持する為の複業のようである。  

 資本主義が進むと資本主義的競争に優位な専業が普通となった。分業が行き過ぎた状況になったのである。しかしコロナ下では、進み過ぎた分業化、専業化された労働形態が裏目に出てしまった。特に飲食業や観光業においては。

 コロナに逆らわずに生活する、と考えると複業の選択に行き着くが、これは脱資本主義のライフスタイルとしても推奨される選択となる。 

● 半Z半X    

 半農半Xはかなり理想的なライフスタイルと思う。これの一般化である半Z半Xが私の理想に思い描くライフスタイルである。ZとXでもって複業体制にする。(注;半Y半Xとは名前は似ているが別物。説明は後述。)

半Z半X・・・Zは農業、大工、織物師、鍛冶屋さんといった1次産業的、必需品を生産する仕事。これはコロナ下でも労働可能、生産活動が可能な仕事でもある。

 他方、Xは自分の好きな事、仕事、自分の道と言えるような事、使命的な仕事、やりがいを感ずる事の出来る仕事、その仕事をしてる最中は幸せであるような仕事。労働に没頭できる仕事(=労働しながらマインドフルネス!) このZやXの産する商品、サービスは自給用であっても、他人の労働との交換用(大雑把にはお金と交換できる商品、サービス)であっても、どちらでも良い。

 これは生産(労働)に関する事であった。  他方、消費(買い物)について→生きていく上で必要なのに自分で自給できない商品、サービスはなるべく他人のZやXから労働の交換によって(≒お金の支払いによって)入手する。それが不適当な時は旧来の資本主義的市場の商品、サービスを購入する。

 即ち、自分が労働中は没頭できる、幸福感を感じれる仕事をして、商品、サービスを生産する。その商品、サービスを自分で使って生活したり、または他人とお金などで交換する。

 そして自分で生きていくのに必要だが自分では生産できない商品、サービスを、他人のXやZで生産された商品の形でお金などの方法で交換するのである。

 しかし、鎖国中の江戸時代の人々の多くの人はこのような生活を送っていたのではないか、と思う。

※  注1: もちろん、無理に複業体制にする必要はない。Zのみ、あるいはXのみの専業体制が自分にマッチしてると感じ場合はそれで良い。

※ 注2: ここに出て来た【半Z半X】と【コロナ以前ー15A 人生三分の計】に出てくる【半Y半X】は言葉は似ていますが異なる意味を持ちます;

X・・・ ●好きな仕事、趣味、  ●使命的な事業、   ●魂、心が欲する行動

Z・・・ 衣食住に関わる必需品を生産する仕事、1次産業的な業。

具体的には家庭菜園、農業、林業、漁師、猟師、畜産業、衣服作成、大工、鍛冶屋さん、配管工、瓦職人など

Y・・・嫌々でも良いので生活費を得る為に会社勤めする仕事、アルバイト。この会社勤めの仕事は精神的、肉体的エネルギー、そして時間を消耗し過ぎない仕事にすること。エネルギーはXの注ぐようにする。収入は最低限の生活費を得れれば十分。あとはなるべくDIY(代表的なのは自炊。あとは家屋、配管などの簡単な修繕などを想定されたい)などで節約する。

 

【半Z半X】は真留句が1つの理想と考えるライフスタイルである。

 他方【半Y半X】や【人生三分の計】(※ コロナ以前ー15A 人生三分の計 参照)はその理想的な【半Z半X】に持って行くための過渡戦略、中途段階のライフスタイルである。しかし、この半Y半Xは不安定、変化の激しい時世においては有効なライフスタイルである。その柔軟性故に。総合格闘技柔術で言うところのガードポジションのようなスタイルである。

 

④ 小規模分散地域経済圏と買い物共同体  

 時代を遡るほど、経済圏、あるいは生活圏は小規模になる。それは即ち、時代を経るごとに経済圏が拡がってゆく事を意味する。即ちグローバル化である。

 私は昔のように経済圏がなるべく小規模な方が良いと考えている。もちろん、どうしても入手できない必要なものは、逐次、遠距離のところから入手しても良いが。しかし、なるべく近場で済ますべきである。特に現物のやり取りに関しては。

 

 ところで、資本主義を克服するものとしてマルクスが提示したのは共産主義であった。

 今後、我々が採用すべきは資本主義か、あるいは共産主義か、あるいはまた別の何かなのか?

 私がこの度、提示した【脱資本主義のライフスタイル】は【脱資本主義】という言葉になっているものの、いちおう資本主義の枠組みの中で行われる事を想定している。即ち、私有財産制の中で行われるライフスタイルである。

 しかし、それは小規模な共産主義の中で行われるとしても良い。

 買い物共同体、あるいは地域に分散した小規模な経済圏が仲間うちや経済圏の住民を運命共同体と思い、お互いの生業を守ろうとしてエシカルな消費(倫理的な消費。欲望や安値に踊らされて買い物をしない事)でお互いを支え合うならば、資本主義の枠組みの中でありながら、資本主義特有の競争などの資本主義下の経済法則が成立しなくなる。

 性善説を採用して仲間うちで自発的なエシカルな消費、買い物が行われると期待されるならば資本主義の枠組みで行われよう。

 しかし、性悪説を採用して、それが無理だと考えて外部からの規制、強制が必要だと考えるならば小規模な共産制を採用すれば良い。この場合は小規模な共同体内で消費や買い物のルールを強制するのである。

 しかし、この小規模な共同体内における生活、ライフスタイルというのは資本主義の枠組みにおけるエシカル消費をするのと、共同体内における小規模な共産制を採用するのは実質、殆ど変わらないと私は考える。共同体の仲間うちである他人の私有財産、生産手段も自らの生産手段と同様に生業の為に守るべきもの、と考えるならば、あたかも共同体内の共有財産のようにも思える訳で殆ど区別がなくなるのではないか。

 ソ連などが試みた大規模な共産制の実施は、独裁や強権政治などの悪い面が出やすかった。しかし小規模な共産制では、それらのデメリットがないというイメージが私にはある。

 即ち、小規模な共同体、あるいは小規模な経済圏という極限においてはエシカルな資本主義と共産主義は実質、一致する、というのが私の見方である。

 そして、それが正しい見方かは私自身も分からない部分もあるが、もしある程度でも正しいとすれば、それをご縁と思い、そのやり方を採用、あるいはその方向性を目指すのが妥当と思われる。先ずはその方向に歩んでみようではないか、の精神である。

 我々は買い物をする度に、その方向に歩みを進めるか、あるいは現行の行き過ぎた資本主義の地点に歩むか、している事となる。昔ながらの職人の手業の商品や地域の個人営業のお店で買い物をすれば前者であろうし、近場で購入できる商品をわざわざネット通販で購入したりすれば後者となろう。

 

⑤ 人力作業と電力に関して

 人力作業、肉体労働の割合が昔になるほど大きくなる。他方、現代になるほど人力作業、肉体労働は減って機械作業に取って代わることとなる。

 人力作業は一見、避けたい、機械と石油任せにして楽ちんしたいと考える人もいる。しかし様々なメリットがある。

・身体を動かす事はストレス軽減になる。メンタルヘルスで食事、睡眠、運動が大切とよく言われる。ジョギング、散歩、ウォーキング、スポーツ、人力農作業などはそれ自体ストレス軽減になる。汗とともに心の毒(=ストレス)も体の毒も体外に排出される。また不眠、睡眠障害の1つの原因が身体を動かさない事によるエネルギーや元気の余り過ぎにある。身体を動かしてエネルギーを消費させる事で、快眠が導かれる。

 

・手業の効能

機械で大量生産されるはずの商品を人の手で生産する事は生産者にとっても消費者にとっても有益である。

 先ず消費者にとって、手業の商品を購入する事は生活の質を大きく向上させる。食べ物にせよ、器など生活用品にせよ。工場の大量生産品に比べて高くても、実はその価格以上に生活の質の向上をもたらしてくれる場合が多いのでは。我々はもっとこのような消費というか買い物を推進すべきであろう。

 次に生産者にとって。手業の向上は生きがいをもたらす。例えば、刃物鍛治や、陶芸家、農作業者などの技術の向上は生きがいにもなるし、自己肯定感の向上にも繋がる。また手業に没頭してる間は幸福感や充足感に浸れるのも大きい。

 手業が廃れ、手業の必要な仕事が減り、手業の身につく仕事が減った。コモディティ的仕事、誰でも出来る仕事が増える現代においては、仕事にやりがいや、あるいは仕事を通じて生きがいを持つ事が難しい世の中になっている。

 それだから、消費者としては、そのような手業の生産形式を支持する意味でも、安い工場の大量生産品よりも、気持ちのこもった手業品を購入するのが良いと思う。消費者の時の買い物が、生産者としての自分に跳ね返ってくるのである。

 また、男性の生きづらさの軽減にもなる。もちろん女性は主婦家事と仕事、場合によっては子育てと、ワンオペで忙しく厳しい環境にある。

 他方、だからといって男性が楽かと言えば、そうでも無い。ひと昔前に比べ給料水準も減った。安い給料では奥様に頭が上がらない。未婚者の多さや奥様が働いて共働きせざるを得ない状況は、そのまま男性の地位の衰退を意味する。

 定年後、男性は退職したにも関わらず、奥様はパート継続+家事ともなれば、夫婦ともに居心地の悪い状況になり得る。

 女性も忙しく大変だが、男性も肩身の狭い状況になり易い今日この頃なのではないだろうか。

 この状況の一因は、男性向きの肉体労働が機械作業にとって変わられて女性向きの事務作業やサービス業などが現代において増えたからであると私は考える。

 即ち、肉体労働に適性のある男性と現代の社会システムのギャップである。これは一般的には人間の動物的部分、原始的部分と現代文明のギャップによって引き起こされるマズい面の一例となる。

 ここで脱線するが、この人間の原始的部分と現代文明のギャップこそが、現代の様々の問題の源泉になってる場合があるので幾つかの例を挙げてみる。この相い容れぬ両者が化学反応を起こす事で大きな害が生ずるケースが多々ある。

 

例1、人間の原始的部分としての闘争本能と、現代文明の核兵器。あるいは、闘争本能と、現代的な戦争の兵器。これは化学反応の結果、核戦争、人類滅亡、地球破壊が引き起こされる。

 

例2、前述の人の動物的特性としての男性の肉体労働適性及び外仕事する場合が多いことと、現代における肉体労働の減少。

 

例3、男女問わず、動物的特性として、身体をたくさん動かすのが普通だった人間と、現代における機械作業で肉体労働が奪われた事。これは、化学反応の結果として運動不足とそれによる病気、睡眠不足、ストレスが発散されない、などを引き起こす。

 

例4、人間の動物的特性として日中行動して、夜間は寝るという事と、現代における電力利用や夜間労働。これは、化学反応の結果、労働者の体調不良や睡眠障害が引き起こされる。

 

脱線おわり。

脱線したが、話を元に戻す事とする。

 手業や肉体労働を復権させる事で再び、男性にとって生きづらさが軽減されると私は考える。男性が動物的適性をもつ肉体労働が復権する事で男性の生きづらさが軽減されるかも、なのである。

・前述した事ではあるが手業の推奨は機械作業の完全な排除を意味する訳ではない。私は必需品の生産量に問題が生じる場合は適宜、機械と電力などの外部動力は用いても良いと考えている。ポル・ポトと同じではないので誤解されませぬよう。

 しかし、とにかく手業、肉体労働を多くすれば上述のメリットのほかに勿論、化石燃料や電力の節約が挙げられる。主要なデメリットは生産量が減る事である。しかし、その場合は前述したように機械や外部動力で補えば良いと私は思う。

 

電力に関する言及→未記入。いずれ、改訂時に書くかも。

 

なお、その他いろいろな具体的行動は【真留句はこう言った 文章版3i 真留句リスト】ご参照のこと。

 以上のようにコロナ対応で昔のライフスタイルを取り入れることは、そのまま人の生活の質の改善、幸福度の上昇にもなるし、環境問題対策、異常気象抑止にもなる。

 コロナはコロナ対応を人類に迫ることで、持続可能なライフスタイルを強制、エンハンス(助長)してるという見方もできる。

 

2、この要約の主張の根拠  

 今まで、【昔のライフスタイル】が【ポストコロナのライフスタイル】や【反過剰資本主義のライフスタイル】の指針となる事を主張してきた。この2章では、その理由を説明する事にする。

2-1、コロナの社会的な特徴

先ずはコロナの社会的な特徴を挙げてみよう;

● 資本主義的に優位な、都市、3次産業(観光、飲食、サービス業)はコロナ下での活動、生産活動は困難である。

● 他方、資本主義的に不利な、田舎、1次産業(農林水産業、大工)はコロナ下でも活動や生産活動が容易である。

● また、同じ飲食店でも都市部、チェーン店、従業員が多い、大きい店舗、設備投資が優れてる(=借金の賜物であることがある)、人口が多い立地(=家賃が往々にして高いものである)、経営手腕やマネジメントに優れ、といった経済競争に優位な、即ち資本主義的競争に優位な属性の多いお店の方がコロナに耐えるのが困難である。

● 他方、郊外、パパママ経営(家族経営)、小規模店、不利な立地(=家賃が安いことが多い)、自宅兼店舗、不器用、経営分析やマネジメントは行ってなさそうでフィーリングと勢いで営業をしてそう、といった経済競争において不利な経営形態、即ち資本主義的に低位なお店の方がコロナの影響に耐えるのが容易である。

 大雑把に言えば、商売上手な飲食店ほどコロナに耐えるのは困難であり、 他方、商売下手、金儲けが下手な飲食店の方が、コロナに耐えやすい。

  以上より、

【コロナは社会的には反資本主義的属性(あるいは反資本主義的影響力)を持つ】

と考えても良いように思われる。実際にコロナは経済活動を妨げているのだから、そう言っても良いだろう。 だとすれば、

【反資本主義的ライフスタイルは、コロナ対応のライフスタイルにもなる。】

と考えてみるのも良さそうである。大雑把には

【金儲けにならないライフスタイルは、そのままコロナ対応の有効なライフスタイルになるかも知れない。】

とも言える。

 【反資本主義的ライフスタイル】の典型的なものであり、かつ様々な特性を兼ね備えているのがこの要約でのテーマ【昔のライフスタイル】である。【昔のライフスタイル】が直観的に資本主義的に低位なライフスタイル、即ち反資本主義的ライフスタイルであることは明らかである。(【真留句はこう言った 文章版2i 詳しい説明】で妥当性のしっかりした説明をする。また、反資本主義的ライフスタイルが必ずしも脱資本主義のライフスタイルと言えるかどうかは定かではない。しかし、脱資本主義のライフスタイルというのは反資本主義的性質を備えていると考えるのは妥当そうである。また今回の議論において数学的、論理的な厳密さは求めない事にして、読者には大きな心で【脱資本主義のライフスタイル≒反資本主義的ライフスタイル】を受け入れて頂きたい。)

 【昔のライフスタイル】はコロナ対応のライフスタイルの典型例と言える。

  ところで、コロナが反資本主義的であるということから、真留句がコロナ以前から説いていたライフスタイル、生き方は、そのままコロナ対応、ポスト・コロナにおけるライフスタイルになり得るのである。というのは、真留句はコロナ以前から、行き過ぎた資本主義のバランスと均衡を取り戻すべく、資本主義を抑制するようなライフスタイル、即ち、反資本主義的なライフスタイルを説いて来たからである。

 

2-2、二つの相対するカテゴリー、

【反資本主義的なる事柄】 と 【資本主義的な事柄】  

 先の2-1、コロナの社会的特徴における考察から【コロナは反資本主義的属性】を持つことがわかった。 そこで、【反資本主義的な事柄】と【資本主義的な事柄】という2つの相対する概念を考えることにする。そして、幾つかの分野の事柄をどちらのカテゴリーに属するか列挙して書き下すことにする。 なお同じローマ字の事柄は対応し合う事柄で正反対の事柄である。

【反資本主義的な事柄】  

※ 反資本主義的≒自然的 とも言える。

a 昔(のライフスタイル)

b ローカル (=地産地消)  

 b-1  DIY

c 複業

d 1次産業  

 d-1 農林水産業

e 田舎

f 環境保全、持続可能性

g コロナ

h 効率が悪い

i 生産性 小

j 使用価値  

k 人間 

l 美 

 

【資本主義的な事柄】  

a 現代(のライフスタイル)

b グローバル

c  分業(=専業)  

d 3次産業

e  都市  

f 環境汚染、温暖化、異常気象  

g コロナワクチン?  

h 効率的    

i 生産性 大  

j交換価値  

k 人間の作り出した環境  

l 醜

 

なおこの区分けの妥当性、理由は【真留句はこう言った 文章版2i 詳しい説明 】でそれぞれの事柄を詳しく考察する際に述べることにする。

ところで以下のような性質がある。 同じ【反資本主義的な事柄】に属する事柄同士は親和性が高い。 同様に同じ【資本主義的事柄】に属す事柄同士は親和性が高い。 他方、【反資本主義的事柄】と【資本主義的事柄】、それぞれ別のカテゴリーに属する事柄は往々にして対立、敵対することが多い。

例1;同じ【反資本主義的な事柄】に属するa 昔のライフスタイル、b ローカル、d 1次産業、g コロナ、f 環境保全は親和性が高く連動している;

昔にさかのぼるほど、生産活動、消費活動においてローカルの度合いが強まり、かつ1次産業の占める割合が高くなる。そして社会的コロナ対応も容易になり環境負荷も軽くなる。

例2; 【反資本主義的な事柄】に属するgコロナと【資本主義的な事柄】に属するb グローバル、c  分業(=専業)、 d 3次産業、 e  都市は対立、敵対関係にある;

コロナはグローバル化を抑制し、3次産業(特に飲食業、観光業、金銭で生計を得る芸術)の生産活動を困難にし、それを専業とする人々の生計に打撃を与えた。また、コロナは都市での対応は田舎に比べ不利である。

例3; 【反資本主義的な事柄】に属するf 環境保全は【資本主義的な事柄】と対立するので経済活動の進展と共に一般には悪化する。

例4、【反資本主義的な事柄】に属するk人間は【資本主義的な事柄】と対立する。

資本主義が過剰に進むと人間は悪い影響を被る。 人間に限らず、生物の肉体や精神は環境にゆっくりと適応するものである。人間の心と身体は基本的に数万~数千年前の狩猟や農業で身体を動かして来たライフスタイルと相性が良い。まだまだ人間の身体と心は【反資本主義的、あるいは自然的】なのだ。

 人間がここ2,3百年に自ら作り出した環境、身体をあまり動かさないライフスタイルと人間の心と身体は相性が悪い。ここ2,3百年、資本主義によって生み出されたライフスタイルに人間の心と身体は適応出来ないのである。

 人間は過剰な食料、睡眠不足、身体を動かさない、社会的過ぎる(四六時中、相性の合わないかも知れない同僚と集団労働にあたる)のには向いてないのである。

 これらは少子化うつ病、成人病、過労、自殺、アレルギーなどを引き起こしている。

例5、l 美醜について  一般に資本主義が進展するほど醜いものが増え、美しいものは減少する;

 建築物;西洋、東洋、日本問わず、寺院、教会といった古来の建築物は、ビルに代表される現代的建築物に比して美しいように私は感ずる。

 都市;資本主義の進んでない都市の方が資本主義の進んでる都市より美しい気がする。 (例;モスクワとニューヨークや東京、テレビ映像で観た感想です。)

作業機械;昔の鉈、のこ切り、鎌で作業する音は、ガソリンエンジンで動く、草刈り機、チェーンソー、コンバイン、トラクターのエンジン音より美しい。 もしかしたら人間もそうかも知れない。

 

3、 【経済社会宗教】の概念について

 現在、人類、地球が抱える大きな問題である、温暖化、異常気象、南北格差、核、少子化(日本)、人の幸福の減少といったものの解消、解決は【行き過ぎた資本主義】の延長上にある科学技術の進化、経済成長、あるいは現行の社会システムの延長上によって行われるとは考え難い。

 それらの問題や【過剰資本主義】に歯止めをかける1つの有力な方法として【脱資本主義のライフスタイル】を述べて来た。(有力な1つの方法としたが私はこれ以外、思い浮かばない ※ ただ、コロナ以前に過剰資本主義を止める術などないと私は考えていたが大自然はコロナという形の想像を越えた事象、毒は毒を以て制す的な方法で経済活動を鈍化させた。それゆえ、同様に私などには想像すらできない何らかの新社会システムは存在するのかも知れない)

 この【脱資本主義のライフスタイル】を人々が採用する事で【過剰資本主義】を抑制するのは【経済活動における人間1人1人の心、考え方の変化、そして、それら心の変化に端を発する生産、消費活動といった行動の変化】に託すという点でボトムアップ的な方法である。

 このボトムアップ式は、資本主義に変わる新たな新社会システムが発明されて各国で採用されたり、コロナの影響の如く上からの強制力を持つような、トップダウン的なもので【過剰資本主義】を抑制するものではない。

 前者のボトムアップ型の社会変革は草の根活動的なもの、という点では宗教の如き性格を帯びている。

 かつて、貨幣経済が今日ほどまでに発展していなかった、無秩序と混乱が横行する時代に人類の苦しみに対処し、生活に指針を与える宗教が起こった。仏教、キリスト教イスラムゾロアスター教などである。

 宗教は心に大きな影響を及ぼし、日常の生活様式に様々な指針を与える。

 貨幣経済が発達した現代は、日常生活は古の昔よりも秩序的なものになっている。しかし経済社会の方は古の昔の日常生活のように混乱、無秩序、経済的暴力が横行しているように思われる。

 このような時世だからこそ、かつて古の昔の日常生活に宗教が指針を与えた如くに、経済社会、経済活動に指針を与えるような【宗教の現代アップグレード版】あるいは【経済活動、経済社会における宗教】のようなものが経済社会に秩序をもたらし、経済的暴力の横行を取り除くために有用なのかも知れない。

 そのような経済における宗教を仮に便宜上【経済社会宗教】と呼ぶことにする。

【経済社会宗教】と言う名を用いたが、役割は経済社会の中での生活、即ち消費(=買い物)、生産(=労働)などといったものの仕方に指針を与うるのみである。

 宗教における神の存在などの役割はもちろん担わない。

 別の言い方をするならば、釈迦やキリストが現代をもし目の当たりにするならば、買い物(≒消費活動)、労働(≒生産活動)といった経済活動に関しても何らかの言及をされたはずであると私は考える。その言葉に近いものを推測し、目指し再現した指針が【経済社会宗教】とも言える。

  上記要約や、真留句はこう言った 本編や文章版では、消費(=買い物)や生産(=労働)といった経済活動における、お薦め行動が語られている。

 その意味では【真留句はこう言った】はある1つの【経済社会宗教】の経典とも言えて、真留句はその伝道者の1人とも言える。

 他のブログ、セミリアイヤ系のブログなど見させて頂くと、【経済社会宗教】の優れた教えを披露されてる方を見かける。その方々もご本人にその自覚があるのかは定かではないが、【経済社会宗教の伝道者】の1人と言えるかも知れない。

 現在、セミリタイヤのライフスタイルの方が少なくとも旧来の過剰資本主義的ライフスタイルよりも幸福度が高く、適したライフスタイルのように私には思われる。(私はセミリタイヤ系の方の多くが収入源に挙げる不労所得には懐疑的、反対ではあるが。先ず「自分がやられて嫌なことは、他人にもすべきではない」はゴールデンルールと言えそうなので採用する、仮定することにする。誰かが不労所得を得るという事は、他の誰かが労働の正当な対価を得ることができないことを意味する。労働の正当な対価が得られないこと、低賃金が最近の問題の世の中で、不労所得を追い求めるのはミイラ取りがミイラになる、という部分と先ほどのゴールデンルールに抵触することだと私は思う。)

 このように、現在、旧来の資本主義のほころびが大きくなって、新たなライフスタイルへの転換が世界で始まっているような気がする。    かつて様々な宗教が人々の生活に規範、秩序をもたらしたように、今日の混乱、無秩序、経済的暴力が横行する経済社会に様々な正しい【経済社会宗教】が人々を苦しみから解放し幸福と良い意味での混沌をもたらす事をここに祈る。 

(※ 良い意味での混沌 = 発展途上国、第3世界や昔の日本の市場(いちば)や屋台形式のお店などがある場のイメージ。カオスながらも活気に満ちた場。)

 

 4、まとめ  

ここでは以上まで書いた事柄をまとめたり、補足事項を書いてみる事にする。  まずは繰り返し、まとめとなる以下の主張をする;    【1】・・・次のライフスタイルは、だいたい同じライフスタイルになる、一致、重複する部分が多い、大雑把には異名同ライフスタイルとなる; ポストコロナのライフスタイル、反資本主義のライフスタイル、温暖化抑制、持続可能な(SDGsな)ライフスタイル、現代の人間の精神的苦痛、生きづらさを軽減し幸福度が高いライフスタイル

 以上の異名同ライフスタイルをまとめて【脱資本主義のライフスタイル】と呼ぶ事にする。

 ここでポストコロナのライフスタイルとはコロナ対応に適したライフスタイルの事であり、反過剰資本主義主義のライフスタイルとは、資本主義を抑制するようなライフスタイルである。

 驚くべき事に緊急の課題であるコロナ対応に適したライフスタイル、そして将来、コロナ問題以上に大きな問題をもたらすであろう温暖化、異常気象、それを抑制するようなライフスタイルが大雑把には一致しており、なおかつ、現代的生きづらさを軽減し幸福度を高めるライフスタイルでもあるのである。

次に【脱資本主義のライフスタイル】の具体的な形を与える次の主張をする;

【2】・・・【脱資本主義のライフスタイル】の大きな方向性は【昔のライフスタイル】で与えられ、その中でも特に大きな柱となるのは、

● 消費と生産は、ローカルに行われる。即ち、地産地消である。

● 消費と生産は衣食住に重点を置く。

 即ち、1次産業(典型的なのは農業)を複業に組み込むこと。そして他方、消費時は1次産業の商品にお金をかけること、ウェイトを置く。

 ※ 上記の2つを因数分解的にまとめた表現にすれば、 【一次産業にウェイトを置いて、ローカルに生産、消費を行う。】 となる。

● DIYを推進する。 である。  

【脱資本主義のライフスタイル】とは【昔のライフスタイルそのものや、その構造なり骨格を基本に使って、さらに現代技術のうちの有用で弊害の少ないもの取り入れたをライフスタイル】というものになると思われる。昔のライフスタイルを適切な取捨選択で現代版にアップグレードするのである。

 しかしながら、いきなりそのような【脱資本主義のライフスタイル】の状態に持って行くのは難しいので過渡的に当面は逆に弊害の多い現代のライフスタイルを核にしつつ昔のライフスタイルを取り入れる、といったものになるだろう。

 (※ 過渡戦略については 真留句はこう言った コロナ以前ー15A 人生三分の計もご参照のこと。)

 ここで時間的な各段階における混合比率、割合、取捨選択は各個人の置かれた状況、環境に応じて人それぞれである。

 昔のライフスタイルと現代のライフスタイルの狭間で度合いを加減して、ちょうど良い新ライフスタイルのバランスを見つけることは、あたかも料理でちょうど良い塩加減を見つけるのと似てるかも知れない。

 そして順次、だんだん昔のライフスタイルの部分を増やし、現代的ライフスタイルを減少させるのである。

 単に昔の生活に戻るのではなく現代にある科学技術や文化のうち、有用なものは残し、無駄なもの、弊害の多いものはそぎ落として、捨てて、昔のライフスタイルを取り入れるのが良いと思われる。

 ここでコロナの託宣とも言える2つのメッセージを書いて置くことにする、どちらも既に述べた事である。

【ヴァーチャルはグローバルに、リアルはローカルに】

【衣食住(特に食べ物)に生産、消費のウェイトを置く】

これはまた似た別の表現をすれば

【情報はグローバルに、現物はローカルに】 【交換価値から使用価値へのウェイトの転換】(経済学用語を用いるならば) となる。

 

 この記事も終わりに近づいてきた。ブログとしては長文をここまで読んで下さった事に感謝したい。

 ここまで、お読みになって、概ね、内容に同意されるならば、全てが実践可能ではないだろうから、実践可能なものを選択して、部分的にでも実践される事を願う。それは私の提示する方向性に少しずつでも歩みを進める事を意味する。それは、経済的には貧しい道かも知れないが、現行の行き過ぎた資本主義とそれに基づく社会システムが綻びを見せ始めている現代において、採用者に有利な道、助けとなる知見を提供しているものと私は信じている。おこがましくはあるが。

 またこの記事やブログの内容における問題点や欠点、抜けてる点のご指摘をコメント下されば幸いに思う。また、その際には、それらの問題点などの解決策までも考えてご指摘下されば、なお有難い。

 またブログの内容に概ね賛同できない、という場合でも、せめて、部分的にでも役立つ部分があれば幸いである。賛同しかねるのに大分の部分をお読み下さった事は有難いことである。

 いずれにせよ、何らかの形でこの記事やブログが読者の知見の補助になったり、役に立つならば幸いである。

 

5、要約のおわりに  

例え2020年末現在におけるコロナの災厄を科学の力で抑えたとしても、今後、また高い確率で第2のコロナが世界に対峙すると私は考えている。

 ここで第2のコロナというのは、またウィルスかも知れないし、超異常気象など別の災厄かも知れない。人類、社会のライフスタイルに大きな影響を与えるような、広義の意味での大事象(大きな事象、イベント)という意味で【第2のコロナ】という言葉を用いている。

 現在の資本主義のレールの上で、その場限りの対処を科学の力で行う事はイタチごっこで限りが無く、その度に人類は大きく疲弊するだろう。

 だから、私は根本的に人類がライフスタイルを転換しない限り、ずっと何度もいろんな災厄に姿を変えたコロナに対峙し続ける事となると思う。

 そのコロナの輪廻から脱する方法は決して未知の方法ではなく、この要約で述べ続けて来た【ポストコロナのライフスタイル】≒【脱資本主義のライフスタイル】≒【昔のライフスタイル(の現代アップグレード番)】であると私は考える。  これらのライフスタイル、あるいは他の適切な方法があるならば、それを、世界が、国が、コミュニティが、家族が、個人が、同志が、採択する事を祈る。

 

初投稿日 2020年秋

最終改訂日 2023年1月22日

真留句通信 2022年4月

真留句通信 2022年4月


最近、更新しておりませんでした。心優しき読者の中には身を案じて心配して下さってる方もいらっしゃるとも思い、無事であることをご報告する次第です。

 忙しく時間不足で更新できない部分、あります。「忙しい」とは心が亡くなると書きますが、何となく、的を得た漢字の作りだな、と感じる日々も長いものとなっております。

 

 


☆ 以下は2021年8月の真留句通信


〇 東京オリンピックについて

 

 私はオリンピックの開催は反対です。

 テレビも家に無いことですし、オリンピックに興味がそれほどある訳でもなく、観てません。

 

 しかし開会式の選手入場時にゲーム音楽が使われたとのこと。この事は私の心を動かす部分がありました。ネットニュースを見るとドラクエFFの音楽が使われ、「胸アツ」「感動」「鳥肌」とかの感想多いそうです。

 それまでは中止、反対の意見が多かったネットでも、肯定的な流れが生じたとのこと。

 選曲や、各曲のヴァージョンも練られてるみたいでマニアも絶賛のようです。

 確かにゲーム、特にRPGというのはゲームの世界を疑似体験しているわけですから、使用されたゲームをプレイしたことのある人なら強く心を揺り動かされるのも無理はない気がします、かく言う私もそのひとり。

 

  脱線しますが、私が使われたゲーム音楽の中で知ってたのは、ドラクエFF、サガメドレー、グラディウスのみです。モンハンとかは知りません。

 

 ただドラクエ、FF、サガシリーズはかなり時間をともにしたゲームなので私も感慨深いものがあります。 開会式にゲーム音楽を使うアイディア、一本取られた、という感じで、アイディアを称えたいです。

 

 さて私は特にサガシリーズの音楽が好きで、特にサガフロンティア2(以下サガフロ2)の音楽が好きです。ゲーム音楽の中でも1番好きかも知れません。

 

 音楽、ブログでいろいろ書く割にあまり詳しくないのですが、サガフロ2は同じ音形(モティーフというのでしょうか)で幾つもの曲が作られています。ある曲で用いられた音形がテンポや音程、音色を変えて別の曲に登場する。それがどうも、心地良さというか、聴いていて耳に馴染むような気がします。

 

 サガフロ2はそれまでのゲームボーイサガシリーズロマンシングサガシリーズとは別の方が作曲担当のようです。

 しかしゲームボーイサガシリーズロマンシングサガの音楽も私は好きです。

 特にロマンシングサガ2の音楽もかなり好きです。実のところサガフロ2と甲乙つけ難いといいますか。ロマサガの音楽の方が好きという人も多いと思います。

 サガフロ2とロマサガ2では音楽の方向性が違うような気がします。そして、どちらも良い。比べる事の出来ない魅力がどちらにもあります。

 ロマサガ2の音楽は感情、心に響くような気がします。七英雄とのバトルシーンの音楽なんかは圧巻です。

 対してサガフロ2の音楽はロマサガ2ほど感情や心に訴える部分は無いのですが、先ほど書いた、同じ音形による作曲技法などで理性に訴える部分があって、聴いていて心地良い。このあたりが自分は好きなのかな、と思ったりもします。

 

  脱線から元に戻ります。

 

 このようにして私もオリンピックの開会式に私の人生でも大きなウェイトを持つゲーム音楽が使われたことで感慨深いものを感じたわけです。

 

 しかし、よくよく考えてみると、ナチス政権下のドイツにおいてワーグナーの楽劇を観たドイツ人も似たような感情を抱いたかも知れないな、と思いました。

 

 なお、日本はオリンピックをコロナ下で開催しましたが、仮にロシアが開催国だった場合、開催しなかったような気がしまし。

 プーチン大統領なら、きっぱり開催を拒否したのではないか、そんな気がします。プーチン大統領のことは断片的にしか知りませんが、独裁とか言われますが自国民をしっかり守るという信念があるような気がします。

 

 真留句といい、共産びいきみたいですが、あくまで、私は共産主義者ではありません、いちおう。

 

 かくの如く、音楽、それからストイックに鍛錬を重ねて来たスポーツ選手のパフォーマンスは感情に訴えるところあり、7月29日現在、世論も中止、反対派より肯定派が盛り返した感があります。

 

 しかし私は総合的にはやはり反対派です。

 

 良い事の中にも、悪い面はあるし、

 悪い事の中にも、良い面はある

 

 ある方の言葉です。

 

 オリンピックの良い面と、悪い面、両方を天秤にかけると、悪影響の方が多いと私は考えます。

 

 確かに開会式にゲーム音楽を使うアイディアや選曲の周到さは脱帽する部分あり、選手のパフォーマンスも感動的です。

 しかしコロナ影響の拡大によるコロナの死者、重症者、医療関係の方への負担、それから経済活動の機能不全の影響を考慮すると、負の面の方が大きいのではないか。

 

 オリンピックはハレであって、あくまで贅沢の一面があります。それと引き換えに日常、必要最低限の生活が脅かされるのは、妥当な判断とは思えません。

 

 スポーツ選手のストイックな鍛錬は真似できず、すごいことです。(一般人で過労とかも問題になっておりますのでスポーツ選手以上に過酷な生活をしてる庶民も多いと思います)が、スポーツ選手も一種の行き過ぎた分業社会によって生じた職業とするならば、やはり飲食業、観光業、職業芸術家に与えたのと同様、コロナは行き過ぎた分業システムに打撃を与える、という特徴を持つようです。

 

 職業芸術家、職業スポーツ選手、飲食業、観光業といった極度に分業化された職業で生計を立てることができるのは資本主義的経済システムがうまく機能しているという、我々にとってはごく当たり前に感じられたが、実は特殊な状況下のみなのかも知れません。

 

 コロナ下、温暖化状況下ではあたかも砂漠ではダイヤモンドを放棄し水を重んじるが如くに上記の考えを改めるべきなのかも知れません。

 

 経済成長真っ只中で行われた1964年の東京オリンピック、そして今回の東京オリンピック。1964年を曙光と呼ぶには遅いかも知れませんが2021年は黄昏、そんなイメージが沸き起こってきます。


 

真留句はこう言った 文章版4i 真留句断片 

真留句断片 

 

  この真留句断片は正式に文章版なり物語になる以前のアイディアの寄せ集めて記したものです。アイディアスケッチ、あるいはトピックスのようなものです。

 各テーマはアラビア数字でラベリングされて、新しい記事ほど番号が大きく、また上の方に書かれています。古い記事(テーマ)ほど、後の方に書いてあります。

 

目次;

 

9、コロナワクチン・・・科学技術による解決の特徴の見地から

 

8、温暖化問題とコロナ問題の相似性の考察  ※ 中途

 

7、新商品、新規製造物不要論

 

6、 ポスト・コロナ、あるいはクム・コロナの目指したらいいかも的な、大きな方向性

 

5、 農業という産業の特殊性・・・・農業は何故、労働の正当な対価を受け取りにくいのか?(=農業は何故、儲からないのか?)

 

4、 ライフスタイルを変える際の戦略

 

3、真留句の法則

 

2、 社会の病としてのコロナ

 

1、 目指すべき社会、理想の社会のバロメータ

 

 

〇 9、コロナワクチン・・・科学技術による解決の特徴の見地から

 

 概要

 私はコロナワクチンを接種しません。そのことについて書いてみます。ワクチンを打つべきか、打たないべきか、私は専門家ではないし、ある程度精密に判断できる医学、生物学といった科学的な知識、判断材料は持ち合わせておりません。故に以下は自分の人生観、哲学的見地による意見です。

 先ずファイザー社の社長自身やプーチン大統領はワクチンを接種しないとのこと。これは判断材料にしました。

 それに真留句文章版要約iの表の分類にはコロナワクチンは経済的事柄、資本主義的事柄の属しておりました。これも判断材料。

 

 あと他人に口出しすべきではないと思いますが、一般に若い人ほど(特に子供を産む前の方)接種しない方が良いだろうし、高齢の方ほど接種しても良いと考えます。

 

 何故、そう考えるのか。私は一般に

【科学の力による解決は、局所的解決をするが大域的副作用がある】

という特徴を持つ場合が多いと考えてます。

 それを信ずるならば、今後人生の余白が広く、人生の大域的部分の面積の広い若い人は副作用の観点から接種すべきではなく、すでに人生の広い部分を過ごして余白の少ない高齢の方は接種も妥当と考えます。

 以下、なぜそう考えるのか、詳しく書いてみます。

 

 農業の知見、体験からの物の見方

 

 先の概要において科学の力による解決の特徴、すなわち【科学の力による解決は、局所的解決をするが大域的副作用がある】を書きました。

 これは農業の体験や知識から得た考えです。コロナワクチンのことを考えると、農業での事例が頭に思い浮かびました。

 

事例1、農薬と害虫のイタチごっこ

 

 慣行農業においては化学肥料と農薬が用いられます。農薬は害虫や雑草を抑えます。

 しかし、そのうち農薬に耐性をもつ新手の、すなわち【新種】の害虫が現れます。

 そこでまた新たな農薬をメーカーは開発して行きます。

 新農薬は新種の害虫を駆除しますが、また別の新種が現れて・・・と延々とイタチごっこが続きます。そのうち農薬の毒性、不確定要素、副作用も高まったりして危険な時あります。

 ここまでお読み下さった方は私が何を言いたいかお気づきと思います。

 

農薬 ⇒ ワクチン

害虫 ⇒ コロナ

 

で読み替えると、判断材料になる訳です。

私の周りを見ると、農薬反対派はワクチン打たない場合多いです。農薬許容する人はコロナワクチンも許容する。私の周りにおいてはこの両者はけっこう正の相関関係が見られます。

 なお農薬が特に必要となるのは過剰に肥料(有機肥料、化学肥料問わず)を与えすぎたり、雑草を刈り過ぎたり、異常な環境(高温や異常気象)になった場合です。

 前2者は不自然なこととも言えます。収量を異常に上げようとかして化学肥料を投入するとか不自然なことをすると農薬を使う必要が出てくる。状況によっては作物を守るためには農薬に頼らざるを得ない場合もあります。

 しかし自然の摂理の範囲で自然に逆らわず作物を育てるうちは農薬を使う必要はありません。

 

 

事例2、ネオニコチノイド系農薬・・・・局所的解決と大域的副作用

 

 イネ、すなわちお米の害虫にカメムシというのがいます。この害虫がお米の汁を吸うと、お米に黒い斑点ができます。化学肥料を大量に使うとか、不自然なことをしない限り、被害を受けるお米は僅かか皆無(1%未満)で黒い斑点のお米を食べても害はありません。斑点無しにこだわるのは見栄えによるものなのでしょう。

 さてそのカメムシの防除にネオニコチノイド系農薬というのが日本では使われています。

 そのネオニコチノイド系農薬はミツバチを死滅させるとの説があり、それは正しそうです。

 ミツバチは野菜の受粉を助けます。

 キュウリ、スイカ、トマト、ピーマン、ソバ、カボチャ、ゴーヤ、ズッキーニなど他家受粉の野菜の実が稔るのを助けます。

 ミツバチがいなくなると、これらの野菜がみのりにくくなるのです。他にハエや蝶や風も受粉助けますが、虫と作物ごとの相性もあったりしてミツバチは重要です。

 

 イネはというと他家受粉ではなく自家受粉するのでミツバチや他の虫がいなくても稔ります。

 

このようにネオニコチノイド系農薬は確かにイネという局所的範囲では問題を解決しているのですが、他の野菜やミツバチや他のハチという大域的観点からは副作用を生じているのです。

 

もちろん、ネオニコチノイド系農薬も試験はしたと思いますが、イネとラットとかが被験者でミツバチとかは考慮されてなかったのでしょう。

 なおヨーロッパではネオニコチノイド系農薬は上記の理由のために使用禁止されております。日本では禁止されておりません。 

 

 私はこの事例から、科学の力による解決の特徴

【科学の力による解決は、局所的解決をするが大域的副作用がある】

が思い浮かびました。

 これは、他の現代の産業社会、効率重視のシステムのひずみが思わぬ形、温暖化や運動不足、睡眠不足、心の病、など大域的範囲で現れてのにもあてはまりそうです。

 

 こう考えると、人生の余白、即ち、大域的部分の面積、未知の部分が多い若い世代は副作用の起こりうる範囲が広いので打たない方が良い。

他方、大域的部分の少ない、副作用の範囲が限られている高齢者は打つ手もある、と私は思いました。

 

 以上、科学的議論のようで科学的議論ではありません。

 あくまで比喩というか類推ですので真偽は比喩の適用の妥当性がポイントとなります。ただ科学技術に普遍的に見られ易い特徴という事であれば適用が妥当になるかも、と思います。

 

 いちおう書いてみました。

 

 

 

〇 8、 温暖化問題とコロナ問題の相似性の考察   このテーマは現在未完の内容、作りかけの内容です。基本、読み飛ばして下さい。興味ある方は読まれてみて下さい。

 

 今回のテーマは社会問題としてのコロナ問題と温暖化問題の類似性、相似性について書いてみます。(以下、このテーマにおいて「社会問題」という言葉は温暖化問題とコロナ問題の2つを両方指す場合に使用します。)

 そして、さらに現在、より近接的、緊迫的に直面しているコロナ問題の社会の様子(例えば行政対応、人々の対応など)から将来、迎えるであろう温暖化問題が緊迫化してきた時(もう既に緊迫化?)の社会の様子を予想、憶測してみます。

 

 先ず少し脱線しますが私が小学生の頃は運動会や卒業式には予行練習がありました。

 本番の運動会や卒業式の日より前の別の日に予行練習する日がありました。

 社会問題としての【温暖化問題とコロナ問題の関係はちょうど、運動会や卒業式とそれらの予行練習の関係】にある、という見方も出来るのではないかと思います。

(温暖化問題⇔本番日  、  コロナ問題⇔予行練習日、という対応です。)

 

 コロナ問題は収束してなく、現在、その真っ只中です。温暖化問題も真っ只中ですが、現在、コロナ問題ほど大きなウェイトで我々の社会は温暖化問題を相手していません。

 コロナ問題で先行して得られる知見が温暖化問題の対策にも役立つのではないか、と考えております。

 

本論のサブテーマ

 

、温暖化問題とコロナ問題の類似点(あるいは共通点)と相違点

 

、温暖化問題とコロナ問題の対応物、対応関係および、それらを用いた憶測

 

、社会問題に対する対応策・・・ボトムアップ式とトップダウン

 

、考えられる幾つかのシナリオ

 

、コロナ問題という予防接種

 

 

、温暖化問題とコロナ問題の類似点(あるいは共通点)と相違点

 

 先ずは温暖化問題とコロナ問題の類似点と相違点を書いてみておく事にする。これにより類推、憶測が有効である部分とあまり役立たない部分の判断もし易くなるはず。

 

 ☆ 類似点、共通点

 社会問題対策が経済活動と基本的に相反する。

 社会問題の対策の際に行政、政府が行動や生活様式の制限、自粛を個人、企業に要請する形になる。(トップダウン型対策)

 

 社会問題がひどくなるほど、危機感が高まり対策が行われるようになる。

 

 ☆ 相違点

 対策行動をとらない場合のカウンターの傾向・・・コロナは罹患対策を個人が守らない場合、基本的に自身がコロナに罹患するという形で被害を受ける事になる。

 これは具体的にはノーマスク、飲酒を伴う会食、遠距離への移動などのペナルティが自分自身にはね返ってくる、という事である。

 

 他方、温暖化問題は問題対策を個人が守らない場合の被害は異常気象、食糧不足、居住環境の悪化などのペナルティは本人以外の人類全体にしっぺ返しが来る。律儀に温暖化問題対策の行動をとっていた個人にも被害は返って来る。

(蛇足になるが、以下RPGゲームの知識がある方向けの説明;

 これはRPGゲームで言えば、コロナ問題はモンスターへ攻撃した者にモンスターが直接カウンター攻撃で反撃するタイプ、

および、

温暖化問題はモンスターへの攻撃が広範囲魔法やブレスなどによる全体攻撃によるパーティ全体へのカウンターになるタイプ、という事ができる。)

 

 

 消失の仕方・・・・コロナなどの感染症はワクチンなり集団免疫なり、季節要因、気候要因で消失したら、短期的に収束する。

 新規感染者数が増えて、「これは大変だ」とみんな身構えて行動を慎めば、やがて感染者も病院でそれほど長期でない期間で回復する。

 すなわちコロナはその気になれば短期解決型なのである。

 

 ところが温暖化問題の方は、問題がすぐには消失しない。長期化、それもかなり長い間、続くことになる。一度、異常気象、温暖化が生じてしまえば、その影響は短期に軽減されることなく、長期的に軽減されることなく続くのである。

 異常気象が大変になって「これは大変だ」と思って、いろいろ手を打ってもそう簡単に短期に解消される訳ではない。

 

、温暖化問題とコロナ問題の対応物、対応関係

 

 科学技術による解決策

コロナワクチン ⇔ 新しい科学技術(再生可能エネルギーの技術、高性能バッテリーなど)

 

 コロナにおけるコロナワクチンという解決策、及び、温暖化問題において、再生可能エネルギーや高性能バッテリーによる解決策といった、科学技術による解決策に私は懐疑的である。確かに、まったく無効という訳ではないが、決定的解決策にはならないと考えている。

 これは農業における問題を農薬で解決しようとした場合と同様の事が起きるのではないか、と思う;即ち、科学技術による解決はまた別の問題が生じてしまい、イタチごっこ

なる、という事である。

 害虫駆除、防除のために農薬を使用した場合、短期的には害虫は駆除される。しかし、そのうちその農薬に耐性をもった別の害虫も現れる。また、別の農薬を開発して、また別の害虫が現れて・・・・の繰り返し、無限ループである。また農薬を撒く農作業してる人にも農薬は悪い影響を与えるし、食べ物としての農産物や土壌にも悪影響がある場合がある。

 他に稲の害虫のカメムシを防除するネオニコチノイド系の農薬は益虫であるミツバチを消失させてしまう。ミツバチは多く他家受粉で稔る多くの野菜(キュウリ、ナス、トマト、ソバ、ピーマン、スイカなど)の受粉を助ける。即ち、ネオニコチノイド系農薬でカメムシを防除してイネを守るのは(イネは自家受精するので稔る際にミツバチは不要)、他の野菜の生育を妨げることになるのである。

 このように科学技術による解決は局所的には解決しても大域的には別の問題を生じさせるのである。

 大自然が大域的、全体的なバランス、調和があるのに対して、人工の科学は局所的解決しか導けず、大域的バランスを乱す場合が多い。

 余談になるが筆者は農作業していて、最近、つくづく思う事がある。農作業は自然と人間の関係の縮図であると。

 肥料を撒きすぎたり、雑草を取り過ぎると、バランスがくずれて、作物に害虫がたかって大きな被害を受けることがある。もちろん、肥料少なく、雑草ある程度残しても、害虫はたかるが、許容範囲内である。肥料、雑草がバランス内であれば、害虫もまたバランス内となる。

 肥料を多くし、雑草を排除して、日光、養分を独り占めにして生産力を高める。これはろくな事が起こらないし、できた作物も大きいが中身の詰まっていない、本物とかけ離れた作物になる。

 社会も生産性のみを追求すると同様の問題が生じるように感ずる。

 

 

 生産活動に支障をきたす業種

 

観光業、飲食業 ⇔ 化石資源を使用する業種(化石資源を原材料に用いる業種)

 

 

マスク警察 ⇔ エコ警察 

 

、社会問題に対する対応策・・・ボトムアップ式とトップダウン

 

 温暖化問題にせよ、コロナ問題にせよ社会問題における対応策にはアプローチの仕方で2つに大別できる。

 

ボトムアップ式・・・・庶民、個人からの解決法 

 

 ボトムアップ式に人類各個人の意識が変わって行動も変われば、コロナも温暖化もどちらもあっさり解決に向かうという特徴がある。そしてこれは実際に行われれば、強力な解決法となる。

 ところがこの強力な解決法が発動されるのは、なかなか難しい。

 人類の意識が変わるか、あるいは社会問題の悪化がかなりひどくなって危機感が身近に感じられるようになってからである。

 

 トップダウン式・・・政府、行政が行う解決法

 

 社会問題の悪化が身近になってきた時に、一般市民から社会問題の対応が不味いと文句を言われることがある。

 

、考えられる幾つかのシナリオ

 

、コロナ問題という予防接種

 

 

 

 

 

〇 7、 新商品、新規製造物不要論          2021、6、8、

 

 テーマは、もはや新規製造物、新商品などは要らないのではないか、もっと言えば、作らない方が良いのではないか?という話です。

 

 始めに概要を書きます;

 

 人類は最近発明された原発、電気技術、自動車、インターネットなどなどが無くとも太古の昔から生きて来ました。ですから最近発明された商品や今後発明されるであろう商品は必ずしも【人の生活の為】に必要なわけではありません。

 確かに暮らしが便利になるだとか楽になるというプラスの面はあります。(ここで豊かになる、という言葉は敢えて入れない事にします。)

 他方、トラブル時の厄介さや環境負荷、気がつきにくい形での人への悪影響というマイナス面もあります。

 そしてプラス面とマイナス面を両方、考慮するならマイナスの方が大きいと私は考えます。

 刃物の例を書いてみます;石包丁  青銅の刃物  鉄器  鍛造鋼 

と時代が進むにつれ切れ味が良くなってきました。

 この江戸時代に到達した鍛造鋼で私は十分と考えます。これ以上はむしろ有害であると。

 この系列をさらに進めるとSFも混入しますがスターウォーズで登場するライトセーバーが出てくるでしょう;

 

石包丁  青銅の刃物  鉄器  鍛造鋼  ライトセーバー

 

 しかしここでライトセーバーを調理器具として使いたいと私は思いません。他の方もそうだと思います。

 ライトセーバー製の包丁は手元が狂うというトラブル時には指1本が切り離されてしまいます。

 鍛造鋼の包丁では切り傷で済みます。切れ味が悪い包丁ならもっと傷は浅いでしょう。

 ライトセーバーはマイナス面が大きく我々には鍛造鋼の包丁が丁度良いのだと思います。

 

 ところが現在の社会全体、経済社会ではこのライトセーバーを発明しようとするような事をやっているように思えてなりません。

 指が切断されてもスターウォーズのような科学技術があれば指を容易に再生できるだろう、という反論もありそうです。ちょうど映画で主人公がダースベイダーに切り落とされた手を再生するシーンがありました。

 しかし私はそもそも手の再生技術も不要で鍛造鋼で足るを知っていれば十分と思います。

 手の再生技術で反論するのは様々な科学技術のマイナス面をさらなる科学技術の進展で克服して行こうという考えの一例、象徴でもあるように見えます。

 私はこの事例に否定的です。

 

 このようなライトセーバーを追求する社会に違和感を私は感じます。そんな、おかしな事が止まないのは【人の生活の為】にライトセーバーを開発するのではなく、【経済成長のため、資本主義システム維持のため】だからなのでしょう。

 

 以上、概要が長くなりましたが以下、本論、もう少し詳しく書いてみます。

 

 本論のサブテーマ

 

、時間が流れ、資本主義が進展する時の商品の特徴

 

徳川吉宗と新規製造物禁止令と人口

 

、何故、新規製造物は必要なのか?

  

、オマケ 

 

 

 Ⅰ、時間が流れ資本主義が進展する時の商品の特徴

 

 過去から現在に向かって時間が進んで資本主義が進展するにつれ、過去には無かった便利な新商品が市場、世の中、社会に現れます。

 それら便利な商品は人々の暮らしを便利に、楽にしてくれます。

 しかし、商品や事物は両刃の剣の部分があって、正の側面と負の側面があります。具体的には包丁のような刃物は調理の際に便利な道具となる反面、人や生き物を殺傷する道具ともなり得ます。

 これは原発スマホ、ネット社会にもあてはまります。

 

 ただ現代的になればなるほど、負の側面が厄介になる傾向があります。

 特にトラブルの際には現代的な商品の方がトラブルの収拾の難易度が高まり、またトラブルの被害も大きくなります。具体例は原発スマホ、あと商品ではないですがいろんな社会システム(学校制度、生産様式、生活様式)などが思い浮かびます。社会システムも現代的な方がトラブルには脆弱。具体例はコロナ時の社会の生じる様々の問題を想起して見て下さい。

 

 また時間が経つにつれ、新商品に生産や消費のウェイトが置かれ、昔からあるような商品の生産にかけられる手間は疎かになって行きます。

 例えば、お米の生産は昔は手作業の比率が高く天日干しなど、まさに八十八の手間、たくさんの手間がかかりました。ところが今はトラクターやコンバインなどの機械化、化学肥料、農薬、機械乾燥などで手間を省き省力化してます。

 生産性は高くなっていますが質は昔のに比べ、とても落ちます。この辺りはなるべく昔の生産方式で生産されたお米、農産物、卵、衣服、家屋、道具などと、現代における一般的な生産方式の生産物を比較すると納得してもらえるはず。なお前者は市場にあまり流通していない。流通品でもなるべく昔の生産様式のを入手して実感できると思う。農産物なら許すなら自分で育ててみる、物の見方が変わるかも知れませんし、この文章に得心なされる度合い高まると思います。

 

 昔から存在する農産物、食糧、家屋、衣服などは人が生きる上でほぼ必要不可欠な商品と言えます。このような昔から存在する商品を今後は【構造的商品】と呼ぶことにします。

 それら農産物などは人の生活において、あたかも建築物における柱のような構造材のような役割を果たすからです。建築物にとって柱が不可欠なのと同様に人の生において農産物が必要不可欠というわけです。

 

 他方、人の生活を便利にする後発の、資本主義が進展してから登場する商品を【装飾的商品】と呼ぶことにします。

 具体例はスマホ、テレビ、パソコン、電話、自動掃除機、自動車などです。

 これは人の生において、建築物における装飾品、芸術性の高い彫刻の役割に対応すると考えることも出来そうだからです。

 

 さて時代が流れ、資本主義が進展するにつれ、構造的商品から装飾的商品に生産や消費のウェイトが置かれるようになります。そして構造的商品は機械化などの省力化という、見方によっては手抜きの生産方式になって行きます。

 また装飾的商品の生産や消費、そしてトラブルは構造的商品を犠牲にし、のみならず、人が生きる上で必要不可欠な空気、水、環境、そして気候すらも犠牲にする傾向があります。

 具体例は原発トラブルによる環境汚染、車やパソコン、スマホの生産消費は空気や水を汚染します。

 

 概して装飾的商品、即ち最近の製造物や今後、新規に登場する製造物はトラブルの際の厄介さや負の側面と正の側面(=役立ち度、重要性)を全体的に考えると【百害あって一利あり】的様相を帯びている、ということになります。

 

 そして時間が経つにつれ、資本主義が進展するにつれ

 

 構造的商品、水、空気、生活環境、気候 ⇒  装飾的商品

 

  

というトレードが行われているという見方が出来ます。時が進むにつれ左の構造的商品などを手放し、右の装飾的商品を手に入れている、というわけです。

 

 このトレード、取引の分が悪いことは言うまでもない事と思います。

 

 以上から今後は新規製造物は不要と私は考えます。

 

徳川吉宗と新規製造物禁止令と人口

 

 名君として名高い徳川吉宗享保の改革などで有名です。

 彼は【新規製造物禁止令】というものも行いました。ちょうど本記事のテーマです。それをトップダウン方式でやった事例があるという訳です。

 

 吉宗は以下のように考えたらしいです;

 

「世の中に人が生きる上で必要な商品は十分、出回って売り買いされている。これ以上新たに何か作れば、人々の身の丈を越えて買い求めるようになり、自ら金銭的(経済的?)に窮乏し、国の衰えとなる。」

 

私なんかは流石、吉宗、と思います。

 国の借金が増え、原発や化石資源を生産や消費に用いる新商品が温暖化問題を生じさせ、さらに資本主義や財政の行き詰まりに直面する現代や様々な先進国にあてはまる言葉のようにも思えます。

 時代や場所を越えた普遍的な慧眼を吉宗は持っていたと。

 

 しかし、この吉宗の政策に対して、現代の大勢を占める経済成長を信仰する多数派には以下のような批判があります;

 

 「この新規製造物禁止令で人口増加や経済が停滞した。農業に関係する土木工事や鉱山の開発が行われなくなり、人々の創造性も抑えられて経済が停滞した。

 江戸時代後半は人口がほとんど変わらなかった。(増加させることが出来なかった。)

 開国とともに人口は増加し各種土木工事、鉱山開発が行われるようになり経済も進展した。」

 

 確かに経済成長への信仰心の篤い方にはもっともな意見と思います。

 

 ただ、人口増加は環境破壊や食糧不足を引き起こします。

 

他方、現在の日本に見られるように人口減少、少子化は労働力や世代間の負担の格差、しわ寄せなどこれまた様々な問題を引き起こしています。

 

 そう考えると人口がほぼ定常、あるいは多少の変動、波があっても長い目で見るとほぼ定常、であることが現在、目指すべき姿なのではないか、と私は考えます。

 

 江戸時代後半の町人、農民は新規製造物禁止令のもとでも、したたかにやり過ごしてその文化を開花させたのだと思います。

 今日、世界中のアーティストに影響を与え続けている葛飾北斎が活躍し、手打ちそばの技術が大きく進歩し、町人文化が大きく花開いたのは江戸時代後半です。

 

 またこの記事の一番始めのテーマ【1目指すべき社会、理想の社会のバロメータ

】において理想的な社会の指標を考察しましたが(このページの一番、下に書いてあります。)そこに新たな指標として【人口がほぼ定常】というも付け加えれる可能性があります。

 そう考えると江戸時代の暮らしの幾つかの特徴はやはり参考にすべきなのかも知れません。(もちろん封建制や医療レベルまでは見習う必要はないですが。現代の民主制や医療レベルなど、現代の長所は採用する。現代と江戸時代の長所を取り、短所を捨てる、と出来れば良いのですが。)

 

 現代において【新規製造物禁止令】を実行したり、消費者レベルで新規製造物商品に対して不買運動することは、けっこう有効なのではないでしょうか?

 

 

、何故、新規製造物は必要なのか?

 

 何故、不要な度を越したライトセーバーを開発し商品化するような事態が現実には起きているのか?

人々の暮らしを豊かにするのではなく、却って有害ですらあるのに。

 それは経済成長、資本主義システムの維持が目的なのだと思います。

 新規製造物が市場に現れなくなれば経済は停滞し、経済成長しなくなります。

 経済成長無しでは資本主義システムは維持できなくなるという話を聞いたことがあります。(経済成長は資本主義システムの本源的特徴らしいです。)

 かくして始めは人々の暮らしを豊かにするために登場した資本主義システムですが、いつの間にやら主従は逆転し、現在は資本主義システム維持のために人々の生活は犠牲になっております。

 

 解決策は決定版は私も模索中です。とりあえず解決策の1要素として我々個人ができるボトムアップ式のものとして【消費、即ち買い物という行動をよく考えてする】、というのがあります。

 

 消費、買い物については詳しくは別の記事【真留句以外1 買い物という名の投票】に書いてあります。 

 

 

 Ⅳ、オマケ   構造的事物     装飾的事物   について

 

 本テーマ7のⅠにおいて、時間の流れとともに 構造的商品   装飾的商品 にウェイトが移行する現象に言及しました。ここではオマケで私が思い浮かぶ、いくつかの例を書いてみます。

 

(イ)、建築物・・・・・これは昔の方が構造がしっかりしていて、後の時代になるほど彫刻などの装飾が美しくなって行きます。

 

(ロ)、ゲーム・・・・私は10代の頃はファミコンなどのゲームにハマってました。

 最近のゲームは昔のゲームに比べグラフィックも良く、ストーリーも重厚です。しかしゲームの本質は昔の方が優れていたように思えます。というかストーリーやグラフィックが貧弱であったからゲームの本質的部分が際立っていたのかも知れません。

 具体例でRPGドラゴンクエスト(以下DQ)、ファイナルファンタジー(以下FF)を挙げてみます。

 私はDQにせよFFにせよ1~3の初期シリーズが好きです。私の年齢的、世代的(ゲーム適齢期に出会った作品、ということ)なものもあるのかも知れませんが。

 グラフィックやストーリーはシリーズ中~後期のものに比べ見劣りするかと思います。(※DQ1~3のロト3部作は大局的なストーリーは秀逸かも知れません。典型例はFF1~3とFF10の比較。FF10のグラフィック、ストーリーは秀逸(特にストーリー)で1~3とはくらべものになりません。しかし、DQFF1~3の頃、レベルアップした時や、高い金額の武器、防具といった装備品を購入した時の高揚感や新しい呪文、スペルを習得した時の感動はこの頃の方が大きく、このあたりこそRPGの面白さの本質だと私は思うのです。

 後期のはストーリーやグラフィック、新システムなどの装飾的部分にRPGの構造が埋没してしまっている部分があるような。

 そしてRPGでかなり構造にウェイトがあったのは今、思えば初期のウィザードリィではないか、と思います。現代的視点から見るとRPGの構造がむき出しにされていてRPGの名作と思えます。ストーリーに重厚性はありません。ストーリー;魔除けが盗まれた取り戻してくれ。あっさりしたものです。今のRPGならこのようなイベントは全体の中の何十分の1かの部分的なサブイベントに過ぎません。それが初代ウィザードリィでは全てでした。

 最近のカラフルで重厚なゲームで育った若い世代からすると物足りないというか、単純過ぎるというか、RPGの骨格(骸骨)を見るような感じがしてつまらない、と感じるかも知れません。

 しかしウィザードリィ1~3も私がとてもハマったゲームです。様々なゲームにおけるレアアイテム入手において初期ウィザードリィの3種の神器(むらまさ、せいなるよろい、しゅりけん)を入手した時の感動を越える経験はありません。(FF3でオニオンソード、ゲットした時はこれに匹敵しましたが。)

 

(ハ)、ある種の宗教・・・・宗教においてもある種の宗教においては、時代が後になるにつれ構造、本質から離れる部分があるかも知れません。(というか後期の分派に見られる場合がありそう。)

 宗教の創始者の教えは深淵で難解なイメージがあります。

 しかし創始者の言葉、教えというのは案外、シンプルかつ実践的、具体的というケースもあるように思えます。

 後世の弟子、信者が創始者の教えを深淵、難解、難易度を高め、神秘的、抽象的、深く解釈するなど、のケースもあるように思われます。

 その動機は真摯な救道心の場合もあれば、同じ宗派の派閥争いや、他の宗教との競争においては深淵で神秘的で難易度が高そうな方が有利、あるいは布教の際に有利、という場合もありそうです。

 とはいえ創始から後の時代に付け加えられた教義、すべてが装飾的ではなく、重要であったり有益なケースも多々あると思います。

 

 ところで、私は内的な宗教の神秘体験や深淵な経験はありません。ですから、以上はあくまで【外から】見た宗教の一側面の見解に過ぎません。

 

(ニ)、クラシック音楽・・・・私はクラシック音楽が好きです。

クラシック音楽は時系列で

 

バロック古典派ロマン派近現代

 

と区分されます。バッハはバロック時代末期の作曲家ですが、【楽譜(音符)に無駄がない】

と聞いたことがあります。音符に無駄がないとは、即ち、無駄な音がない、ということなのでしょう。

 対してロマン派の音楽は美しく装飾的なイメージの曲が多いです。演奏も見栄えがするイメージありますし曲もきらびやかです。

 

 バッハの曲はある1つの同じ曲(例えば、フーガの技法)がピアノで演奏されたり、チェンバロで演奏されたり、オルガンの場合もあれば、弦楽四重奏で演奏されたりすることがあります。あるいは、別の弦楽のための独奏曲がギターやサクソフォン(あるいは別の弦楽器)で演奏される時もあります。どの楽器の演奏も曲を損ないません。特定の楽器を指定しない。これは曲の構造、音楽の構造がしっかりとしている、ということになろうかと思います。

 他方、ロマン派の曲は特定の楽器を想定している場合が多いです。ある特定の楽器の魅力を引き出す曲、特定の音色の魅力を引き出す曲といえそうです。あまり詳しくないのですがショパンやリストのピアノ曲などがあてはまるのではないでしょうか。(あまりそういう曲のの他の楽器による演奏、編曲というのを聞いたことが無いです。)

 

 ここまで書いてきまして、

 

バッハ ⇔ ウィザードリィ、(あるいは初期のDQFF

ショパン、リスト ⇔ DQ,FF 10前後  

 

というイメージの比較が出来ないこともないと思いました。

 

(ホ)、当ブログもだんだん構造的から装飾的に向かいつつあるのかも。とはいえ、写真もカラー文字もなく、文字のサイズも一定ですので、いちおう硬派といいますか、まだまだ構造的ブログであると、ある意味では言えるのかも。

 

以上、構造的に好意的で装飾的に批判的な印象を抱かせる文章であったかと思います。しかし本文の場合はさておき、オマケに関してはあくまで特徴なり、好みに関することなので優劣があるわけではないです。誤解されませんことを。

 

〇6、ポスト・コロナ、あるいはクム・コロナの目指したらいいかも的な、大きな方向性

2021、6月以前

 

、分散、ローカル、小規模

 

 分散・・・各地域で

 小規模・・・個人経営、自営業を主体としたお店、あるいは小規模な集団営業

 ローカル・・・各地域で生活圏、経済圏が成立する。

 

、ヴァーチャルはグローバルに、リアルはローカルに

(=情報はグローバルに、現物はローカルに)

 

 こうするとコロナ拡大抑制にもなる。また過剰資本主義が原因の種々の弊害が解決される。弊害というのは、自然破壊、南北格差、国境を越えた搾取、労働問題、貧富の問題などである。

 

 またこの【ヴァーチャルはグローバルに、リアルはローカルに】の理念を具現化するものとして【デジタル地域通貨】がある。

 これは従来の地域通貨に比べ効率、使い勝手がおそらく良さそうで地産地消を促し、上記Ⅰで述べた【ローカル・・・各地域で生活圏、経済圏が成立する】を実現するのに役立ちそうである。

 

 

DIY率アップ

 

 会社でフルタイムで働き、お金を稼いで分業システムとその中核を担うお金に依存し過ぎることは、国の大きな借金、病的な経済状況、さらにコロナの下でその度合いが大きくなっている現在においてはもはや得策とは言えないのではないだろうか?

 分業システムとお金をまったく否定するのも効率が悪いが、現在ある程度距離を取る事が有効であると思われる。

 分業システムから距離を置くこと、依存し過ぎないようにすることはDIY率アップ(自給自足を目指すなど)、複業によって行われる。

 なおDIYは都市部より田舎、地方の方が位置的、場所的、地形的に有利である。

 

、少しずつ現体制から移行する

 

 急な脱経済、脱資本主義システムのライフスタイルへの移行は社会的混乱が生ずるであろう。

 そこで個人、地域、会社、社会、自治体、都道府県、国、あらゆる組織のレベルで少しずつ脱資本主義、脱現体制として上記1~4のライフスタイル、システムに移行する。

 個人に関しては、この記事の別のトピック【〇Ⅳ ライフスタイルを変える際の戦略】もご参照のこと。

 

 以上の行動方針の主語は個人であっても良いし、家族、地域、市町村、都道府県、国、国の連合、いずれでも良いので各レベル、規模で上記の方針を目指して行動すれば良いと思う。

 

 

〇5、 農業という産業の特殊性・・・・農業は何故、労働の正当な対価を受け取りにくいのか?(=農業は何故、儲からないのか?)

 

 真留句はこう言った コロナ以前ー15A 人生三分の計 において真留句が「農業の特殊性をいつか別の機会にお話しする事になるでしょう。」と話していましたが、なかなかその機会が無いのでこの場で書く事にします。

 農業の特殊性というのは農業の生産する商品、すなわち農産物が不当に価格が安い事です。その大きな理由は2つあります。

 1つ目は【政治的な理由】、それから2つ目は【経済的理由、あるいは資本主義的な理由】です。

 以下、少し詳しく紹介します;

 

、政治的な理由

 

 古今東西、あらゆる政府の大きな役割は、国民の安全と食の保証です。

 後者の食の保証は食糧の安価供給によって実現されます。

 それ故、古今東西あらゆる政府は農産物の価格を安価にすることを目指してきました。

 さもなく、食糧が高価になった場合は国民の不満は高まり、一揆米騒動、暴動が生じます。

 それで食の保証の観点から、農産物が不当に安くなってしまうのはある程度仕方のないことのようにも思えます。このお蔭で我々庶民は安価に農産物、食糧を入手出来るわけです。ここ意味で農産物、食糧を購入することはお得な買い物をしているわけです。商品の実質の価格より安く買えるのだから。

 政府は生産者、農業者に対するこの不当な安さを補って補填するために農業に対しては各種助成金補助金を出しています。

 

 ところで政府は攻めの農業、儲かる農業を掲げてるわけですが、これと農産物の安価政策は相性が良くありません。矛盾してるとも言えます。

 薄利多売大量生産というのが1つ大きな解決策になります。実際、政府は農業の大規模化を政策としてるようです。しかし質と量は相容れませんから、食糧、農産物の質は落ちて行きます。

 

 以上、政治的理由で農産物価格が安くなるのは仕方のない面もあった。しかし次の第2の理由である資本主義的理由によってさらに農産物が安くなることは行き過ぎた安さを引き起こし、大きな弊害をもたらすと考えられる。 

 

、経済的、資本主義的理由

 

 労働者の賃金、給料は労働者の生活費によって規定されます。資本家は労働者の生活費が安価になれば、もっと給料を引き下げる事が可能となります。労働者は睡眠や食事によって労働力を回復させねばなりません。(経済学用語では【労働力の再生産】と言います。) 

 そのための費用が生活費です。 

 必需品である食糧、農産物は生活費の決定に大きなウェイトを持ちます。

 資本家は食糧、農産物が安価であるほど労働者の賃金をカットできて資本として手元に残せるのです。そして、その手元に残った資本は経済成長の源となります。

 このように農産物が安くある事は経済界からの要求でもあるのです。

 

  以上、政治的理由、資本主義的理由という、大きな影響力を持つ分野から農産物は安価である圧力をかけられています。平飼い卵や無肥料無農薬の野菜などは例外で影響を受けないと思われるかも知れませんが私は影響を受けると思います。他の流通商品が安ければ、やはり特別な栽培方法、生産方法で生産した商品も安い方に牽引されざるを得ないからです。

 こうしてみると、農業は必需品である農産物を生産してるのに、ひどく不利な産業であると私は感じます。

 コロナで飲食店や観光業、職業芸術が被害を受けてますが、農業は自然災害、天災の脅威に常にさらされてきました。しかも、他の産業が使用する化石燃料→CO2増加温暖化異常気象の害を農業は特に大きく被ります。

 コロナという災害が飲食業などに与える打撃をずっと農業はさらされ続けてきたわけです。(ただし、共済、保険というもので気象災害などの経済的被害はある程度、保証してもらってきたが。)

 

 もちろん価格には需要と供給の関係、生産量の関係が大きく影響を与えますが、それは他の商品、産業についっても言えます。ここで紹介したのは農業独特の事情です。

 

 

 

〇4、 ライフスタイルを変える際の戦略

 

 日頃の生活習慣などは【文章版3i 真留句リスト】に挙げた。日頃の買い物などはライフスタイルの中で枝葉的性格のような物もそこでは多く掲載した。(枝葉を軽視する訳ではない、むしろ重要である。幹は葉による光合成をエネルギー源とする。)

 他方、ここではライフスタイルのうちで大きな幹となる事柄の変更を考察する。(もちろん、あくまで1つの方法、一例として)

 

 まずは、転職や労働時間の短縮を職場に願い出て、自分の自由になる時間を確保する。

過渡戦略 半YX である。

 

ここで半YX

 

X・・・ 好きな仕事、趣味、  使命的な事業、   魂、心が欲する行動

 

Y・・・嫌々でも良いので生活費を得る為に会社勤めする仕事、アルバイト。この会社勤めの仕事は精神的、肉体的エネルギー、そして時間を消耗し過ぎない仕事にすること。エネルギーはXの注ぐようにする。収入は最低限の生活費を得れれば十分。単身なら家賃を除いて1カ月あたり4万~7万円、家族であっても10万円あれば良いと思う。あとはなるべくDIY(代表的なのは自炊。あとは家屋、配管などの簡単な修繕などを想定されたい)などで節約する。

 

である。

 

 

この半YX戦略の長所・・・

 商才や運、才能、特別な努力は不要で実行、生計を成立させる事ができる。たぶんほとんどの人が実行可能なライフスタイルと思う。

 Xの分野も生計の主なり足しになれば言う事はないが、この際Xはダメもと、一切お金にならない、収入的には宝くじみたいなものと思っておけば良い。Yで最小限の生活費を確保してXで、やりがい、働きがいを得ることにする。

 Xは例えば絵画を選択するなら、自分の趣味として絵画を描くのみでも十分である。しかし私はお金になるかならないかはどうでも良いから社会に何らかの形で絵画を公開、というよりは送り出す、といった方が良いだろうか、そういう風にするのをお勧めする。

 自宅に飾って客人の見てもらう機会を作るのも良いし、お気に入りの飲食店に継続的なり一時的にでも置いてもらうのでも良い。あなたのXの分野が社会の一部分(たった1人であったとしてもだいぶ違う。ゼロと1は大きく異なるのである。)で認められる事は大きい意味を持つ。生きがいや魂の充実という点において。

 

 不労所得で働かずに生活して行けるというのは一見、楽で理想的のように見えるが、必ずしもそうは言えない気がする。今度は退屈、倦怠、無気力、いきがい、やりがいの喪失という名の新たな敵が出現するであろう。

 

 自分の特技、好きな事物、労働、趣味に費やす時間を作ることは幸せなことである。

もし、それが他人の生活、社会に役立つ、貢献することになるならば、さらに幸福な事である。他人、社会にとっても、そして己自身にとっても。

 

 

 なお以下の田舎移住に関する部分は私自身の個人的経験によるところ大きいのであくまで参考程度に。この方面に関心のある方は他の方の事例などで統計を取られるのも良いと思われる。お尋ねしたい事あるお方はお気軽にコメント欄にお書きになられてみて下さい。

 

 Ⅰ、田舎に住む、移住する

 

 生活の中でDIY率を高めるにあたり、住んでいる場所が田舎である事は都市に住む場合に比べ圧倒的に有利である。農業により食糧の自給もある程度できるし、冬を乗り越える為や調理に必要な燃料も薪という形で入手できる。しかもカーボンフリーである。灯油やガスのような化石資源ではない。温暖化への寄与は殆どない。グローバル社会への依存度を減らし、自分の生活圏、経済圏のサークルをかなり狭く閉じさせることを可能にできる。(ローカル化)

 移住も大きな変更なので、誰しも実行可能なわけではないが、検討するといいかも知れない。

 

、田舎移住を行政に相談する時は

 

 行政に相談に行った際には割と温かく協力的に迎えられる事だろう。過疎に悩む田舎に移住してくれるのは、いろんな人、社会にとって有難い事である。

 特に、家族、夫婦、あるいはカップルの方が単身者よりも交渉の際には上手く行きやすい。それは行政相談のみならず空き家の家主との交渉など全般について言える事である。            

 地域の人口を増やす子供の移住なり将来的に生まれる子供は過疎に悩む地域にとって、有難い。

 また単身者に比べ、カップル、家族、夫婦の方が信頼性、信用性が高いのである。単身者はいわゆる【どこの馬の骨かわからない】と思われることもある、ということ。

 話を行政への相談に戻そう。単身者であっても、まずは温かく協力的に会話、相談は進み、話は盛り上がるかも知れない。田舎の過疎、人口問題、担い手問題は行政が取り組む課題であるから単身者であっても移住者は有難いのである。

しかし、移住者希望者が、ライフスタイルの核を半YXにして

 

「アルバイトで最低限の生活費を稼いで、無農薬無肥料で野菜を育てて、たくさん稼がなくてもいいから自給自足みたいな生活を目指します。」 

 

といったような話題が出ると急に、行政の担当者との会話は暗雲が立ち込め、それまでとは一変して非協力的になってしまう場合が多い。

 

 行政はある程度、税金を納めてくれる人、あるいは将来的に税金を納めてくれる人に対してでないと力を貸してはくれないのである。

 

 それで 半YX + 田舎移住 を【目指す】際は行政の力は借りないことになる。

 

 それ故、行政に相談する際は、将来的には年収500万~1000万円で大きな税金を納める事のできるプランを用意して行こう。なお、初年度年収:アルバイト50万~120万円 + X で20万円 といったなるべく現実性を帯びたプランにする事も大切。

 

 

、 田舎の住居・・・賃貸か買取か。

 

 まずは賃貸がおすすめである。数年たっても気に入ってるなら買えば良い。

 田舎の空き家と作づけしてない田畑は持ち主にとっては負債、重荷となっている場合もある。また家屋と田畑があるばかりに現在は都市部に住んでいるに地区の会費などを納め続ける事になるケースも多い。

 よって空き家と田畑を借りてくれる人は貸す人にとっては管理人と思えるくらいに、有難い存在になるケースもある。ただし借家人がきちんとしている場合に限るが。

 そうなると家賃は1月あたり5000円~2万円が妥当と思う。5000円~1万円あたりで良いと思う。あるいは維持管理料=家賃とみなせもできるので、家賃0円もあり得る。借りる人、貸す人、双方にとってwin-winの賃貸料になることが望ましい。双方とも、あまり欲張るのは良くない。

 

 またできれば水道以外の飲み水の水源もあると良い。水は重要である。

 井戸を想像される場合が多いだろうが私の知人では井戸のケースはあまりいなくて、山の湧き水のケースが多い。また井戸には一般に井戸という言葉で想像される縦穴式のもの以外にも横穴式のもある。これは湧き水に近いような気がする。

 

 公営住宅市営住宅、町営住宅など)も有効である。家賃は収入に応じてである。田舎の公営住宅は収入低いならば1月あたり1万円台、2万円台で都市の4~7万円台あるいはそれ以上の設備の物件になる場合がある。

 

 いざ、買取へ・・・持ち主にとって、家屋と田畑が負債、重荷になっているならば、あまり欲張って高値で売るのはいかがなものか?と思う。あまり足元は見ず安からず、高からず、双方に納得のいく価格になるのがいい。どちらかが大きく得をする、あるいは損をする、そういう事にならないように。その引き金となる当事者になることのないように精進されたい。邪な考えで一時的に得をしたように見えても、あとから大きな損をすることになるだろう。

 もちろん、買い取った場合、移住が失敗であったと思うようになった時には逆に物件が維持管理が必要な負債に化けてしまう可能性もある。無料でもいいから誰かに住んでもらって維持管理してもらいたい、ということになる可能性もある。

 そういう事もあるのだから家主との交渉の際には家主の視点に立つことも有効である。しかし足元を見過ぎてはいけない。あくまでwin-winを目指そう。

 

、地区行事、役員・・・けっこう頻繁にあって時間を要する。

 

 一人暮らしで多忙な方は注意を要する。

 地区行事は参加が任意の場合が多いので重要度の高い農作業系の共同作業などは参加することにして、枝葉的なものは適宜、時間的に厳しい場合は不参加にするとか調整されたい。そういうのが好きなら参加するに越したことはない。

 地区行事は何とかなるとしても地区役員が当たった場合はなかなか大変である。新参者には周ってこないケースも多いが例外もある。そういうのが好きな方は問題ない。

 特に一人暮らしで【人生三分の計】という兵力分散の愚を犯している方は家事も入れて兵力を基本4つ(家事+アルバイト+農業+X)に分散しているはずであるが、地区役員を入れるとに5つに分散する事になる。これは1日1食すら食べる暇がなくなる可能性もある。過労死の可能性もあるので地区役員の当たった年度は農業なりXなりをお休みして乗り切る事になる。(家事と収入になるアルバイトは省けないだろう。)

 

、周囲の田畑はきれいか?・・・草ぼうぼうの田畑が周囲にある場合。他方、草がきれいに刈られている田畑が周囲にある場合。後者は朝早くから草刈り機のエンジン音が目覚まし時計となって案外、都会以上に騒々しいというケースもある。他方前者の場合は基本静寂であろう。作づけもされていないからトラクターやコンバインのエンジン音が鳴る事も滅多にないだろう。このあたりのこともあってまずは賃貸がおすすめである。

 

 生活同盟

 

 基本戦略は脱分業システム、DIY率アップだが、さすがに限界もあって効率が悪い。

 そこで知人、友人が有機農業、無農薬栽培、自然栽培、自然農、平飼い畜産などをやっていたら、積極的にそういった生産物を購入するようにする。

 知らない人がそういう事をしていても、それらを購入していく。そのうち知人、友人、仲間になるかも知れない。

 逆に自分が何か農産物、大工作業、事務作業、音楽、絵画、芸術、教育、などなど何か他人に貢献できることがあったら仲間うちに貢献して行こう。

 これはお金を介してでも、お金ではなく信頼、信用にもとづくものでも良い。

 

 そういった生きる上、生活するうえで必要なこと、ものを交換、贈与、享受する仲間、同盟をつくって、だんだん小規模から大きくして行く。

 基本、ローカル、近距離が基本だが、一概には言えない。

 こともの(事物)が現物系ならローカル、こともの(事物)が情報系ならばグローバルでも良いだろう。

 

 現在は昔に比べIT技術の発達で情報、連絡のやり取りが容易である。これは現代のメリットである。

 生活同盟、あるいは生活共同体の中での情報、連絡のやり取りもやり易い。

 

 

〇3、 真留句の法則

 

 真留句の第1法則・・・いろんな事柄は現代的であるほど平時は効率的であるが、災害トラブルには脆弱である。他方、事柄が原始的なほど平時は効率は悪いが災害トラブルには強い。あるいは原始的なほど災害トラブルは起きにくい。

 

例1、木を伐採する際、現代的なチェーンソーと、原始的なノコギリの比較。

 ノコギリ、チェーンソーともに滅多な事では壊れないが、チェーンソーが壊れると厄介である。程度にも寄るがなかなか修理は難しい。この事例は典型的で一般に効率の良い現代的なシステムの方が複雑なのでトラブルの際の修復も複雑、困難になり易いのである。

 

例2、大雪の際には、最も昔の形態は熊のような冬眠に近い生活であったので出勤する必要もなければ道路を除雪車で大掛かりに除雪する必要もない。

 ひと昔前なら個人経営、自営業が多く、自己判断で大雪のため休業の決定を自己判断、自己決定できた。また従業員も近所、地域の人であるケースが多かったから通勤も近距離で済んだ。(昔になるほど生活圏、経済圏が狭く閉じていた。)

 他方、現代は大雪でも出勤せざるを得ない場合がある。現代、資本主義社会は網の目のように繋がったしがらみ社会でもあるから、誰かが抜けると、ある会社が休業になると、社会全体が機能しなくなる可能性がる。故に休みにくく災害級の大雪の中でも出勤せざるを得ない場合があり、またそれが渋滞などの2次災害を生ずる場合がある。

 

例3、江戸時代のライフスタイルの方が、コロナには対応し易いだろう。(鎖国、経済システムなどの社会システムについて。科学技術、医療知識などが同じであって単に社会システム、ライフスタイルが江戸時代的であったなら。)

 

例4、鳥インフルエンザの影響下では現代的な集合密集大規模な養鶏場は不利である。他方、前時代的に一家に1~数羽、鶏を飼っている状況の方が鳥インフルエンザも蔓延しづらく、かつ対応も容易である。

 

 

 真留句の第2法則・・・災害トラブルが生じた場合は、いろんな事柄について現代的手段が放棄されざるを得ず、替わりに原始的な手段が採用される。

 

 真留句の第2法則の系・・・・災害トラブルの対処には原始的な方法、昔の方法がトラブル解決の手段として有効な場合がある。

 

例1、先の大雪の例。バスに乗っていた人が大雪の渋滞、まったく進まなくなった際に途中下車して原始的な移動手段である徒歩に移行する事がある。

 

 

例2、コロナ下でのいろんな対応策

 

 外食が減り自炊が増えた。自炊は外食に比べ前時代的行動である。

 コロナ下、企業が複業を推進し始めた。複業は資本主義的、時代的に原始的な形態である。他方、専業、分業は現代的な形態である。

 

例3、真留句の主張は以下である;コロナや過剰資本主義がもたらす今日の災害的トラブルの下では一般にいろんな事柄、ライフスタイルを昔のもの、昔の形態を参考にしてトラブル対応すれば良い。

 

 

〇2、社会の病としてのコロナ

 

 コロナは人間個人が罹患する病であると同時に社会が罹患する病とも言える。

 コロナ対応には社会システムの修正、方向性の変更が必要な気がする。

 それは人間個人に置き換えるならば、あたかも温室育ちでひ弱に育ったもやしっ子が体質を改善し頑健な心身に変わるために、昔の日本人のライフスタイルや資本主義が進み過ぎてない、途上国の人々のライフスタイルを真似るのが類似例になるかも知れない。

 病にかかりづらく、そして病にかかったとしても、重症にならずに回復する体質へと自己を鍛えるのである。

 

 同様に社会システムや我々個人の生活も全体として(個々の例外はあろうが、大数として、また個人の生活のうちの割合として)、真留句が述べているような【昔の頑健なライフスタイル、社会システム】をある程度、真似る、参考にする、取り入れると良いと思う。

 

 

〇1、 目指すべき社会、理想の社会のバロメータ

 

 現在、生産者 < 消費者 、即ち消費者優位である。「お客様は神様」という言葉がこの事を象徴している。これはきっとバランスを欠いた状態なのだろう。

 

 目指すべき社会、理想の社会においてまだ生産者と消費者の区別があるとすれば、その目指すべき社会が実現した折にはきっと生産者と消費者が対等となるようなバランスになっていることだろう。

 

消費者優位である理由;

 

、商品がバランスを欠いて溢れているため。(但し、商品の質は悪い)これは資本主義が効率良く商品を大量生産できるからこうなる。

、お金が力を持ちすぎている。分業が進み過ぎた故に、生活する際に他者、社会に依存する割合が高くなった。社会との取引はお金を通じてなされる。お金が無いと生きて行けないのである。

、購買活動は選挙における投票の如き性格を有するが故に生産者(=お店側)は投票者たる消費者(=お客さん)に下手(したて)に出ざるを得ない部分がある。

 

それゆえ、この消費者優位のアンバランスの是正は

 

、良質の商品を多過ぎない適度な量で生産する事。(手作りの良質商品はそもそも大量生産できない。)そして良質の商品が大量生産の魂の抜けた商品よりも選らばれるようになる事。

DIY力を高め、分業への依存性を減らし、独立性を高める。それはまたお金からの独立性が高まる事も意味する。

 

によって行われる。

 

真留句のことば 真留句はこう言った 解説版5

真留句のことば 未完成版

 

 

〇 買い物(≒消費)の部 

 

 1.なるべく近くで作られた商品を、なるべく近くのお店で買うこと。

 

※ 近場の商店で購入できる物(例えば本など)を大手ネット通販で購入するのは避けたい。しかし近場で入手不可能なものは順次、遠方から入手せざるを得ない。

 また反資本主義的商品、即ち手作り品や無農薬栽培の農産物、環境負荷の低い商品といったものは生産者の偶然近場に住んでいない限りは入手が困難なのでどんどんネット通販を利用すれば良いと思う。これはネット社会のプラスの側面である。

 なお今後、こういった例外事項みたいなのは毎回、筆者が気づくとは限らないので言及抜けしてる場合も多々ありそう。そんな時は適宜、都合の良いように例外の場合などを解釈する事を読者に委ねる。

 

 

2、買い物の際は衣料、農作物、家屋、魚、狩猟、林業、畜産など一次産業の商品にお金をかける。

 

 

3、半Z半X・・・Zは2の1次産業的業、Xは1の自分の魂が命ずる業。

この半Z半Xにおいて他人のXを購入すること。(もしその商品が必要であって、他と商品と選択において競合する事があった場合)

 

  1. 4.made in Japanを買おう

 

  1. 5.長年、地域の生活を支えてきた地元のお店で買い物しよう

 

  1. 6.自分が働きたいと思うようなお店で買い物する事。自分が働く側にとても立てないような労働環境のお店では買い物しないこと。→ブラック企業の商品やサービスはボイコット、不買運動しよう。現代風に言えば、そう翻訳できるかも知れない。

 

  1. 7.どのようにして楽にカネ儲けをしようか、などと考えている暇があるならば、その時間と努力を商品の本質を見抜く眼を磨く事に費やすこと。生産者が商品にかけた手間と時間と努力を的確に判断できる眼を養うこと。

 

8、生産者が心を込めて、生きがいを持って生産している商品を買うこと。その商品は汝を幸福にし、また汝も生き甲斐をもって働ける仕事を持つことになろう。

 

10、買い物の際に適正な価格で購入する者は、働いた際にも労働の適正な対価を得られるようになる。

買い物の際に適正な価格で購入しない者は、働いた際にも労働の適正な対価を得る事が出来ない。

 

  1. 11.価格のみに心を捉われてしまわないこと

 

  1. 12.思慮なく貪欲な消費者の口は、労働者たる自らの尾を喰いつくしてしまう。

   ウロボロスの如くに

 

  1. 13.資本(主義)の貪欲な略奪運動のエネルギー源は、消費者のより安くて、より便利な商品を、より便利なお店で買おうとする個々人の欲望の集まりである。

(※ 資本の略奪・・・自然環境、資源、人間性の略奪を指す。)

 

  1. 14.ネット通販や量販店に比べ豊富ではないし、便利でもない。安くもない。

   それでも近所、地域の個人営業、自営業の小規模なお店で買い物せよ。

   それらのお店は十分、豊富であるし便利で適正な価格ではないか。それを不便で品揃えが少なく高いなどと言う者は、いくら食べてもまだ足りないと言って、飽く事なく食べ続け身体を悪くしてしまう者を笑う事は出来ない。 

 

 

 

 

〇 働く(≒生産)の部 

 

  1. 1.自分の魂が命ずる事に時間を費やすこと。

 

  1. 2.衣料、農作物、家屋、魚、狩猟、林業、畜産など一次産業を複業にする。

 

  1. 3.半Z半X・・・Zは2の1次産業的業、Xは1の自分の魂が命ずる業。

この半Z半Xにおいて自分のXを尊重し、また他人のXをも尊重すること。

 

  1. 4.機械はあまり使わず手作業しよう

 

  1. 5.手間を惜しまないこと。機械に頼り過ぎないこと。機械、効率に頼ることはある程度まで。行き過ぎに注意せよ。

 

  1. 6.自営業者達よ、汝らの商品は問題がない。大規模なお店、量販店、チェーン店を見習う必要などない。

 しかし、自営業者の何割かは接客、サービスにおいて量販店、チェーン店の接客、サービスを参考にすると良いであろう。もしお客に逃げられたくないのならば。

 

  1. 7.買った人を真に幸せにする商品を生産する者は、その労働を通して自らを幸せにする。

 

  1. 8.まだ技術が未熟で経験の浅い職人、生産者は、気持ちだけは一生懸命に生産活動に励むこと。その生産活動がもたらす商品は消費者も悪い気はしないだろう。

 ベテランの職人、生産者は慣れに油断することなきよう。経験が傲慢の気持ちを作るならば、その生産活動がもたらす商品は技術が十分であったとしても、一生懸命に生産された初心者の商品よりも嫌われる。

 

 

〇 その他

 

  1. 1.汗とともに、体の老廃物と、心の老廃物は外に出る。

汗をかかずにいるならば、やがて体の老廃物はたまって、体の病を引き起こし、

やがて心の老廃物はたまって、心の病を引き起こす。

 

 例:体の病 ⇒  アトピー性皮膚炎、アレルギー症状、成人病、各種病のリスク(心筋梗塞、ガンなど)

    心の病 ⇒  精神病、うつ病など

 

真留句リスト 真留句はこう言った 解説版3 ver.2.6

 この記事では脱資本主義のライフスタイルの、具体的なたくさんの行動をリストとして書き下すことにする。

 

 別記事、要約 解説版1では以下の事を述べた;

 

 ● 次のライフスタイルは、だいたい同じライフスタイルになる、一致、重複する部分が多い;コロナ対応のライフスタイル、脱資本主義的ライフスタイル、温暖化対策、持続可能な(SDGsな)ライフスタイル、現代の人間の幸福度を高めるライフスタイル、

 

 ● その大きな方向性は【昔のライフスタイル】を取り入れる事であり、その中でも特に大きな柱となるのは【生産と消費において、必需品(=衣食住に関わる商品)と、ローカルにウェイトを置くこと。】となる。

 

補足をつけて書けば【生産(=労働)と消費(=買い物)において、衣食住に関わる商品(=1次産業の商品)と、ローカル(=地産地消)にウェイトを置く。】となる。

 

本記事ではなるべくたくさんのやや具体性を帯びた行動を書く事にする。

 

 各項目はコロナ対応、対過剰資本主義の両方に有効な事柄もあれば、コロナ対応にはあまり関係なく、過剰資本主義対策のみに有効な事柄もある。

 リストの後には各項目に対する多少~長い、コメントを書いてみた。

 

 なお、あらゆる局面で【バランスと調和】がキーワードとなる。【中庸こそ黄金】と、いう諺が西洋にもある。我々東洋には【過ぎたるは猶及ばざるが如し】がある。現在の資本主義の状況はまさしくこの2つの言葉が相応しい。

         

 中庸、即ち、バランス、均衡が大切というのは、古今東西、変わらないようである。

 なお、このリストは未完成である。完成は読者に委ねられている。

 

 

【反資本主義的ライフスタイルリスト】

 

【ローカル】と【バランス、均衡】はいろんな局面でキーワードとなる。

 

  1. 1.買い物 (=消費活動)

 1-a・・・買い物の際には衣食住、1次産業の商品にお金をかける(もちろん家を持っていたり、衣服を十分に持っている場合は買う必要はない。)

  1-b・・・買い物の際にはなるべく近くの商品を近い場所で買う。(ローカル)

 1-d・・・機械に作られた商品ではなく人の手がかかった商品を買う。

1-e  他人のX(半農半X等の好きな仕事Xの事)の商品、サービスを買う。

 

 

  1. 2.働くこと (=生産活動)

 

 2-a・・・本物と呼べるような1次産業の商品の生産を目指す。新しい商品やサービスをイノベーションする必要はもはやない。

 

 2-b・・・複業してみる。(アンチ分業・・・資本主義における局所的効率性と昔のライ

フスタイルのおける大局的効率性)

 2-c・・・生活の中でDIY(=自分ですること)する事を増やす。

2-d・・・機械ではなく、人の手で労働し商品を生産すること。手業の復権

2-e ・・・労働の際に、半農半Xあるいは半Z半XにおけるXのような、自分が好きな事、労働している間、幸福感を感じられる仕事、あるいはやりがいの感じられる仕事をする。

 

  1. 3.身体を動かす

   3-a・・・労働  肉体労働、農業、林業

   3-b・・・移動  徒歩、走る、自転車、公共交通機関

 

  1. 3.教育

寺子屋形式、職人の徒弟制、家庭における教育、自学自習(DIY)、独学を重視、一度、社会人になってから、大学入学

 

  1. 4.借金しない(ローンしない)

 

  1. 5.田舎で生活する

 

6、薪ストーブを使う

7、睡眠を重視する。冬季はなるべく冬眠を目指す。

8、3世代家族、4世代家族で生活する。核家族はなるべく避ける。

9、結婚して子供を産む。家庭を築く。

10、きちんとした道具、商品を修理したりして末永く使う(そのようにすれば、労働力商品たる人も使い捨てられることなく、末永く社会で重用されるだろう。)

11、商品にせよお店にせよ、ある程度、便利ならば満足すること。便利と不便の両極の間にあるバランスを意識して選ぶこと。便利すぎるのには何らかのデメリットがある。

 

【科学技術、ライフスタイルのうちで残すものリスト】

 

51、インターネット(情報通信技術、あまり過剰になり過ぎないように)

52、デジタル地域通貨

(仏か悪魔はわからぬがコロナの託宣【リアルはローカルに、ヴァーチャルはグローバルに】を体現するものとしての)

 コロナで疲弊した地域経済立て直しの救世の御仏たりえるかも

 

【そぎ落とすもの、捨てるものリスト】

 

  1. 81.原子力発電所 (核兵器
  2. 82.AI技術
  3. 83.過剰な商品、システム(これは便利過ぎる商品、サービスのこと。過剰サービスの商品版)
  4. 84.使い捨て商品の使用(労働力商品たる人間も使い捨ての様相を帯びている。)
  5. 85.経済成長

 

【削減するもの、形態を変えたらいいかもリスト】

 

101、化石燃料を使うもの(エンジン、レジ袋、プラスチックトレーなど)

102、マイカ

103、飲食店(飲食店は必要だが、コロナ前までは過剰にあり過ぎたのでは?)

104、芸術活動(昔のお祭りにおけるが如くに個人個人が人生の一部の時間を芸術家として生きる時間を持つこと。専業(分業)芸術が過剰になり過ぎてるのでは?)

105、現物のグローバルな取引(輸入、輸出のこと)

 

【昔のライフスタイルのデメリット】

 

151、大雑把に言うとボンビーになり易い。収入は減る。金銭面には苦労しそう。これは、昔のライフスタイルを取った際の主要なデメリット、障害となる。そこはとりあえず節約やDIYで対処する。ライフスタイルをシフトすれば低収入でも十分豊かで幸福な生活が送れるはず。セミリタイヤ系ブログの生活術も参考になる。農産物など必需品の一般市場価格は安いので何とかなるだろう。

 

 

【ライフスタイルの転換のチャンス】

 

現在、コロナ状況下で失業、出勤日数減、倒産など、好ましくない状況である。

 しかし、どんな悪い事柄にも必ず良い面があるものである。

 1つは、他の新しいライフスタイルへの転換が安定状態の時よりもし易くなっている事である。し易いというよりは転換せざるを得ない、とも言える。

 経済学の用語では機会費用が低下していると言える。

 機会費用が低下しているのであれば別の行動を取り易くなる。

 このコロナの好ましくない状況を活かして、脱資本主義、地球環境保全のライフスタイルを目指すのもいい気がする。

 

【理想的なライフスタイルに持ってゆく過渡的な戦略】

 

151のデメリットで述べたように、反資本主義ライフスタイルへの転換は金銭的不安を伴う。では、そのようなライフスタイルにどのようにして持って行くのか?

 

例;現在、給与を得て生活しているならば、会社から労働時間短縮の申し出があったら積極的に応じたり、転職したりして労働時間を減らす。そのようにして、とにかく、自分や家族が自由になる時間をまず確保する。給与所得が多少なりともある限り金銭面の不安はある程度拭い去る事ができる。

 現在、給与を得るための₊仕事がやりがい、生きがい、地球環境、社会分業重要度において好ましくないと感じられたならば、とにかく少しずつ、給与を得るための労働時間を減らす。そして自分の時間を少しずつ増やす。何といっても必要な資源は【時間】である。

 その時間を使って、自分のやりたい事をしたり、DIYで商品、サービスを生産したり、このリストのライフスタイルで生活を成り立たせる。

 そうして給与を得るため会社で働く時間を段階的に減らして、自分の理想の状態へ持って行く。

 自分が取り戻した時間を使って、DIYで生きていくに必要な商品、サービスを生産したり、余れば、他の人の商品(=結局は労働)と交換する。つまるところ、経済とは労働と労働の交換で成り立っているのである。おカネに替えたり、デジタル地域通貨でやりとりしたり、物々交換したり。途中、おカネに変わろうとも、最初と最後に注目すれば、交換されてるのは自分と他人の労働である。交換方法はオーソドックスなのはおカネだが、他もあるだろう。

 

※ 過渡戦略については、【真留句はこう言った コロナ以前ー6A 人生三分の計】も参照のこと。

 

 

【各項目に対してコメント】

 

〇 1、買い物

 

1-a・・・買い物の際には衣食住、1次産業の商品にお金をかける

 

 もちろん家を持っていたり、衣服を十分に持っている場合は新たに買う必要はない。衣服はある程度買ってしまえば、そんなに頻繁に買う必要はない。それゆえ買い物の際は衣食住に、というのは、即ち、買い物の際は食べ物にウェイトを置く、となる。

 家に関しては割高でも100年は持つような孫以降の世代まで持つような家を建てるのが反資本主義ライフスタイル。日々の貯金で貯めることになる。

 あるいはもっと現実的なのは田舎の空き家を賃貸、購入する事である。そのまま住めるなら申し分ない。そのまま住めない場合は構造のしっかりした昔の家屋をリフォームするのは効果的かも知れない。

 

 

 

1-b・・・買い物の際にはなるべく近くの商品を近い場所で買う。(ローカル)

 

ローカル、昔、資本主義的に低位な、不便(便利ではない)、といった概念はだいたい連動している。

 

 可能な限り、ローカルに買う、とは、昔の営業形態のお店で、地域のお店で買う事、とだいたい同じ意味になる事が多い。そういったところで買い物すると反資本主義的と言える。

 他方、止むを得ない場合を除いて、現代的なグローバルな、便利な、ネット通販の利用は慎む。これらを用いた便利な買い物は資本主義的行動である。

 

 また途上国の労働を搾取して製造された輸入品の購入もなるべく慎みたい。貧しい国の劣悪な労働環境の犠牲の上で我々が安価な生活を送るというのはこれもまた避けるべきだろう。

 

 

 ところで地域のお店は、不便、品ぞろえが豊富ではない、割高、などの特徴がある。

 正確には、適度に便利、適度な品揃え、適正価格なのだろう。

他の大型店やネット通販、コンビニが度を越して、便利過ぎる、品ぞろえが豊富過ぎる、割安過ぎるのである。

 

 羊飼いが【汝の敵を愛せよ】と言った如くに

 真留句ならば【汝の割高で、品揃えが少なく、不便なお店を愛せよ】

 と言うでしょう。

 

 

(未完メモ、税、迷惑施設)

 

 

 

● 1-d・・・機械に作られた商品ではなく人の手がかかった商品を買う。

 

 特に大事な事例は食べ物である。食べ物こそが人の身体、そして心を作るからである。

食べ物はリレーみたいな部分がある。

生産者(農家)、販売店、調理者、食べる人

のリレーである。すべての段階で人の手がきちんとかかっていれば申し分ない。

そう言った食べ物は食後、心身ともに調子の良さ、元気、エネルギーをもたらす。

 しかし、なかなか自分で農産物を生産したり、人の手で育った農産物は市場には流通し難いものである。心配無用、スーパーの全国流通の農産物でも調理の段階で充分、挽回可能である。お母さんの愛情こもった料理が心身に良い影響をもたらすのは、良い実例である。なお火力はIHヒーターよりはガスが好ましく、ガスよりも直火、炭火がもっと良い。

 

インスタント食品はなるべく避けたいが止むを得ないならば、せめて盛り付けの際にいい加減にせずに心を込めること。これだけでも差が出るはず。

 

なお最終走者たる食べる人は、それまでの前走者に感謝してなるべく冷めないうちに、よく噛んで食べるのが良さそう。 

 

 人の手がかかるほど、食べ物にも心の力が宿り、他方、機械で生産された食べ物には心の力は宿り難い。

 

以下、未筆

 

〇 2、働くこと

 

● 2-a  本物と呼べるような1次産業の商品の生産を目指す。新しい商品やサービスをイノベーションする必要はない。

 

 今、世の中に1番必要な商品として私が思い浮かぶのは、昔ながらの【本物】の農産物、衣服、家である。

 人間の生活にとって必要不可欠な衣食住に関わる商品であるが故に、生産における機械化が進み、大量に効率よく生産され、大量に不足なく市場に出回るようになった。

 そういった1次産業の商品が不足なく市場に流通しているが故に、さらなる豊かさを象徴する3次産業の勃興が起こったとも言える。

 しかしながら、機械化と大量生産は商品の質を著しく低下させた。特に外見ではなく、その本質を、である。必要不可欠な衣食住の商品の形骸化は【足下がおろそかになっている】という言葉がまさしく、相応しい。

 世の中に必要な商品、サービスは概ね、出尽くしている感がある。これ以降に新規に現れる商品、サービスは装飾的、あるいは百害あって一利あり(一利を強調して世の中に出回る)的な属性を帯びている事だろう。

 さて、現在1番、世の中に必要な商品の【本物の農産物、衣服、家】に話を戻そう。これらがおカネ儲けになるとか、商売にすれば儲かるとかの意味で言っているのではない。

 人の生活の復興において、今、1番、ウェイトを置くべきなのは【本物の農産物、衣服、家】と言っているのである。【本物の】大雑把なイメージは【昔の生産方法で作られた、農産物、衣服、家屋】ということになる。

 以下、自給用となるが具体例として畑で野菜なり水田でお米なりを(入門者には畑の方がお手軽)、自分で育ててみると、これが何の事だか体得できるはず。なるべく機械、ガソリンを使わず、手作業ですること。肥料、農薬は使わず、その際には適度な手間と時間と愛情をかけること。かけ過ぎは却って有害なり。(人における子育てと同様、生き物に共通か?)

以下、未筆。

 

 

 ● 2-b  複業・・・・アンチ分業(専業)としての

 

 分業(=専業)は生産効率が良い生産様式である。他方、【効率が良い】という、一見、文句のつけようのない、求められるべき事柄、それ自体が、【効率が通常、あるいは普通】という中庸の状態から逸脱していて、バランス、均衡からの逸脱への端緒となっているのかも知れない。とすれば、効率がイマイチにせよ複業にはバランス、均衡をもたらす可能性を秘め+ている。

 ここでは複業の有効性を説明することにする。

 

例1、コロナで3次産業、飲食業、観光業、職業芸術家の生産活動が困難となった。他方、3次産業、農業、林業水産業、大工、他各種職人の生産活動はそれほど困難にはならなっかた。例えば農業は自然にコロナ3密が回避されている。

 

 そこで1次産業を複業に組み込むことは、コロナ下の失業状態、遊休状態回避の1つの方法となる。いわゆる労働のリスク分散とも言える。1次産業のうち特に農業がオーソドックスである。自営でも雇用されるのでも、どちらでも良い。自営の場合、おカネにならなくても良い。おカネで間接的に購入するにせよ、DIYで直接現物を生産するにせよ、途中のルートは異なれど、自分の生活に必要な商品を入手するという最終目的は同一である。

 なお1次産業にこだわる理由は2-aの文章も参照されたい。

 

● 以下の例は通常とは違った意味の複業のススメである。【分業の局所的効率性】に対して、【複業の大局的効率性を説く。】

 

例2、サラリーマン川柳に【スポーツジム 車で行って チャリをこぐ】というのがある。

科学技術による機械化、自動車の普及によって、通勤、工場、事務所における生産活動まで【それぞれ】の段階、現場では効率性がある。生活が分業的であると良いだろう。

 他方、社会全体なり人の生活全体という大局的視野から見ると事情は違ってくる。

 普段は車を使い、汗をかく肉体労働から解放されて効率的な生産が行われる一方、運動不足対策により、休日などに別途、わざわざ商品の生産とは無関係に肉体労働をする必要が出てくる。スポーツジムを使うとなると肉体労働のためにおカネを得るのではなく支払う必要も出てくる。

 

 こうなると、普段から時間がかかっても徒歩や自転車で通勤したり、生産において非効率的であっても肉体労働することの大局的効率性の良さが見えて来る。

 昔のライフスタイルは局所的には効率が悪いが、全体として大局的には整合性がとれていてバランスが良いようである。

 

例3、やはり自動車と徒歩の長期的な視点

 

例2においては1週間単位の規模での自動車とウォーキングがテーマであった。

 この例3では長期的な観点で見る。若い頃から定年あたりまで、車に頼り切りで、ほとんど歩かなかった人が、健康維持のために定年後、急に歩き出すケースがある。

 今まで歩かなかった【人生における歩くという行為】を取り戻すかの如く歩く。

 これも分業的である。成人~老年までほとんど分業的に移動は車に頼り、老年において移動が目的でなく肉体や精神の健康のため、暇つぶしのために歩くのである。

 これならば、普段から複業的に車と徒歩、自転車のバランスを考えて生活していた方が合理的といえたケースもあるだろう。

 

例4、1人の人間の労働における分業

 最近はどうかわからないが、一度、会社に勤務して働きだすと、本を読む暇もないくらいに、人生における時間が仕事に捧げられるケースが多々あったようだ。

 保育園~高校、大学までは勉強ばかり、就職すると今度は仕事ばかり、定年すると時間を持て余す。これは分業的一生と言える。バランスが良くないように見える。

 

 他方、複業的人生を考えて見よう;

 

(イ)週1~4日ほど勤務しながら、大学や放送大学で学ぶ。(学費を親が稼がなくて良いのが大きい)

   週1~4日ほど勤務しながら、職人に弟子入りする。

   週1~4日ほど勤務しながら、自営業やNPONGOの活動をする。Etc

 

 なお、完全に労働しないのは肉体的にも精神的にも良くない気がする。健康ならば自給用、DIYでも十分などで何らかの労働を(自炊とか)する。

 

(ロ) 中卒、高卒で一度、会社勤めする。おカネをある程度貯めたら、また大学、放送大学で学ぶ。(これは教皇シオン様(=前聖戦ではアリエス黄金聖闘士)のアイディア)

 

 長い間、勉強ばかりでは学問の意義、必要性が見えてこない場合が往々にある。会社勤めすることで何故、学問や学びが必要なのか分かる時もある。先の分業人生の例では学問の必要性を会社勤めの最中に気づいても、もはや手遅れで読書する暇もないケースが多々ある。昔は若いうちから働いたものである。一度、会社勤めして社会を担ってから、学問の必要性がわかった、という声を周りでもよく聞く。

 また大学時代によく名著を読むものである、とか言われるが、学徒のみの経験では本の内容にピンと来ないケースもある。一度、会社勤めなり、社会を経験すると、あぁ、こういうことなのか、と分かるケースも多々ある。

 一度、会社勤めしてからの方が読書の吸収の効率が良くなるケースもあるという事である。本の内容がよく分からないのは自分の知的能力に問題があるのではなく、単に社会経験不足、時期的に本と相性が良くない年頃、ということもある。同じ本同じ読者に対して、相性がいい時期もあれば、悪い時期もある、ということ。 

 また、親が大学の教育費を稼がなくていいのもメリットである。

 

 

● 2-d  機械ではなく、人の手で労働し商品を生産すること。手業の復権

 

 マルクスは分業が効率的かつ質も優れた商品を生産できる形態であるとした。そしてそれが旧来の職人を駆逐してしまうと。

確かに、効率的であり、かつ職人を駆逐してしまう、という点においては同意する。しかしながら質に関する点については検討を要する。

 現実に現在、世の中に溢れる商品は安くとも、質が低廉である場合が多い。

 

 質の主要な低下の原因は後回しにして、先ずは副次的な質の低下原因を述べる。

 

 確かに分業は労働者の部分的熟練度を高める。それは商品の高品質化にも繋がる。しかしながら、分業が行き過ぎると今度は部分部分の高品質は商品全体のバランスの低落という犠牲をもたらすのである。しかし適度な分業はやはり必要である。分業をし過ぎず、かと言って、まったく排除することなく、適度なバランスのとれた分業でストップする必要がある。

 

例1、包丁

 分業を全くしないと、まず鉄の精製、柄の材料たる木材の伐採、などなどとても、1人でやれたものではない。

 適度なのは以下の分業であろう;

 鍛冶屋さん、研屋さん、柄を作る人、販売店

 

 行き過ぎた分業の実例はこの包丁では例示し難い。

 

例2、思想の普及

 本来の意味からはやや外れるがある程度の分業が効果的である事例;

 思想、宗教の普及についてである。

 世界に広まっている優れた思想、宗教には共通点がある。それは、思想なり宗教の創始者は自らは思想を本などにまとめはせずに、行為と言葉による教えのみに終始している場合が多い。

 創始者の言行録や経典化は弟子や後世の信徒、支持者が行った。

 

 例を挙げるならば、

 ソクラテス、イエスマホメット、釈迦、孔子である。

 

 ソクラテスは弟子のプラトンソクラテスを登場人物とした対話篇を書いた。

 広く強い影響力を持つ宗教の創始者、釈迦、イエスマホメットの言行録をまとめ経典としたのは弟子や後世の信徒達である。

 

 このように思想の普及は、思想の創始と普及が分業で行われる方が広まるようである。

 

 これには、思想の創始者と紹介者が同一であるよりも別々である方が、人間にとって心理的に受容し易い、というのも理由の1つであるように筆者には思われる。

 例えば、このブログの内容を

a、実際にそうであるように筆者が考えた内容

b、筆者の知人の意見から引用したもの

c、社会学者の〇〇氏の見解

の各ケースである時、読者によっては内容が誰の見解であるかによって受容度や受け止め方に随分と差が出る場合があると思う。もちろん、内容のみで判断して誰の意見であるかにあまり左右されない読者もいる、と思う。

 

 脱線が長くなってしまった。さて今から述べるのが質の低下の主要要因である。それはコスト削減と大量生産による収入の増加、儲けを目指す事に始まる。

 コスト削減は主に原材料の質を落とすこと、(人の)手間の削減といった形を取る。

 他方、大量生産は生産の機械化という形を取る事が多い。特に機械が生産を担当し始めると、大量な生産が可能になる。

 人が生産するにせよ、機械が生産するにせよ、生産の量が増えると質は減る。量が減ると質は増す。 

 質+量=一定、 あるいは、 質×量=一定

は、ある程度現実を反映した数式と言えそう。

 

 商品が売れるかどうかは見た目と価格が物を言う。機械を用いて中身、質を落として、生産量を増やし、価格を下げる。

 このような生産方法でなされた商品が資本主義社会では勝利を収め、他方、原材料と手間のしっかりかかった商品は駆逐される。かくして、商品の質が低下する事となる。

 

 

例、お米

 

田植え機、コンバイン、機械乾燥のお米が市場の主流である。大量生産、安価であり、人々の生活を支える。

手植え、手刈り、天日干しのお米は前者に比べ質は勝るが生産量は圧倒的に少ない。育てるのに手間がかかる。こういった代物は、市場には出回り難い。

 

以上のような考察から今後は人の手間、手業で質の良い商品、サービスを生産するのが望ましいように思われる。

 

 

● また別の問題・・・商品に宿る心

 

 非科学的と思われるであろうが、商品生産の際に人の手間がかかるほど、商品に心のパワーが宿るように思われる。他方、機械が生産を担うほど、心のパワーは商品から抜けていく。

 具体例としては、先述の2-aで挙げた、自らの手で育てた農作物と、スーパーに並ぶ全国流通の農産物、あるいは冷凍食品、インスタント食品、ファストフードを食べた後の食後数時間後のフィジカル、メンタルの調子を意識されれば実感されると思う。

 または職人の刃物と100円ショップの刃物、などを比べるなど。

 

 将来的にAI技術の発展が農産物の生産を人間の手以上に上手にする可能性もあるが、心の力というものの真偽はさておき、現段階では人の手により商品に心の力が宿る、とみなす考え方は有効であるように思われる。

 

● 労働者(=人間)の精神衛生と自己肯定感

 手業で商品が上手に作れるように熟練することは人に自尊心と誇りをもたらす。これも大きい。

 熟練への過程が職人の誇り、自分自身への価値を育む。それは自己肯定感をもたらし精神衛生に良い。

 近年はコモディティ的な仕事、誰でも代用が効く仕事が増えた。その状況下では仕事を通して自己肯定感を感じるのが概して難しい傾向になる。

 

以下に仕事であるか否かに関わらず、手業や鍛錬の道になる分野を書いてみる。

例、陶芸、手打ちそば、絵画、写真、読書、音楽、農作業、お茶、生け花、ブログ執筆、俳句、書道、武道、猟師、調理、掃除、ゲーム、手芸、衣服作成、衣服修繕、ジョギング、筋トレを通した肉体鍛錬、ヨガ、塊集、プラモデル、模型など。

 

また個人経営の商店において商品を並べる。

スーパーのような大手のようには、むやみに品ぞろえを豊富には出来ないので、少ない品揃えと配置の中にこそむしろ店主の個性、感性、顧客への思いが滲み出る。これとても単純なようで奥が深く手業と筆者はみなさざるを得ない。

 大手スーパーの如くにポイントカードの購買履歴に基づいてコンピュータなり戦略部門が仕入れを決定した商品を並べるだけの分業的仕事は前者の品揃えを少なくせざるを得ないが自己裁量の大きい個人営業のお店に比べて手業度数が低い。

 

〇 4、借金しない、ローンを組まない

 

 戦前までは日本人には借金をする風習が無かった。借金を恥と思う心がかつての日本人にはあったらしい。

 ところが、高度経済成長期あたりからか「貯めて買う」から「借りて買う」に移行したそうだ。

 その方が経済効果が高い。経済界や政府が、そういう風に誘導したのかも知れない。

借金は資本主義的事柄であり、「貯めて買う」は反資本主義的事柄である。

 

 高度経済成長期時代の雇用が安定している時期なら、ローンで夢のマイホームも有効であったかも知れない。

 他方、先行き不透明にして不安定なる昨今なれば、夢のマイホームと借金の不安とプレッシャー、ストレスを秤にかければ、ローンが有効ではない気がする。

 借金が無ければ身軽で、変化に対応し易い。他方、借金あれば、変化を迫られる際に借金が無い場合に比べ、さらに難易度が上がる。借金があると、おカネの借金を背負う人に対する支配力が格段に高まるのである。

 

〇 7、睡眠を重視する。冬季はなるべく冬眠を目指す。

 

 コロナが猛威を振るう冬季には、コロナ対応として熊の冬眠をお手本とするのが良い。

 

〇 9、結婚して子供を産む。家庭を築く。

 

 セミリタイヤ系などの方で金銭的事情で、結婚や子供を産むことを躊躇なされてる方々も多いと思われるが、金銭のことは気にせず、結婚し、子供を産み、家庭を築かれても大丈夫だと思う。

 

 自然界の生き物はつがいを為し、子を産んで育てる。やはり結婚して子供を育てるのが生き物の一員としての人も自然な行為だろう。

 このまま過剰資本主義社会に属しているような人々のみが子孫を残せば、温暖化などで地球上で生き物は生存できなくなり遅かれ早かれ、人類滅亡、子孫断絶である。

 他方、【反過剰資本主義】勢力たるセミリタイヤ系などの方がご家庭を築かれるならば、反過剰資本主義の勢力拡大、地球上の生き物存続のためにも良い。

 

 将来有望な農業、林業、漁師、猟師、大工、各種職人といった職業は学費よりも良い師に就く事が重要である。また大学レベルの学問を学びたいならば、子供が社会人となって自ら学費を稼げば良い。また、本や放送大学があれば独学で学べる。現在ならばインターネットも独学の助けとなる。農産物同様、学問も「原材料(本)」は学費に比べ安価に済むのである。あとは本人の自炊のやる気次第、もとい、本人の向学心次第である。親が高額の教育費を稼ぐ必要はないと思う。ただご近所に学生の向学心を刺激するような師と呼べる人がいればもっといい気がする。

 

 正しい道を歩んでるなら、自然界の摂理も加勢して下さるだろうし、何とかなるだろう。

 

 

〇11、商品にせよお店にせよ、ある程度、便利ならば満足すること。便利と不便の両極の間にあるバランスを意識して選ぶこと。便利すぎるのには何らかのデメリットがある。

 

 便利過ぎるネット通販、コンビニの使用は過剰資本主義の勢力に加担する事になる。

 

 資本主義が進展するにつれ表層的には消費者が優位になって、生産者が不利になって行く、という見方もできる。

 資本主義が進展して消費者が優位に立って便利なお店を使える反面、生産者(=労働者)としては深夜労働など不利な労働形態となって行く。

 またネット通販利用はおカネを都市部、中央へと流し、地方自治、地域の自立を損なう事となる。

 それは国からの交付金への依存、ひいてはセットでやって来る核廃棄物最終処理処分施設などの迷惑施設の受け入れの助長などにつながる。

 

 

 

 

〇 52、デジタル地域通貨(仏か悪魔はわからぬがコロナの託宣【リアルはローカルに、ヴァーチャルはグローバルに】を体現するものとしての)

 

 

真留句0(ゼロ)で

 

「コロナは標語的には

 

【ヴァーチャルはグローバルに、リアルはローカルに】

 

※ 【情報はグローバルに、現物はローカルに】

 

 

※ 英訳; 【Real may local,virtual may global.】

 

を人類に提案してるのではないだろうか。」

 

と書いた。

 

これは社会システムがそのようであれば、コロナは拡散しづらいし、過剰資本主義における多くの問題が解決されそうでもある。

 この理念を体現する1つの象徴的商品、サービス、システムがある。

 それは【デジタル地域通貨】である。

 

 筆者も年のせいか、新奇な物に対する忌避感、苦手意識が生じる今日この頃である。

 デジタルのカタカナに警戒心を覚え、コロナ下の救世の仏となるのか、はたまた、地球環境を破壊し人々や生き物の魂を苦しめる悪魔となるか、使う人間の心、魂次第なのであろうか、と思いを馳せる。

 デジタル地域通貨が悪用されずに、地球や人類、生き物にとって益となることを筆者は願っている。

 

 デジタル地域通貨の事を詳しくチェックした訳ではないので憶測の部分もあって無責任な部分もあるが書いてみる;

 

 〇 デジタル地域通貨のメリット

 

● 地域通貨のメリット、地域での消費活動を推進する。地域を潤す。それは地域の税収の増加に繋がる。それは国への依存性を減らし地域の自立を高める。それはそのまま昔の状態への回帰であり、脱資本主義的状態への移行である。

 

● かつて地域通貨のデメリット、難点であったシステム導入のコスト、壁を大幅に軽減してそうなイメージがある。(ここは憶測)IT技術の長所が今回は活きそうである。

 また旧来の地域通貨使用の際の不便さも解消し、より便利になってそうである。

 

● 結論から書くならば【デジタル地域通貨】はコロナで疲弊した地域経済立て直しの救世の仏となる可能性がある;

魚の如くに腐る地域通貨(=減価する貨幣、マイナス利子の貨幣)は消費者に購買活動を強制する。また減価分は自治体の税収、地域通貨運営費とする。

減価する通貨は消費者はなるべく手放そう(購入活動をする、ということ)とするので地域内での経済の高速回転に寄与する。

 

初稿 2020年秋頃

最終改訂日 2023年1月22日